第8話 「乗り越えよう」
林を抜け、彼はある家に向かっていた。
服についた土などは一切気にせず、ただひたすらに走る。息が切れ、喉の奥が切れたのか血の味が口に滲んだ。
それでも足を止めず、走り続け目的の家にたどり着いた。
赤い屋根。二階建てで、大きい一軒家。
ここは彼の元彼女、希子の家だった。
彼は見上げながら息を整え、汗を拭いとる。ドキドキと跳ねる胸を押さえ、落ち着かせた。
赤いドアへと近づき、隣にあるインターホンを見て、右手を添えた。
「…………っ」
押そうとする手は震えており、なかなか呼び出し音を鳴らす事が出来ない。
「大丈夫、大丈夫」
自身に言い聞かせるように呟き、顔を上げた。眉を吊り上げ、今度こそインターホンを鳴らす。
高鳴る心臓を落ち着かせるため大きく息を吸い、吐いた。
不安な表情はない。それどころか、今は口元に笑みまで浮かんでいる。
「気持ちが軽い。今まで閉ざされていたものが解放されたような感覚だ」
笑みを浮かべていた彼は、インターホンから聞こえた声により気を引き締め、笑みを消した。
『はい』
「こんにちは、俺は橘敦です。希子さんにお話があり来ました」
何も隠す事はせず、自身の名前を名乗る。すると、ガチャンという音と共にドアの奥が騒がしくなった。
何が起きたのかわからず、敦は首を傾げた。
足音が徐々に大きくなってきたと思いきや、勢いよくドアが開かれた。
敦は小さな悲鳴を上げ、後ろに一歩下がった。
「あ、敦。何で……」
ラフな格好をしている希子が、驚愕の声を上げながら敦に問いかける。
頬がほんの少しだけ赤い。声には緊張が乗っており、ドアノブを握る右手は震えていた。
敦は彼女の様子に眉を下げ、拳を握る。
「希子」
「敦、何で来たの。私と貴方は、もう終わったんじゃなかったの。なんで……」
希子は敦から目を逸らし、体を震わせる。その震えは恐怖から来ているのか、それともまた違った感情から来ているものなのか、敦には分からない。
敦は、少しでも希子が楽に話を聞いてくれるように、優しく微笑みながら一定の距離で話しかけた。
「希子、俺は間違えていた。間違えていると、気づけたんだ。だから謝りたく、ここに来た」
話し出した敦から目を逸らす希子。彼女の態度に眉を下げ、口を閉ざしそうになる敦だが、自身を奮い立たせ言葉を繋げた。
「俺は、俺のせいで希子が酷い目にあっていると思ったんだ。俺が何かをすれば、今以上に酷い事をされる。そう、思ってしまったんだ。だが、それは俺が間違えていた。俺は、俺を守るために希子から離れてしまった。本当に情けないと思う」
痛む胸を押さえ、顔を俯かせる。声が震え、喉が絞まり言葉が詰まってしまった。
彼を横目で見て、希子は口を強く噛み締める。何か言いたいが、言葉が出てこない。
早く伝えなければと敦は息を一度のみ、震える唇を動かし続きを伝えた。
「情けないと思われても、弱い男と思われても構わない。俺は、君を守りたい。また、君の笑顔を見たいんだ。だから、俺が君のそばにいることを許しては、くれないだろうか」
強く握っていた拳を緩め、ゆっくりと彼女へと差し出す。彼から差し出された手を見つめ、希子は眉を顰めた。
何も発する事をしない希子に対し、敦は何も言わない。ずっと手を差し伸べ続け、待つ。急かす事すらしない彼に、希子は唇を噛んだ。
「今更、今更だよ。いきなり私から離れて、今度はまたそうやって希望を持たせようとする。身勝手にも、程があるよ」
彼女の声はか細く、耳を澄ませなければ聞こえないほど小さい。
緊張と怒りで声が震えている希子に、敦は謝罪しか言えない。
「ごめん、身勝手だとは思う。身勝手に君を振り回せてしまったと思う。だから、この手は無理に取らなくてもいい。取らなくても、俺は現状をどうにかして見せるから。君の笑顔を見るために、俺は動くから」
言い切った彼の瞳には、決意の炎が宿っており目を逸らせない。
メラメラと燃え上がり、光り輝く瞳に、希子はの瞳に光が宿る。
ここで彼から逃げれば、今度は希子自身が彼を見捨てた事になる。そう感じた希子は、口を強く噛み締め、眉を吊り上げた。
胸元を強く掴んでいた彼女の右手はゆっくりと動き出し、彼の手に重ねられる。
彼女の手が重ねられた時、敦は驚き、確認の意を込め希子の瞳を見た。
「信じる、貴方を、信じる。私も、頑張るよ。貴方だけに辛い思いをさせたくない、貴方だけに責任を背負わせない。これは私の問題、だから……」
「君の問題ではない、俺達の問題だ。二人で抱えて、乗り越えよう」
重ねられた手を握り、自身へと引き寄せる。彼女は抗う事はせず、そのまま彼の胸元に。宝物を抱きしめるように、敦は希子を包み込んだ。
「うん、これからも、よろしくお願いします!!!」
最近、見る事すら出来なかった彼女の笑顔。透明な雫が輝く瞳から零れ落ちた。
二人の幸せな空間、そこに一つの鋭い瞳。
ドアが閉まる直前に見えたのは、赤縁眼鏡をかけ、レンズの奥から憎しみの込められた瞳を送っている希久の姿だった。
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