第三章 FIVE

 それからしばらくしてから、明日の準備があるからと、真は自分のマンションに戻っ行った。


 彼女の話しでは、間もなく入れ替わりで竜二が来る予定だから、それまで絶対に外に出てはいけないと言うことだった。


 部屋にシールド張ったので、外に出ない限りはしばらく安全なのだそう。


 前にシールドの事を聞いた時、彼女は冗談にもならない嘘を言ったのだが、改めて由沙が質問すると一応ちゃんと答えてくれた。


 シールドとは、その名の通り、自分を守る為の能力だ。

 三種類あり、それが、物理シールドと、PKシールドと、空間シールドなのだそうだ。

 真が部屋に張ったシールドは、空間シールド。


 一種の結界的な空間を作り、それを張る事によって一般人の目を誤魔化す事が出来るらしい。


 つまり、シールドをこの部屋に張ると、敵が来ても気付かずに素通りしてしまう。504号室の隣にあるこの505号室は、存在しないように見えるそうなのだ。

 505を飛び越し、506が隣の部屋に見えてしまうのだと言う。


 なんでも、指定の場所に力をそそぎ込む事によって、視覚では捕らえる事の出来ない盲点をつくり出すのだそう。

 能力で作られた見えない霧のようなものが、特定の時間内だけ人の視覚を狂わす作用を起こすらしい。


 と説明して貰ったが、由沙には何だかよく分からない話しだった。

 結局ぴんとこなかったので、曖昧に分かった振りをしただけ。

 能力に目覚めていない由沙に、能力の仕組みなど分かろう筈もない。


 ・・・・そんなことより、ゆかりはどうなっただろう?


 静まり返った部屋で、由沙は昼間のことを思い出した。

 もし同調しなければ、ゆかりは自分にコントロールという力を使っていたのだろうか?


 恐ろしい思いをさせられ、もしかしたら狂わされていたかも・・・・。


 確かに、ゆかりは恐ろしい。


 彼女がした事は許せない行為だし、理由もなく故意に人を傷つけるのは悪い事だと思う。

 実際に、由沙は身の毛もよだつような体験をしたのだ。


 それなのに、何故かゆかりに対しての怒りが少なかった。


 いや、同調するまでは激しく怒っていた。嫌悪感も凄かったし、何よりも彼女が恐ろしかった。


 勿論今でも、全くないと言えば嘘になる。が、パニックになる程ではない。

 それより、ゆかりの秘密を見てしまった罪悪感の方が、由沙の心を重たくしていた。


 おまけに自分は、彼女に剥き出しのままの悪意をぶつけた。

 激しい、ずたずたに引き裂くような悪意だ。


 テレパストを体験した由沙は、それがどれほどの苦痛をもたらすか、身を持って知ったのである。


 カチカチカチ。時計の音が、耳障りに響いた。

 時刻は、もう深夜の二時を回っている。

 こうしていると、余計に落ち着かない気持ちになった。


 ────じっとしているのは嫌。


 由沙は、しばらく考えていたが、意を決するとソファーから起き上がった。

 真がテーブルの上に置いてれてた眼鏡を取って、耳にひっかける。


 まだ制服のままだったので、素早くジ-ンズと水色のコットンシャツに着替え、ゆかりの黒いジャケットを羽織った。


 真は絶対出るなと言っていたが・・・・・。


 すぐ戻ってくれば、大丈夫だろう。遠くに行くつもりもないし、マンションの近くを一周するだけだ。

 心の中で言い訳をし、箪笥の上の鍵を握った。


 そのまま玄関に向かい、スニーカーを履く。そして、戸を開けて外にそっと足を踏み出した。


 ゆかりのマンションは、由沙の通う学校のすぐ裏にあった。

 マンションと言えば、二十階くらいの大きなマンションを思い浮かべるかもしれない。しかし由沙が暮らす町は、お世辞にも大きいとはいえない所。


 そのマンションも、6階建てというちっぽけなものだった。

 それでも、出来たばかりの新築のマンション。由沙は、マンションから出てしばらくゆかりの部屋の窓を見上げていたが、小さい溜め息と共にくるりと背を向けた。


 ぼんやりと照らす街灯の下で、ちらりと時計を覗く。

 時刻は、二時三十五分を示していた。


 ──────補導とかされたりして。


 少し不安が過ったが、すぐにそれを胸の奥に押し込める。

 普段の由沙なら、夜中に外へ出ようなどと思う事もなかったろう。けれど今は、モラルに従う気にはなれなかった。


 遠くにある、ちらちらと光の残った窓明かりを見つめながら、ゆっくりと歩き出す。


 しかし、しばらく歩いていて、勢いのまま飛び出した事を後悔した。

 外に出れば少しは気が紛れるのではと思ったが、それは思い違いだと気付いたのだ。大体狙われているかもしれないのに、部屋を出てしまったなんてどうかしている。


 もし何かが起こった時、どうすればいいのかも分からないと言うのに・・・・。

 暗闇を歩いているうちに、段々心細くなってきた。


 やっぱり戻ろうか?そう思ったが、なんとなくそれも情け無い気がする。

 もう少し歩いて、それでも気が紛れなかったら帰ろう。


 なるべく街灯の多い道を、由沙は大通りに平行して歩いた。そのうち、左が鬱蒼とした松林に変わる。


 ちょろちょろちょろ、溝川の水が流れる音。

 時々車と擦れ違ったが、襲って来るような気配はなかった。


 遠くでエンジン音が響いては消えていく。どこからか、叔父さんが鼻唄を歌っているのが聞こえた。


 静かな夜だ。空は晴れ渡り、きらきらと星が瞬いている。


 由沙は星空を見上げ、何時か父と手を繋いで歩いた事を思い出した。

 そう、あれは夏。よっちゃん達と一緒に、花火を見に行った帰りだ。


 十三の時だったな。

 あの頃は、毎日が楽しかった。


 星空が、少し滲んだ。


 ────泣いてたってしょうがないのに。

 由沙は眼鏡の隙間から、指で涙を拭いた。


 五月も半ばだと言うのに、夜の風は冷たい。ぶるっと身震いして、両手をポケットの中に突っ込む。


 不意に、ゆかりの記憶が蘇った。

 ゆかりには、そんな思い出さえも無いのだろう。


 由沙が見たゆかりの過去は、断片的なほんの少しだけれど、それでもかなりの衝撃を受けた。多分、彼女はあれ以上の辛い思い出を持っている。


 不思議な気持ちだった。


 ゆかりは、確かに怖い。傲慢だし偉そうだし自信過剰だし、びっくりするくらい冷淡だ。人が死んでも、人を傷付けても、何事もなかったように平然としていいる。


 ゆかりの過去を知ったからとて、同情する余地は無い筈。

 なのに由沙は、もうゆかりを毛嫌いする気にはなれなくなっていた。


 期待している訳でもない。


 ただ、なんだか放っておいてはいけない気がするのだ。

 あんな経験をしたのだ、性格が歪んでも仕方無い。


 もしかすると・・・・。


 もしかするとゆかりは、由沙が彼女に自分の苦しみを悪意に変えてぶつけていたように彼女も自分の苦しみを由沙にぶつけていたのかもしれなかった。


 あの小さな叫びは、ゆかりからの救難信号だったのではないだろうか?

 歪んでいく自分を、助けて欲しいと言う・・・・。


 そんな事をぼんやりと考えながら歩いていると、不意に自分と違う足音がある事に気付いた。


 立ち止まって、後ろを振り返る。

 見えるのは、向こうまで続く街灯と、照らし出されたアスファルト。窓の明かりは、さっきより減ったようだった。


 気のせいだろうか?


 また歩き出す。すると、足音も歩き出した。


 ─────気のせいじゃない。


 由沙は、確かめる為に走り出した。やはり、足音も走り出す。


 どうしよう・・・・。

 とにかく、振り切ろう。足には自信がある。


 足音は、由沙に合わせて速さを増していく。由沙は、追いつかれないよう更に早く走った。


 途中、角を曲がって広い通りを目指す。いくらなんでも、車通りのある所で襲って来たりはしないだろうと思ったのだ。


 通りに出た頃には、すっかり息が上がっていた。


 ぜいぜい肩をゆらしながら、ちらりと後ろを振り返る。怪しい者の影は、全然見当たらなかった。


 諦めたかな?


 ほっとして、足を緩めた。車が続けざまに通り、由沙の姿をライトに映し出して行く。


 五十メ-トル先に、コンビニがあった。由沙は、取り合えずそこまで行く事にした。本当にやばい時は、そこから真か竜二の携帯へ電話をかければいい。


 その時彼女は、広い通りに出た事ですっかり安心しきっていた。彼女にとっての追手は、つけて来た怪しい足音だけだったのだ。


 由沙の横を、黒いワゴン車が通り過ぎて行く。それは、閉店した酒屋の自動販売機の前で止まり、中から二人の男を吐き出した。


 二人とも、ジーンズにジージャン姿の若い男だ。一人はロン毛で、もう一人は短く刈り上げた金髪頭だった。


 彼らは、ごく自然にポケットから財布を出し、自動販売機に硬化を入れた。


 一人が、取り出し口に手を突っ込む。

 その時、後ろから声が響いた。


 「由沙、伏せて!」


 何だか分からないまま、由沙は咄嗟に歩道の上に身をかがめた。

 同時に、プシュッと間の抜けた音が響く。経験から、それが消音された銃声だとすぐに分かった。


 目の前で、男が腕を撃ち抜かれて倒れた。ドリンクの缶を取ろうとしていた、ロン毛の男だ。手からジュ-スの缶ではなく、銃がぽろりと落ちる。


 そいつは血塗れの腕を抑え、地面を激しく転げ回った。


 すぐに隣の男が、Gジャンの下から銃を抜く。声の主は、相手が発砲するより早く、そいつの手からも銃を弾き飛ばしていた。


 男が、舌打ちして車に乗り込んだ。撃たれた男も銃を拾い、苦しげな様子で後に続く。車は再び二人を飲み込むと、瞬く間に逃走していった。


 一瞬の出来事だ。由沙は夢でも見ていたような気分で、車が去って行った道路を見つめた。


 ・・・・何だったんだろう?


 それに、あの声は────。


 はっと我に返って振り返ると、ゆかりが銃をジーンズの後ろに差し込みながら、ゆっくりとこちらへ向かって来る所だった。


 何時も制服姿という印象だったが、今は黒いブーツカットのジーンズに、薄いパープルのぴったりとしたシャツを着ている。足元は、厚底のブ-ツ。顔とスタイルがいいせいか彼女はどんな服を着てもよく似合っていた。


 「野本さん・・・・」


 いきなりのゆかりの出現に、どういう顔をしていいのか分からない。

 由沙は、襲われた事より、ゆかりとの接触の方に戸惑っていた。


 かける言葉が見つからぬまま、仕方無く黙ってゆかりが近づいて来るのを待った。



 「あんたがおもいっきり逃げるから、疲れちゃったわ」

 ゆかりは、由沙の前に来るなり言った。

 「えっ?じゃあ・・・・」


 「竜二の代わりに来たんだけど、マンションの前であんたの姿に出くわしたじゃない。正直、馬鹿かこいつはと思っちゃったわ。でも、声をかけて逃げられたら面倒でしょ。あんた逃げ足は早いから、疲れちゃうのよね」


 そう言って、ゆかりは肩を竦めた。


 良子の家の前、昼間、それに今。考えてみると、ゆかりは何時も由沙のピンチを救ってくれていた。


 ゆかりの表面や能力に恐れて今まで気がつかなかったが、本当は彼女に感謝しなければいけなかったのかもしれない。


 「あ・・・、えっと・・・・」

 由沙が口の中でもごもごしていると、ゆかりはおどけたように言った。


 「逃げないのね、珍しい。それとも、心優しい由沙ちゃんは、あたしの悲惨な過去を知って、同情してくれてる訳?」

 口許に笑みを浮かべ、相変わらずの調子。


 由沙は何も言えず、ゆかりの視線から目を逸らした。

 本当は、色々と言うべき言葉があった。けれど、上手く言葉にならない。


 体は大丈夫なのか、出て来てもいいのか、自分がぶつけた悪意で傷ついてるんじゃないか、本当は自分の顔など見たくないのではないか・・・・・。


 「あんた、馬鹿じゃない?どうして、そういう考え方が出来るのか不思議だわ。あたしがあんたに使おうとした力は、一瞬で人を廃人に出来る程の力なのよ。もしかしたら、狂ってたかもしれないのよ」

 ゆかりが、辛辣な調子で言った。


 由沙は、俯いたまま黙り込む。。


 そう、確かにゆかりの言う通りだ。自分でも、どうして彼女を許しているのか分からない。


 やっぱり、あれを見てしまったせいだろうか。

 由沙はあの時、ゆかりになっていた。だから、ゆかりの事を理解した訳ではないのだが、ゆかりの苦しみを胸に感じる事は出来た。


 あれを見てしまっては、ゆかりを責める事は出来ない。


 「あんたはいいわね、そうやって慈悲深い心で、悪魔でも許せてしまう訳ね。でもあたしは、それで感激するような女じゃないわよ。平気であんたの心を読んで、あんたの前に突きつけるのよ。だから、あんたはあたしの事を考える必要は無いわ。あんたは、あんたの事だけ考えなさい」


 由沙は、突然ぱっと顔を上げ、ゆかりをきっと睨みつけた。

 怒りが先にたったせいか、何時もは喉の奥でひっかかってしまう言葉が、次から次へと口をついて出てくる。


 「平気よ、私の心が見たいなら勝手に見ればいいわ。どうせ、今更隠したって意味ないもの。あなたは、どうしてそうなの?どうして、冷淡でいられるの?他人ばかりじゃない自分にだって冷た過ぎるわ」


 吐き出すように言って、真っ直ぐゆかりの目を見つめる。先程までの躊躇いはなく、強い思いを込めた眼差しであった。


 それは、全身でぶつかっていく由沙の性質。不器用な中に隠された、彼女本来の姿だ。


 生真面目な由沙は、人との付き合い方も中途半端には出来なかった。相手を思う程に、目を塞ぐ事が出来ない。間違っていると思うなら、それを教えてあげるのが正しい事だと信じていた。


 例え、誤解を招く事になろうとも・・・・。


 ゆかりに対してもそうだ。放っておけない限り、真っ直ぐ向かい合っていくしかないのだ。


 「そう言うの、大きなお世話って言うのよ。こっちこそ、あんたに聞きたいくらいだわ。どうして、あんたはそうなのかってね。あんたはただ、一時的にあたしの記憶に対して感情移入しているだけ。そのうち、それが馬鹿な事だったと思い知るでしょうよ」


 ゆかりは、由沙の視線を受け止めたまま言った。


 くっと、唇を噛む由沙。


 何でかなんて聞かれても、自分でさえ分からない。どうして、ゆかりを放っておけないのか。何故、こんな必死な気持ちになるのか。



 「私は・・・・・」

 「真があんたに忠告した事、あたしに対して守る必要はないわ。あたしは、傷つかない。あたしは、そんな弱い人間じゃない。あたしは、強いのよ」


 通り過ぎる車のヘッドライトが、ゆかりの整った顔を照らした。


 自信に満ちた口調、何処までも暗い闇を映す薄い色の瞳、そして・・・。


 ゆかりの顔から、笑みが消えていた。


 由沙はその事に気付いて、ちょっとだけ眉を上げる。

 「野本さんが笑ってない顔って、初めて見るわ」


 ゆかりは、自分の表情に気付いていなかったのか、ちょっと意外そうな顔になった。

 「そう?あたしは別に、意識してないわよ。きっと、癖なのね」


 彼女はそう言って、また口許に笑みを浮かべたが、由沙にはそれが本当の事かどうか分からなかった。


 「それと、ゆかりでいいわ。さん付けで呼ばれると、気持ち悪いのよね」

 「青山さんは、さん付けで呼んでるじゃない」

 「あいつは、あたしが嫌がるのを知ってて言ってるのよ。昔っから、糞ムカつく奴だわ。あいつも竜二も、呼び捨てで充分よ。聞いてるだけで虫酸が走るから、あんたもそうしなさい」


 由沙は、思わず顔を顰めた。


 ゆかりの言葉は、何時も軽い調子なので真意が掴めない。真は言っている事が全部本当に聞こえるのだが、ゆかりは言っている事が全て嘘に聞こえる。


 大事な話しや真剣な話しになるほど、ゆかりは人を馬鹿にしたような喋り方になる。そして、いつの間にかはぐらかされるのだ。


 ふざけた態度を取られるなら、まだ辛辣な方が増しのような気がした。


 「それよりさ、あんた暇そうだから、ちょっと付き合いなさい」

 その言葉で、由沙の顔が益々顰められる。

 「あなたって、どうしてそう命令口調なの?」


 「気持ちいいからよ。人に命令してると、自分が偉くなったような気がするのね」

 「・・・・また、真面目に話そうって気にはならないの?」


 ゆかりは、けらけら笑って歩き出した。

 仏頂面のまま、仕方無く由沙も歩き出す。


 「前の時もそうだけど、さっきのあれも、プロだと思うわ。真が言った通り、あいつらあんたを殺すつもりみたいね」


 いきなり軽い調子で言われたので、由沙は一瞬何の事か分からなかった。


 「えっ?」

 などと、思わず間の抜けた声を出してしまう。


 「あんた、耳が無いの?あれは、あんたを殺す為に雇われた、プロだって言ったのよ」

 「そんな、私を殺す為って・・・・。何の為に?」

 由沙は、戸惑ったように尋ねた。


 「さあね、まだ分からないわ。あんた、こそこそ聞き耳をたててた癖に、何にも聞いてなかったのね。あ-あ、こっちが間抜けに思えてくるわ」

 ゆかりは、それっきり喋らなくなった。由沙も、無言で彼女の隣を歩く。


 しばらくして二人は、浜辺の方へ出た。


 風が無いせいか、海は穏やかに波を打っている。何時の間にか雲から出てきた月が、水しぶきをきらきら照らしていた。


 「昔の事よ」


 ぽつり、海を見ていたゆかりが呟く。

 「は?」

 またもや由沙は、間抜けな返事を返してしまった。


 けれどゆかりは、別に咎める様子もなく続ける。

 「あんなが見たのは、全部昔の事よ」


 ゆかりは、かがんで砂をひとすくい掴んだ。それを、波間へと叩きつけるように投げる


 「過去のあたしは、死んだの。過ぎ去ってしまったものは、どうしようもないわよね。あたし、振り返るのは嫌いなの」

 由沙はゆかりから視線を外し、黙ったまま海を見つめた。


 過ぎ去ってしまったものはどうしようもない、・・・・・か。

 そうかもしれない。けれど、そこにあった思いは、一体何処に行くのだろう。


 何時までも、波間を彷徨っているのだろうか・・・・。


 「竜二、怪しい男を見つけたらしいわ。一週間ほど前、正明とブラインドっていうバーで会ってんだって。そいつ、まだこの町のホテルにいるみたいよ。明日、そいつに会ってみようと思うの。そうすれば、色々聞き出せるでしょ」

 「聞き出すって、どうやって?」


 「トランシーバーでも、相手がその時思ってないと分からないからね。直接会って、誘導してみるわ。ホテルにでも誘えば、大方聞き出せると思うけど・・・・」

 ぎょっとして、由沙はゆかりの腕を掴んだ。

 「ホテルって、まさか・・・・」


 「驚く事じゃないわよ。今までのあたしの仕事は、情報収拾が主だったんだもの。重要な事を読むには、ベッドの中が最適ね。必要な事だけ教えてくれるわ。他の事に熱中してる時って、余分な思考が省かれていいのよ」


 「駄目よ」

 由沙は、掴む指にぐっと力を入れた。


 「トランシーバーって、人に触れられる事が一番苦痛なんでしょ?私、追体験をしたから知ってるのよ。ましてや、そんな事・・・・」

 「・・・・・痛いんだけど」


 ゆかりに言われ、由沙ははっとして手を離した。自分が触れるのも、ゆかりにとっては苦痛かもしれないと、今まで気がつかなかったのだ。


 「言った筈よ、あんたはあんたの心配をしてなさい。あたしは、平気よ。仕事だと思ったら、何だって出来るわ。そりゃ気持ちいいもんじゃないけど、別にどうって事ない。あたしは別に、あんたの為にする訳じゃないわ。少しでも早く邪魔を排除して、自分の仕事を終わらせたいだけよ。だから、あんたにとやかく言われる筋合いはないの」


 「じゃあ、どうしてそういう事を言うのよ!関係ないからどうぞ、なんて、私に言える訳ないじゃない!知ったら、私は止めるわ。それが私に関係なくっても、絶対止めると思う!」

 拳を握りしめ、由沙は全身で怒りを露にして怒鳴った。


 やり切れない思いに、涙が滲んでくる。

 なんだか知らないが、ゆかりを見ていると胸が痛くなるのだ。


 世の中には楽しい事が一杯ある筈なのに、この少女はその全てに背を向けて生きている。どうしてそこまでして、会社の為に働いているのかも分からない。


 そんな、体を売るような事をしてまで・・・・・。


 「なんで、あんたが泣くのよ・・・・」

 ゆかりは、溜め息をついて呟いた。


「あんたは、馬鹿だわ。自分の事だけ考えてりゃいいのに。他人の為に胸を傷めるなんて無意味な事よ。クラスの人達を見なさい、誰があんたの事を考えてる?あんたが彼らを思うほど、彼らはあんたの事を思ってなんかいないわよ。それどころか、あんたがどう思っているかさえ知りゃしない。知らずに、非難ばっかしてんじゃない。あんたがいくら傷ついても、他人はあんたに何もしてくれやしないわよ」


 「分かってるわよ、そんな事。でも胸が痛いんだから、仕方無いじゃない」

 由沙は、涙を堪えながら、怒ったように言った。


 「あんたは、自分の感情をコントロ-ルする必要があるわ。エンジニアにとって、感情に振り回されるってのは、致命的な欠陥と言えるわね。そんなんじゃ、死ぬわよ」

 「私は、エンジニアじゃないもの。能力だって無いし、仮に能力があったとしっても、そんな気味の悪い会社に入ったりしないわ」


 剥きになって反論する由沙に、ゆかりは意地悪く笑いながら返す。


 「能力者には、表の世界に居場所なんかありゃしないのよ。あんただって、結局ETSに頼る事になるわ」

 色の薄い瞳が、何処までも暗い影に染まる。


 まるで、深い闇の底に沈んでいくような・・・・・。


 由沙は、彼女に対しての恐怖心は薄らいでいたものの、その瞳を見るたびに感じる戦慄は、どうしてもぬぐい去る事が出来なかった。

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