第三章 FOUR

 沈んでいく、沈んでいく。下へ下へ、深く深く。


 何かが由沙を追って、どんどん迫って来る。それは沈む彼女の体を捕らえ、凄い勢いで引っ張り上げた。


 閉ざされた意識が、苦痛に呻く。


 自分とは違う記憶、自分とは違う意識。それは、彼女の中の異物。正常な細胞を侵す癌細胞のように、由沙の心を食らっていくのだ。


 由沙は、自分に向かって叩きつけられる悪意に満ちた叫びを聞いた。



 (化け物め!お前みたいな妖怪が、俺の娘なものか!)

 押し寄せてくる苦痛。

 声のない叫びは、由沙の胸をずたずたに引き裂く。


 同時に、こめかみを熱くする衝撃を感じた。

 眩暈によろけ、思わずそこを押さえる。

 ぬるっとした感触。広げた掌に、べっとりと血糊がつく。


 足元に、投げつけられた灰皿が転がっていた。

 ショックと激しい怒り。しかしそれに重なって、何も感じない空虚のような心。

 最愛の人から受けるものは、常にただ、苦痛のみ。


 『また、あの女の所へ行くの?』

 自分の口から出る言葉。違う、母親の口から出る言葉。

 分からなくなる。自分が、一体誰なのかさえも分からなくなる。


 父親が、もの凄い平手で彼女の頬を打った。

 体の痛み、そして心の痛み。何か凄まじいものが、一気に心の中に流れてくる。


 憎しみ、それも憎悪、そして嫌悪、自分に対する父の冷たい心。

 痛い、痛い、胸が焼けるように痛い。



 (気違いめ!母親も娘も、揃って狂っていやがる!)

 不意に、誰かが自分の首を締めた。


 髪を振り乱して、何かを呟きながら、その人は綺麗な顔に優しい微笑みを浮かべて、娘の首を締め上げる。

 (私が殺してあげる。あなたを、殺してあげる。愛しいあなた、大切なあなた。私を捨てないで、私を一人にしないで、私はあなたを愛しているのよ)



 違う!私は、パパじゃない!

 お願い、私を見て!心の中の私まで殺さないで!これ以上、私を狂わせないで!


 狂おしい程の思い。愛しいまでの憎悪。

 嫌、嫌、嫌。これ以上、見たくない。


 由沙の中に割り込んで来る異物は、受け入れる事の出来ないおぞましいもの。


 ダン、ダン、ダン。

 静かな部屋に、鈍い音が響く。

 くすんだ白い壁、冷たい床。汚い、塵溜のような部屋。


 格子を揺らす音、狂人の叫び。

 私は狂ってない。狂ってない。狂ってない。

 パイプベッドの角で、繰り返し足を打ちつける。青い痣ができ、破れた皮膚から赤い血が流れ出す。


 由沙は、狂わないようにそれを続けた。

 口許に笑みが零れる。自分を傷つける行為に快感を覚えた。痛みを感じる事は、彼女にとって唯一の救い。


 痛みを感じている時だけ、自分が生きているのだと実感出来たから。


 この世で尤も自分を愛してくれる筈の存在。

 その一人は、自分の姿など見ていなかった。そしてもう一人は、彼女を嫌いこの暗くて冷たい場所に閉じ込めただけ。


 母からは狂気、父からは憎悪だけを教えられた幼少時代。


 助けて!由沙の心が悲鳴をあげる。

 もういい、もういらない!

 彼女が今体験している事は、普通の精神では到底耐えきれない事だった。



 痛い、痛い、痛い。

 誰かに触れられる度に、苦痛が突き抜ける。

 違う人の心が、自分の心を押し流す。


 私は誰?私の気持ちは、一体何処にあるの?

 どうして私だけ、こんな苦しみを味合わねばならないの?


 憎い、憎い、一般人が憎い。

 嘘でも信じられる、彼らが憎い。

 私以外の全てが憎い。


 平気で剥き出しの悪意をぶつける、彼らが憎い。

 笑いながら、優しく笑いながら、平然と私を傷付ける。

 その心で、私を深い海の底へと突き落とす。


 (Disastaerだ。この娘は悪魔だ。我々にとっての災厄だ)

 エンジニア達が囁いた。恐怖と嫌悪を込めた目で見る。

 同じ能力者からも、受け入れて貰えない力。


 荒れ狂う狂人の心。

 心が凍っていく。感情が麻痺していく。

 自分を見上げる目。脅え泣き叫び地面を這いずり回る男。


 そうだ、苦しめばいい。惨めな屈辱を味わえばいい。自分と同じように、狂人になる恐怖を味わうがいい。


 見えない物を見せ、聞こえない物を聞かせ、感じないものを感じさせる。

 それが、私には出来るのだ。人間を狂人に変える事が出来る。


 由沙は、苦痛にのたうち回る男を見下ろした。狂気に蝕まれ、廃人になっていく姿を平然と見つめる。


 死よりつらい苦しみを与え、満足して北叟笑む。


 彼らの苦痛を胸に感じる度、快感が走り抜けた。まるで麻薬のように、麻痺した心に痛みを感じて酔い痴れる。


 そうだ、私は悪魔だ。私は、化け物だ。人の心など、微塵も持っていない。


 ─────違う、私は見たくないのよ。


 人の心なんて、見たくなんかない!

 私は、狂いたくない。化け物になんかなりたくない。

 有らん限りの思いで、激しく絶叫した。


 私は、人間よ!


 ふっと、何かに引き寄せられるように意識が浮上した。

 そして、光りが差し込む。ぼんやりと霞む視界に、見覚えのある顔が映った。


 「・・・・・青山さん?」

 「良かった、意識が戻ったんですね?」

 眼鏡をしていないので、真の表情はよく分からない。けれど、どこかほっとしたような声をしていた。


 「私、どうしたの?」

 不思議に思って周囲を見回す。


 眼を凝らして見ると、なんとなくそこが部屋の中だと言う事は分かった。いつ、この部屋に戻ったのだろう?

 寝心地の悪いソファ-の上で、少し体を動かす。


 記憶が混乱していた。

 夢の中で見たものが余りに生々しく、まだ自分がはっきりしない。


 「ゆかりさんから電話があったんです。今すぐ、港の公園に来るようにって。僕がそこに着いた時は、二人とも倒れていました。それで仕方無く竜二さんに電話して、車で君達をマンションに運んだんです。それから、十時間くらいたっていると思います」

 由沙は指でこめかみを押さえ、小さく首を振った。


 「私、どうしちゃったんだろう?・・・・・野本さんと一緒で、彼女が怖くて、何か怖い思いをさせられて・・・・」

 「多分君達は、意識の同調を起こしてしまったんでしょう。二人とも、そのショックで気を失ったんだと思います。ゆかりさんはともかく、トランシーバーでもない君がいきなり他意識に触れたんですからね、廃人になってもおかしくない状態だったんですよ」


 「トランシーバー・・・・・」

 由沙は、はっとして部屋の持ち主の気配を探した。

 けれど、部屋の中は真以外誰もいる気配はない。ゆかりは、そこには居ないようだった


 ほっとして、由沙はソファ-に凭れる。

 「意識の同調って、どういう事ですか?」

 「僕も上手く説明出来ないけど、自分の中に相手を取り入れるって言うのかな。普通は互いの意志がないと出来ないものだけど、意識レベルが近い相手だと、望まずにもそういう現象が起こってしまう場合があるようです。早い話し、君達は互いに心の中を晒し合った、って事になるのかな」


 「野本さんの心・・・・・」

 由沙は、夢の中で体験した、様々な苦しみを思い出した。


 ────そうか、あれは野本さんの・・・・。


 ゆかりを見ただけでは分からない、奥深い苦しみ。

 思い出して、ぞっと体を震わす。


 見てはいけないものを見た、そんな気分だ。


 「一般人は普通、心を読むトランシーバーを嫌悪する傾向があるんですけど、僕達能力者はそれがかなりきつい能力である事を知ってますから。同情はしても、一般人に比べて嫌悪感は少ないですね」

 真はそう言って、由沙の頭をぽんぽんと叩いた。


 遠回しだが、由沙がゆかりの心を見てしまった事に対する、彼女なりの慰めのようだった。


 そうだろう・・・・。


 自分が体験した出来事を思い返してみる。


 人の悪意が、直接心臓を抉るような感じだ。知りたくもない事が聞こえてくる。それを遮断する方法を持っていない場合、裸で針の上に横たわるようなものだろう。


 「一つ、言っておきたいことがあります。最近のトランシーバーは、無闇に人の心に触れたりはしないものです。長年の研究で、それが大変危険であると分かりましたから。トランシーバーが重度の心身症に陥るのは、大抵必要以上に他意識と接触した場合が殆どなんです。・・・・・今なら、君も分かるんじゃないですか?」


 由沙は、溜め息と共に頷いた。

 あれが、超能力か・・・・。


 テレパストが何時もあんな思いをするのだとしたら、自分には欲しくない力だと思った。

 ゆかりの記憶が脳裏にちらつく。


 「僕は、別にゆかりさんを弁護する訳じゃないですよ。彼女は、異質ですから。ただ、君がこの先ETSで働く事になれば、必ずトランシーバーとの接触がある筈です。その時、なるべく気をつけて貰いたいのです。悪意は、どんな弾丸より確実にトランシーバーを傷つける。普通の能力者なら相手も遮断出来るだろうけど、君はゆかりさんのような天才トランシーバーとでも、簡単に同調を引き起こしてしまう程の強い意識レベルなんです。出来れば、君に注意して貰いたいですね」


 ─────悪意は、どんな弾丸より確実にトランシーバーを傷付ける。


 由沙は、胸に抜けない刺が刺さったような痛みを感じた。

 「・・・野本さんは?」

 小さな声で尋ねる。

 「ゆかりさんは、まだ眠っています。今度の事は、彼女にとってもショッキングな出来事だったでしょうね。彼女が今までどんな風に生きて、何を考えてきたか、多分誰も知らないんじゃないかな。絶対に自分を見せない人ですから、君に知られた事を屈辱的に思っているかもしれません」


 全て見透かしているかのような、澄んだ真の黒瞳。

 溜め息をついて、由沙はその瞳から逃れた。俯いたまま、静かに目を閉じる。



 自分がもしゆかりだったら、どんな人間になっていたのだろう?

 あんな体験をすれば、やはり人を憎んでいたかもしれない。


 ゆかりは、自分が受けた事を、他人に対して同じように返していたのではないか?

 笑いながら、平然と傷つける。


 一般人なら傷つかなかった事も、テレパストなら直接言われるより、ずっと大きな傷を付けられるだろう。

 能力があるから悪いのだとは、流石に今の由沙には言えなかった。


 「ゆかりさんが心配ですか?あんなに嫌っていたのに?彼女は今、竜二さんの部屋に居ますよ。目覚めた時、二人が顔を合わせるのは、ちょっとまずいんじゃないかって。あなたもあの人も、どうしてそうお人好しなんでしょうね。心配する必要なんか、全く無いと思いますけど・・・・」

 冷たく言って、真は無表情の顔に戻った。


 由沙には、この青山真と言う人物も理解出来ない所があった。

 女なのに男装しているし、優しそうな雰囲気なのに冷たい事ばかり言う。それに、とても清潔な雰囲気をしていながら、平気で嘘をつくのだ。


 何故だろう?こんなに、透明な瞳を持っているのに・・・・。

 由沙は顔を上げ、真を見た。


 「前から思ってたんだけど、青山さんって野本さんが嫌いなんですか?」

 ゆかりに対して一線を置く真の態度や、やんわりとしているがきつい彼女の言葉を思い出して言う。


 「嫌いですよ。正直言って、顔も見たくないくらいです。それは、殆どの能力者が思ってる事なんじゃないかな。けれど、彼女の存在力と力は僕の利益になりますからね。必要なら、躊躇わない。それが、僕の信条です」


 真は平然と言って、にっこり笑った。

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