第三章 THREE

 ゆかりが部屋に戻って来たのは、もう夕暮れも間近に迫った頃だった。


 玄関の扉がバタンと扉が開く音を聞いて、由沙は慌ててまた隣の部屋に閉じ籠もる。ゆかりだけには、絶対会いたくなかったのだ。


 ゆかりと入れ代わりに、真は部屋を出て行った。

 残ったゆかりは、由沙が籠る部屋の戸を見つめて、口の端をにっと上げて笑う。

 そして、閉ざされた部屋に向かって愉快そうに言った。


 「由沙、そこでコソコソしてないで、出てくればいいじゃない。さっきだって、こっそり聞き耳を立ててた癖に。あんた、本当に馬鹿よね。そうやって逃げてばかりじゃ、何時までたっても先に進めやしないわよ。そりゃ、自分の失敗を信じたくなくて、責任転換しているような人だから、コソコソしてる方がお似合いだろうけど」


 嘲りを籠めて、ゆかり。

 明らかに、由沙を挑発している。


 すると、部屋の戸がガタンと乱暴に開き、怒りの表情をした由沙が姿を表した。

 じろり、無言のままゆかりを睨む。

 その表情には、負けてなるものかと言う、由沙本来の気の強さが現れていた。


 「あら、元気そうじゃない。言っとくけどね、何時までも八つ当たりされてたんじゃ、こっちもたまったもんじゃないわ。あたしは別に、慈善事業であんたを助けてんじゃないのよ。面倒見てやってる分、あんたにもちゃんと働いてもらうつもりだから」


 やはり、馬鹿にしたような言い方だ。由沙の顔が、更に険しくなった。

 余りの腹だたしさで、握った掌に爪が突き刺さる。


 「働くって、何をすればいいの?」

 ゆかりに従わねばならない屈辱感に、由沙の顔は色を無くしていた。

 それでもどうにか冷静になろうと、神経質に眼鏡を直す。今は従うしかないのだ。従わねば、父親を探して貰う事が出来なくなる。


 その為なら、なんだってやってやる。


 半ば自棄になって思っていると、ゆかりがニヤニヤ笑いながら言った。

 「・・・そうね、差し当たって、掃除でもして貰おうかしら?」

 「馬鹿にしないでよ!」

 ゆかりの態度で完全に切れた由沙、思わず握った拳を壁に叩きつけた。


 ドンと鈍い音が響き、振動が壁に立て掛けていたパネルを揺らす。

 怒りのぶつけ場所が分からぬまま、由沙は震える手を握りしめ、荒い息を吐いた。

 壁に叩き付けた拳が痛い。けれど、それより怒りの方で、頭が痛くなりそうだった。


 「ばーか、自覚のないあんたに、何が出来るって言うの?あたし達の足手まといにならないよう、せいぜい気をつけて貰うしかないでしょ。あんたは能力を開放するまで、あたしの小間使いでもしてりゃいいのよ」


 由沙に対してゆかりは、あくまでも同じ態度。口許に笑み、口調は何時も通り軽い。けれどその言葉は、突き刺すような冷たさを伴っていた。


 どうしてこの人は、こうなのだろう?

 悔しさを噛み締めながら思う。

 由沙を傷つける言葉ばかりつきつけ、苦しむ様子を見て平然と笑っているのだ。


 見下して、人を馬鹿にして、嘲笑する。


 自分だって人間なのだ、傷つけば痛いし、逃げたくなるほど苦しい。

 胸が、痛くて苦しくて仕方がない。罪悪感に、うちのめされそうになる。


 死にたくなるくらい、辛い。


 「・・・へぇ、死ぬ勇気なんかありゃしない癖に。あたしは、知ってんのよ。あんたは心の何処かで、死ななくてよかったとほっとしてる。助かって良かったと思ってる。ただ良心ってやつがそれを認めたくないから、罪悪感というものを作って納得させてるだけのことじゃない。ああ、あたしはこんなに苦しんでる、だから許されてもいいんじゃないか・・・ってね」


 由沙の顔から、さっと血が引いていった。

 まるで心臓を鷲掴みにされたように、激しい胸の痛みを感じた。

 息苦しく、堪らなく哀しく、そして途轍も無い不愉快さ。


 心の奥底を、無遠慮にひっかきまわされ、隠していた物を無理やり引きずり出されたような気分だった。

 蒼白な顔を一度俯け、大きく息を吐く。それから、再び悪魔の笑みを浮かべる少女を見た。


 そう言えば・・・・。

 ふと、疑問を感じる。


 ─────そう言えば、何故私の心が分かったのだろう?


 思っていた事、認めたくない事、でもどうしても思ってしまう事。

 それを、何故?


 タイミングが良過ぎるのだ。

 まるで、心を覗いているかのように・・・。

 気付いた瞬間、整理的な恐怖が由沙の胸を撫ぜた。


 「そう。そんなの簡単よ、あたしがトランシーバーだから」


 ガンと頭を殴られたようなショックが襲う。

 ゆかりは、由沙の心の中の疑問に、直接答える事で返したのである。


 そうだ、そうなのだ。


 カノジョハ、ワタシノココロヲヨンデイル。


 「その通り、あたしはあんたの考えている事が分かるのよ。トランシーバーは、会社用語。一般的に言えば、テレパストの事ね」


 事もなく告げ、彼女はけらけらと笑った。

 ・・・・・トランシーバー?・・・・・テレパスト?

 人の心を読む、感応能力者?


 ────まさか。


 ショックが、由沙中でじわじわと広がった。

 不可解なものへの恐怖、嫌悪感。

 ゆかりは、そんな由沙の恐怖すらも、平然と笑いながら見つめていた。


 まるで、恐れられる事が愉快とでも言うように・・・・。


 「醜いわよね、人の心って。自分の醜さを人に晒すのは、そりゃおぞましい事でしょうよ。特に委員長、あんたみたいに綺麗事が好きな人間なら、尚更よね。でも結局、あんたも同じなのよ。良い人間と悪い人間の違いは、口に出すか出さないかの違いでしかないわ。あんたは口に出さないから、大人達からいい子だって思われてるけど、本当は」


 ガシャン!

 由沙は、ゆかりの口を黙らせる為に、近くにあった花瓶を床に落とした。

 体が、がたがたと震えている。歯が鳴って、喋る事も出来ない。


 「あたしが、怖い?」


 適度に湿り気のある、柔らかな声で言った後、ゆかりはにっこりと笑った。

 それは、悪魔の微笑み・・・・・。


 「あんたみたいな人が、そうやって恐怖に脅え、苦痛に顔を歪めている姿って、中々見てて楽しいわよ。あたしは、他人のそういう姿を見てると気持ちいいの。あたしを憎む目が、背筋に快感を感じさせてくれるのね」


 この世のものとは思えない美しさ、それが由沙に一層の恐怖を与えた。

 天使の顔に、悪魔の心を持つ少女。

 その力は、魔に見入られた証拠。


 ゆかりが、ゆっくり立ち上がって歩いて来る。


 恐怖に戦きながら、由沙は視線だけ巡らせて逃げ場を探した。


 ────この人は、バケモノだ!


 玄関に向かって後ずさりしながら、心の中で叫んだ。


 バケモノだ!バケモノだ!バケモノだ!


 こっちへ来ないで!あっちに行って!私の前から消えて!

 ゆかりの笑みが、更ににっと引き上げられた。


 由沙は、あらん限りの嫌悪を胸に、後はもう何も考えずにゆかりに背を向ける。そしてこの化け物から一時でも早く逃げ出したいと願って、部屋から外へと飛び出した。


 エレベーターを待つのがもどかしく、階段を使って駆け降りる。それから、ただ遠くへ行く事だけを目的に、方角さえ意識しないまま走り出していた。


 ─────怖い、怖い、怖い。


 走る程に、恐怖が増していく。

 自分が狙われている事も忘れ、彼女はただひたすら走り続けた。


 あれは、何だ?


 あの少女は、本当に人間?

 人に、あんな事が出来るの?

 恐怖と嫌悪が混じり合い、頭を混乱させる。



 どれくらい走っただろう、とうとう走れなくなり、由沙は足を止めた。


 倒れるように地面に座り込み、空気を求めて喘ぐ。酸欠の頭が、ぼーっと霞んでいた。眩暈がする。心臓は飛び出しそうな程暴れ、吐き気がするくらい気分が悪かった。


 しばらくそのままで、呼吸が楽になるのを待つ。


 少し気分が落ち着いて来ると、由沙はゆっくりと周囲を見回した。

 そこは、海に近い公園。

 管理費をけちっているのか、あまり手入れがされていない様子だ。葉の繁った木が公園を囲むように植えられ、伸びた芝生が絨毯のように地面を覆っていた。


 中央には水の出ない噴水、その周囲を囲む形でセメントの道があり、それは公園の出口まで伸びていた。


 由沙は、公園の入口となる、枯れかけた蔦の絡まるア-チの側まで来て、へたってしまったようだ。


 思い出したように、ゆかりの姿がないか確かめる。

 いないのを確認すると、ほっとして立ち上がった。

 そのまま、アーチを潜って公園の中に入る。


 夕日が、空を真っ赤に染めていた。もう時間も遅いという事もあってか、公園には全く人の姿が見当たらない。


 植木塀の向こうに、時折通り過ぎていく車や自転車の影が見えたが、公園に人が入ってくる様子はないようだった。


 由沙は、砂埃が積もったセメントの道を、取り合えず噴水の方へ向かう。


 噴水は、近くで見ると所々が故意に壊され、水の張っていない内側に、色ペンキで様々な落書きが書きなぐってあった。


 溜め息をついて、噴水の枠に腰掛ける。

 まだ鳥肌が立っているが、気持ちはどうにか落ち着いたようだ。

 しかし、悪魔のような少女を思いだし、由沙はぶるりと身震いした。


 理解出来ない力に対する恐怖と、ゆかりの人を踏みにじる行為に対する嫌悪感。

 恐ろしい力を使って、人の心を侵す化け物。

 発作のように、恐怖が胸に登って来る。


 由沙は深呼吸をして、それを追いやろうとした。


 ・・・・その時、またあの呼び声を聞いた。


 自分を呼ぶ声。何処かから、頭の中に直接届けられているような・・・・。


 ガサガサガサ。


 いきなり由沙の後方で、空気が鳴る。高く伸びた雑草が激しく音をたてた。びくっとして振り返ると、その場所にいつの間にか男が横向きに倒れていた。


 ガサッガサッ。男が倒れている場所とは違う方向から、もう一つ草を掻き分ける音が聞こえる。


 由沙は、息を詰めてその音に耳を澄ませた。


 逃げたくても、逃げる事が出来ない。立ち上がった瞬間、殺されるのではないかという恐怖を感じた。

 硬直したまま、音が聞こえる方向に目を凝らす。


 ガサ、ガサ、ガサ。揺れる草が、倒れた男の方へ流れていく。やがて、ズズッ、ズズッという音と共に、男の体が更に深い草むらへと飲み込まれて行った。


 そして、ザザザッと草を割って現れる姿。


 もしかして・・・とは思ったが、やはりその通りだった。

 由沙が必死に逃げて来た相手、野本ゆかりがそこに立っていたのである。


 「ちっ、こいつらも何の情報もないわね。ただ雇われただけの、一般人の殺し屋みたい」

 ゆかりはつまらなそうに言ってから、由沙の方にグレーの瞳を向けた。


 「あんた、狙われてるって自覚がある訳?あたしや真が、交代であんたのガードをしてる意味、ちゃんと分かってる?シールドも張れないあんたが、のこのこ一人でこんな所にいりゃ、殺してくれって言ってるようなもんよ」

 気軽な口調と口許の笑みは何時も通り、まるで何事もなかったかの様子で、すたすたと近づいて来るゆかり。


 由沙は小さく叫んで、飛び上がるように立った。


 「こっ、来ないで!」


 彼女が近づいた分だけ下がり、喉の奥から言葉を絞り出す。

 ゆかりはやはり笑ったまま、おどけたように肩を竦めた。


 恐怖が、背筋を這い登ってくる。


 由沙とゆかりの間には、噴水という障害物が存在していた。けれどトランシーバーであるゆかりに対して、そんなものは何のガードにもなりはしないのだ。


 震える足で、また一歩後ろに下がる。すると、ゆかりも同じように一歩踏み出した。


 「そんな訳にはいかないわ、あんたはあたしのターゲットなんだもの。ETSに引き入れるまで、離れる訳にはいかないのよ。お互い、不本意だとしてもね・・・・」

 「そんなの、あなたの勝手じゃない。私には、関係ないわよ!」

 由沙は、恐怖と生理的嫌悪を押さえつけ、強い調子で言った。


 ゆかりの勝手な言いぐさに、ふつふつと怒りが涌いて来る。


 「・・・へぇ、関係ないねぇ。都合のいい逃げ言葉だわ。あんたはそうやって、自分に都合のいいものだけ選んで、後は関係ないですませればいい訳ね」

 「あっ、あなただってそうじゃない!」

 良子が炎に中にいた時、ゆかりは関係ないと言い切ったではないか。


 自分のことを棚に上げて、よく人を非難出来るものだ。


 「あら、あたしは別に非難なんてしてないわよ。それが、人間ってものだもの。あたしはただ、事実をそのまま口にしただけだわ。あんたの存在が、原田一家を死に追いやった。命を狙われているあんたが、原田良子に保護を求めたからよ。あんたが勝手に動けば、また誰かが犠牲になるかもしれない。それでも、関係ないって言う訳ね?その危険を回避出来るのは、あたし達しかいないってのに・・・」


 由沙の言葉に全く動じる事なく、ゆかりは平然と言葉を返す。

 胸の中の不快感が、更に一周り大きくなった。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ。こんな人の、側に居るのも嫌だ。


 ゆかりに対する嫌悪感が、激しく膨らんでいく。


 「一般人は、そうやってトランシーバーを嫌悪するみたいだけど、あんたもこれからETSの人間になるのよ。トランシ-バ-なんて、それこそ山のように存在するものだから、あんたも必ず何人かと接触しなきゃならなくなる」


 ゆかりはまた一歩由沙に近づき、冷たい声で命令した。


 「慣れなさい。あたしに慣れたら、大抵のトランシーバーとは問題なく接触出来る筈よ。トランシーバーのやり方は、こうやって相手の心を乱して、より多くの情報を得る事。それに耐えられないようじゃ、エンジニアにはなれないわ」

 「私は、エンジニアになんかならない!」


 由沙の叫びが、静かな空気を揺らし、青空に吸い込まれるように響いた。

 その後、少しの沈黙が落ちる。


 「能力者は、そこにしか存在する意味はないのよ。一般人の中に、居場所なんてない。能力は、己の一部だわ。それを否定して、生きていく事は出来ない」


 ゆかりの涼しい声が、沈黙を破った。

 「あんたは、いずれ能力に目覚める。真の話しでは、あんたの能力には強力なプロテクトがかかっているそうじゃない。真って、あれで結構優秀なスクリーンよ。つまり、あんたのプロテクトは、その真の能力さえ遮断していると言う事。それって、あんたの力がそれだけ強いという証拠な訳。強い力は、何時までも閉じ込めておく事は出来ない」


 威圧的な調子で言った後、ゆかりは軽く肩を竦めた。そして、今度はいかにも軽薄な調子になり、おどけたように言う。


 「因みに、スクリーンってサイコメトラーの事よ。会社用語だから、あんたも覚えて。透視能力者はスコープ、テレパストはトランシーバー。大体能力者は、訓練すればセンサー能力を持つ事が出来るわ。センサーってのは、危険察知能力。その名の通り、自分の周囲に起こった異変を瞬時に知る事が出来る能力よ。応用すれば、それを使って敵の裏をかいたり、敵に遭遇する事なく逃げる事も出来る訳。ただ個人差があるから、誰もが誰もって訳にはいかない。そういう場合、センサー能力に優れてるスクリーンやトランシーバーを専門としてチームに加えるのが普通ね」


 「そんな話し、聞いても仕方無いわ」

 追い詰められた表情で、由沙は歯の間から苦しそうに言葉を吐き出した。


 このまま、この人から逃げられないのだろうか。こんな気持ちで、無理やりエンジニアにされてしまうのだろうか?


 いや、そんな事は無い。何故なら、由沙にはそんな能力は無いのだから。

 悪魔の力など、一生必要無いと思った。


 「いい事を教えてあげましょうか?あたしがエンジニア達の間で、どういう風に呼ばれているか」


 由沙の頑な様子さえも楽しむように、ゆかりの可愛らしい唇が開いた。


 きらり。眼鏡の縁に反射した光が目に入り、思わず由沙は目を細める。同時に、その単語がゆかりの口から発せられた。


 「Disastaer」


 その言葉を聞いた途端、由沙の中でまたあの呼び声が聞こえた。

 違う、呼び声なんてものじゃない。今のは、叫びだ。

 由沙は脅えた目で、ゆかりをじっと見つめた。


 「・・・・・Disastaer?」


 単語が、由沙の声で繰り返される。


 「訳してあげる?・・・・災厄よ。エンジニア達は、あたしをそう呼んでるわ」

 ゆかりは、さもその名が気に入っているかのように、柔らかな笑みを美しい顔に浮かべた。


 ────災厄────、そう呼ばれる少女。


 ・・・・・その名の通りではないか。


 ゆかりは、由沙の元にそれを運んで来た。

 こんな、訳のわからない状況を。

 天使の顔を持つ悪魔。ゆかりは、まさしくそうだった。


 「言っておくけど、あたしがそう呼ばれるのは、トランシーバーだからじゃないわ。トランシーバーなんて、別に恐れる程のものではないもの。あたしがコントローラーだから、彼らは脅えているのよ」


 さわさわさわ、風が木の枝を揺らす。一歩後ろに下がろうとして、踵が何かにぶつかった。転がった小石を踏んで、危うく転びそうになる。

 どうにか持ち堪えたが、恐怖の為かそれっきり由沙の足は動かなくなった。


 冷汗が流れる。髪を揺らすのは爽やかな夕風でありながら、木枯らしと熱風を吹きつけられたような、暑さと肌寒さを同時に感じた。



 「コントローラーって、何?」

 「人の感覚を操る力。見えない物を見せ、聞こえないものを聞かせ、感じないものを感じさせる事が出来る者、それこそ悪魔よ」

 ぞっと、凄まじい恐怖が背筋を突き抜けた。


 由沙は震える体を両手で抱き、催眠術にかかったように、ゆかりの薄い瞳を見つめ続けた。

 逸らそうにも、逸らす事が出来ない。

 まるで、瞳の奥の深い闇の中へ、引きずりこまて行くような気分だ。


 由沙の心の中で、更に大きな叫びが広がった。


 「見せてあげましょうか?・・・・楽しいわよ」

 ゆかりの囁きのあと、一瞬、くらりと眩暈がする。何か、さわさわと耳の奥をくすぐった。


 サワサワサワ、奇妙な音が続く。


 ゆかりが何かしようとしているのだと、由沙は直観的に感じた。


 「・・・・止めて」

 弱々しい声が漏れる。

 「駄目よ、これからが楽しいんだから」

 いつの間に距離を縮めたのか、ゆかりは由沙のすぐ側に立っていた。

 「これがあたしの力よ」

 耳元で囁いて、彼女は由沙の眼鏡をそっと外した。


 爪先から、何か気持ちの悪い感触が這い上がって来る。

 見開いた目に、黒いうねりのような物が蠢いていた。まだ日は沈んでいないというのに周囲が薄闇に包まれていく。


 それはまるで、悪夢の中にたたき込まれたような感じ。

 声にならない悲鳴。


 嫌!嫌!嫌!嫌!


 人間じゃない、この人は人間じゃない。人間の皮を被った、化け物だ!


 「あんたがあたしをどう思おうと、それは勝手よ。確かに、一般人から見たらあたしは、化け物かもしれない。でも、あんたみたいな考え方をする一般人がいるから、あたし達能力者はどんどん居場所を奪われていくのよ。能力者の気持ちが分からないあんたに、能力者をとやかく言う資格なんてないわ」


 ゆかりの声が囁く。


 けれど姿は見えない。由沙の視界には、深い闇とおぞましい何かしか見えなかった。

 ズン。黒々とした固まりが、胸を圧迫する。

 深い虚無につき落とされていくような、譬えようもない不愉快さ。


 それは一瞬、恐怖を押しつぶす程の勢いで膨らんだが、またすぐに萎んでしまった。そして、心の中から消え去る。


 恐怖が、再び蘇った。


 「そうやって、何時までも脅えていればいいわ。嘘で固められた心に満足して、あたしを化け物だと罵っていればいい。あたしは、あんたごときにどう思われても、別に痛くも痒くもないわ」


 囁き。同時に、叫び。

 頭が痛い。何かで連打されているような、激しい痛みに襲われる。


 気持ち悪い感触が、由沙の体を這い登り首筋を撫ぜた。ぬめりとしたナメクジのようなものに、体中を嘗められているような感じだ。


 譬えようもない、不快感。気が狂いそうな共鳴音。

 由沙は動けないまま、悪夢の中で迸る絶叫を吐いた。


 合わせるように、叫び、叫び、叫び。


 何かが、由沙の頭の中で膨れあがる。


 拒絶する。けれど、割り込んで来る。



 ────これは、何?



 嫌だ、入って来ないで。

 私の中に、入って来ないで!


 自分とは違う思い。

 自分と違う記憶。


 何かと何かがぶつかって、一つになる。


 叫び!叫!叫び!叫び!


 ────いやああああぁぁぁぁっ!


 その気持ち悪い感覚で、ついに由沙はパニック状態になった。

 反狂乱のまま、叫び続ける。


 突然、大きな波に浚われた。そのまま波に揉まれ、海の底へと沈んでいく。

 深い深い、海の底より深い闇。やがて、由沙の意識は途切れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る