第二章 FOUR
そこは、港の奥にある大きな冷凍用倉庫の前だった。
時刻は、深夜十二時を回った所。辺りはしんと静まり返り、深い闇に包まれている。
時折、港を俳諧する野犬が、高らかに吠える声が聞こえていた。
「彼女、原田良子って子の家に逃げ込んだぜ」
暗闇の中、低い男の声が響く。
倉庫の前に、闇に紛れて一台の車が止まっていた。声を出した男は、その車のドライバーズシ-トに座っていた人物だ。
「大体、あんたが悪いのよ。無自覚の子に逃げられるなんて、間抜け過ぎるわ」
次に、助手席に座っていた人物が、涼し気な声で言う。
耳に心地好い響きを帯びた、少女の声である。しかし喋り方は、その声に反して少しきつそうだった。
「確かに、僕の不注意ですよ。まさか、彼女が逃げるなんて思っていませんでしたから。それにしても彼女、どうして逃げたんでしょうね?」
今度は、車に寄り添うように止めたオフロードバイクの上で、すらりと細身のシルエットを浮かび上がらせている人物が言った。
「決まってんじゃない、あんたが悪人に見えたからでしょ?」
少女が、冗談っぽく言う。
影は肩を竦め、彼女の言葉を聞き流した。
「まあ何にせよ、人の出入りのある場所に完璧なシールドは張れませんからね。安全だとは言いがたい状況です」
「あーあ、であんた達は、あたしに見張れって言う訳ね。あたしの割り当ては、昼間だって知ってるわよね。自分に当てがわれた時間くらい、ちゃんと自分で責任を持って欲しいわ」
いかにも面倒臭そうな様子に、隣の男が鼻を鳴らす。
「仕方ねぇだろ。俺や真はスコープでもトランシーバーでもねぇんだ、外から見張ってるだけじゃ中の様子が分からねぇんだよ」
「じゃあ竜二、あんた昼間の面倒見てくれる?」
少女は、からかうように言った。竜二と呼ばれた男は、しばらく沈黙する。
恐らくここが闇の中でなければ、彼の苦み潰した表情を見る事が出来ただろう。
「あのなぁ、俺にどうやって見張れって言うんだ。制服着て、転校生にでもなれって言うんじゃねぇだろうな」
「あら、いいじゃない。怪しい叔父さんとか言われて、一発で警察行きになっちゃうでしょうよ」
けらけら笑いながら、少女。竜二は、さも疲れたように大きな溜め息をついた。
「とにかく、あの子が誰かに狙われてるのは確かなんだ。そいつが分かるまで、こっちも動きようがない。頼むよ、ゆかり」
「まあ、やらないとは言ってないけどね」
男にゆかりと呼ばれた少女は、馬鹿笑いを止めて素っ気なく言った。
一方、真の部屋から逃げ出した由沙は、そのまま真っ直ぐ良子家に向かった。
彼女が今頼りに出来るのは、親友の良子くらいしかいなかったのだ。
途中、電話で泊めて欲しいとだけお願いした。詳しい事情は話していない。ただ、父親と喧嘩したからだとと告げただけだった。
良子は少し迷ったようだが、由沙が頼み込むと取り敢えずは承諾してくれた。
当然家には、何の連絡も入れていない。家出みたいで嫌だったが、どう話していいか分からないし、また父親に頭ごなしに怒られたら嫌だと思ったのだ。
それに、たとえ父親であっても、簡単に信じてもらえるとは思えなかった。
自分でさえ、信じられないと言うのに・・・・・。
「何があったの?由沙ちゃんが家出するなんて、只事とは思えないわ」
良子の家に着くと、すぐさま彼女は不安そうな顔でそう尋ねて来たが、由沙は『ちょっとね・・・』と言葉を濁しただけ。
────心配しているだろうなぁ。
由沙は、父親の顔を思い出して憂鬱になる。それでもやっぱり、誰もいない家に帰る気になれなかった。父親が帰って来るまで一人になると思うと、恐怖の方が先に立ったのだ
しかし、このまま黙って外泊し続ける訳にいかないので、明日にでも家に電話をしようと思う。
・・・・あまり気が進まないが。
─────それにしても。
由沙は、昼間の事を思い返してみた。
改めて考えてみても、信じられない。
自分でも信じられないのだから、きっと誰に話しても信じて貰えはしないだろう。
青山真の話しでは、父が何かを隠しもっているのではないか・・・と言う事だが。
まさか。
大体、清掃会社に勤める地味な父が、一体何を隠し持っていると言う?
余りにも、物語染みている。
あの青山真という人も、綺麗だけれど幽霊のように存在感が薄く、こうして後から思うと本当に存在していた人なんだろうか?・・・・と言う気になってくるのだ。
どう考えても、何から何まで現実味のない出来事だった。
次の日の朝になっても、結局慌ただしくて家に電話をかける暇がなかった。
仕方なく、由沙は良子と一緒に学校へ向かった。
「由沙ちゃん、何時もに増して暗いよ。やっぱり、パパに謝った方がいいんじゃない?パパ、きっと死ぬ程心配してると思うよ」
お昼、何時ものように隣で弁当を食べていた良子が、黙り込んだ彼女に声をかけてくる。
由沙は良子を騙していることに罪悪感を感じながらも、やはり本当の事を話す気にはなれなかった。
困ったような笑みを浮かべ、なるべく何でもないふりで肩を竦める。
「いいの。もうすこし時間を置いた方が、お互い落ち着いて話しが出来ると思う。よっちゃんだって、お父さんの性格は知ってるでしょ?今は、何を言っても無駄。それより、明日のテストなんだけど・・・・・」
言いかけて、言葉を止めた。
「どうしたの?」
不意に言葉を切った由沙に、良子は更に心配そうな顔を向けた。
「えっ?ああ、ちょっとね、ほら、ガスの元栓を止めてきたか、急に心配になっちゃって・・・・・」
「やだ、家出して来た癖に。由沙ちゃんって本当に主婦みたい。」
良子は、けらけらと笑って由沙の背を叩いた。
───何だろう?
良子が違う話しを始めたので、それに適当に相槌を打ちながら考える。
また、あの奇妙な呼び声を聞いたのだ。
低くて小さいが、間違いなく自分に呼び掛けてくる声。
気のせいかと思っていたが、こうもしょっちゅうだと気味が悪い。それに、何だかその呼び声は、日に日に大きくなっているような気がした。
と、
「原田さんと杉原さんって、仲がいいのね。何時も一緒みたいだけど・・・・」
突然誰かに話し掛けられて、由沙はびくっと肩を震わせた。
呼び声を聞いた後で、余りにタイミングが良かったのだ。
由沙は、何となく薄ら寒さを感じながら、声の主、野本ゆかりの顔を見つめた。
「あたしと由沙ちゃんは、中学からの親友なの。ねっ、由沙ちゃん」
良子の方は、別に変わった様子はない。ゆかりに声を掛けられた事が嬉しいらしく、にこにこ笑いながらそう言った。
「あっ、うん・・・まあ」
ゆかりに気を取られながら、由沙も返事を返す。
「やだな、もう。由沙ちゃんって無愛想だけど、誤解しないでね。彼女、すごく照れ屋さんなのよ」
良子は、由沙が照れていると勘違いしたらしく、にやにや笑いながら彼女の脇腹を肘でつついた。
「へぇ・・・、親友か。いいわね」
ゆかりは、由沙と良子の顔を見比べながら、にっこりと優しい笑みを浮かべた。
何時もなら、ほっと溜め息をついていただろう。綺麗な顔に浮かぶ柔らかな笑みは、確かに見惚れるほど美しい。
しかし、今日に限ってそれは、何処か不自然さを感じる笑みに見えた。
学校が終わって、良子と一緒に家に戻った由沙は、彼女の家族達と一緒に御飯を食べた後、彼女の部屋でテスト勉強をさせて貰う事にした。
良子の家は何時も賑やかで、遊びに行く度に圧倒される。
母親は気風のいい人だし、父親はにこにこと優しそうだし、良子の兄はひょうきんで笑わせるのが上手い。
食事の間中、ぽんぽんと話しが飛び交い、明るい笑い声が絶えなかった。
父と二人暮らしの由沙にとって、良子の家族と過ごす時間はなんだかくすぐったく、そして酷く羨ましく思う時間でもあった。
お母さんか・・・・・。
数学の問題集を解いていた由沙は、ふと手を止めて良子の母を思い浮かべた。
由沙の母は、彼女が物心付く前に死んでいる。父親の話しでは、重い病気を患っていた為に、若くして死んでしまったのだと言う。
由沙はひつこく母親の話しをせがんだが、ごく普通の女性だったと言う事くらいしか教えて貰えなかった。
ただ、可愛らしい人だったと言う事だけは、どうにか聞き出す事が出来た。
良子の母も、元気が良くて可愛らしい。
自然、自分の母と良子の母をなんとなく重ねて見てしまう。
由沙にとって母とは、そういうイメージだった。
お母さんがいるのは、いいな。
父親には話せない事も相談できるし、家事とかに追われる必要もない。
本当なら、この時間は片付けとかで忙しいのだが、何もなければこうしてゆっくりする事も出来た。
ちらり、ふと父の事を思い出して、部屋の壁に掛けてある時計に視線を流す。
20時13分。
何時もなら、もう父親も帰って来ている筈。でも、もしかしたら今日も残業かもしれない。
残業だと、23時くらいになるだろう。
帰ってなかったら電話代が勿体ないので、もう少し経ってから電話をしよう、と由沙は心の中で思った。
しかし、それは単なる言い訳である事を気づいていた。本当のところ、絶対に叱られるのが分かっているので、中々電話をする勇気が持てずにいたのだ。
────お父さん、ちゃんと御飯食べたかな・・・・・。
そんな心配をしていると、部屋のテレビから賑やかな笑い声が響いた。
はっと我に返って、テレビの方を見る。放送されている番組は、最近流行の人気コメディアングループが、毎週ゲストを呼んでギャグドラマを展開する内容のやつだ。
明日からテストだと言うのに、良子はテレビに釘付けになって、一向に勉強する様子もない。
思わず溜め息をつく。
良子は美術系の専門学校に行くつもりらしいから、それほど熱心に勉強はしていないよう。
英語と国語さえしてればいいんだと、何時も気楽な調子で言っていた。
由沙の方は、一応国立の大学を狙っている。
国立だと学費も安いし、お金の負担が少なくなるだろうと思ったのだ。
もし上手くすれば、奨学金も受けられるかもしれない。
担任の水沢先生は、全然問題ないと言っていたが・・・・。
良子が、それこそ呆れるくらい馬鹿らしいギャクに大笑いした時、不意に部屋の戸がノックされた。
「由沙ちゃん、電話よ」
外から、良子の母親が声をかける。
「はい。有難うございます」
由沙は、はきはきしていいと褒められる返事をして、電話を受ける為に素早く立ち上がった
ドアを開くと、良子にそっくりな母親が、微笑みながら子機を差し出す。
「お父さんの会社の方からよ」
「どうもすみません」
「いいのよ、本当に由沙ちゃんって、何時も礼儀正しいわね」
良子の母親はそう言うと、楽しそうに笑った。それから、いかにも上品そうな足取りで、スタスタと立ち去ってしまった。
────お父さんの会社の人?
受話器を持ったまま、少し考え込む。
由沙がここに居る事は、まだ誰も知らない筈だ。それなのに、何故この人は分かったんだろう?
疑問を感じながら、取り合えず保留のボタンを押した。軽やかに流れていたムーンリバ-の曲が止まり、代わりにくぐもった男の声が聞こえて来る。
『杉原由沙か?』
受話器から聞こえてきた声は、いかにも怪しげなものだった。押し殺した低い男の声に、由沙はさっと緊張する。
「そうですけど・・・・」
『今すぐ、外に出ろ。さもないと、大変な事が起こるぞ』
由沙は息を飲んで、良子の後ろ姿に視線を走らせた。
彼女はこちらを気にする様子もなく、テレビを見てけらけら笑い転げている。
「あなたは、誰?」
声を小さくし、それでも鋭い調子で尋ねた。
しかし男は、
『時間が無い、急げ』
と言っただけ。それっきり、電話はぷつりと切れた。
────どういう事?
電話を持って茫然としながら、由沙は男が言った言葉を頭の中で繰り返した。
『大変な事が起こる』と言う言葉だけ、何度も頭の中をリフレインする。
「どうしたの、由沙ちゃん。誰からだった?」
何時までもつっ立ったままの由沙に、良子が声をかける。
由沙は慌てて首を振って、電話を良子に返した。
良子は電話を受け取ると、またテレビに集中する。
─────時間が無い?私が今すぐ外に出なかったら、大変な事が起こるって事?
テレビの画面を見つめながら、どうするべきか迷う。
俄には信じられない。けれど、もし本当だったら・・・・・。
車に轢き殺されそうになった瞬間が、頭の中で鮮やかにプレーバックされた。
もし、あの車に乗っていた人からの電話だとしたら?
相手は、きっと平気でよっちゃん達を殺そうとするだろう。
冗談じゃない。そんな事、絶対にさせない。
由沙が怒りに燃えていると、不意にテレビがCMに切り換わった。
─────何が何だか分からないけど、とにかく、よっちゃん達を巻き込む訳にはいかないわ。
由沙は決心して、なるべく自然な調子に聞こえるよう言った。
「よっちゃん、喉が乾いちゃった。悪いけど、お水を貰えない?」
緊張しているせいか、声が少し掠れている。それでも、良子は何の疑問も抱かなかったようで、由沙の方を振り返ってにっこり笑った。
「ちょっと待ってて、今持って来るから・・・」
勢い良く立ち上がり、小走りに部屋を出て行った。CMが終わるまでに間に合わせようとしているのか、階段を降りて行く音も忙しない。
由沙はその音を聞きながら、ぶるりと身震いした。
────大変な事が起こる、なんて。
単なる脅しかもしれないが、もしそうでなかったら?そう思うと、自然と体が震えて来る。
どうして?
由沙は、何故自分がこんな目に合うのか分からず、戸惑いと腹立ちを感じた。
何の為に、その人達は自分を狙うのだろう?
青山真が言ったように、父親が何か隠し持っているのだろうか?
「・・・御免ね、よっちゃん」
由沙は扉の方に呟いて、素早く窓に向かった。ガラス戸を引き、サンに足をかける。
この部屋の窓は、中学の頃からよく出入りしていた。最初は何度も落ちそうになったが、今はもう慣れたものだ。
由沙は息を止めると、軽くジャンプして側に生えている松の枝にしがみついた。
勢い余ってぶら下がるような状態になったが、それでもどうにか横に移動し、太い幹に方に飛びついた。そして、軽い動作でするすると幹を伝って下に降りる。
由沙は、昔からこういう事が得意だった。走ったりするのは余り好きではないが、小学校の頃から一、二を争うくらい木登りだけ早かった。
きょろきょろ、周囲を見回す。暗がりなので分かり憎いが、周囲に人の気配はないよう
部屋の明かりを頼りに腕時計を見ると、あれから既に三分は経過していた。
よっちゃんが、部屋に戻ったかもしれない。
由沙は焦りながら、植え込みを越えて外の道に飛び出した。
枝であちこちを擦り剥き、ちくちく痛みを感じる。それでも、どうにか良子に気付かれる事なく、道の方に出る事が出来た。
これから、一体何が起こるんだろう?
不安に思いながら、周囲を見回す。今の所、怪しい影らしきものは見当たらなかった。
また、車で轢き殺されそうになるんだろうか?
ぞっと、体が震える。理由が分からないから、余計に怖かった。
・・・・よっちゃん。
何時も由沙の事を考えてくれる、優しい親友の顔が浮かぶ。
不器用な由沙は、いまいち人付き合いも苦手で、よく誤解されるタイプだった。それに生真面目過ぎる性格の為、クラスメートが悪い事をすればどうしても見過ごせない。そういう所から、いい子ぶっているとか先生への点数稼ぎとか、そんな陰口を叩かれる事もよくあった。
その度に、良子は必ず由沙を庇い、クラスメートとの架け橋になってくれていたのだ。
今のクラスだって、どうにか上手くやって行けてるのはみんな良子のお蔭。
それを凄く感謝していたのだが、口下手なので上手く伝える事が出来なくて、そんな自分を情け無く思ったものだ。
良子は、そういう所も分かっていてくれたようだが・・・・。
────御免ね、それから有り難う。
彼女は、胸の中で呟いて、もう一度良子の家を振り返った。
瞬間、いきなりドーンという響きが耳を裂く。
一瞬、由沙の頭は真っ白になった。それから、凄い勢いに押される。
突風のような物に吹き飛ばされ、由沙は後方へ激しく叩きつけられた。
ブロック塀にぶつかったらしい、背中を打ったせいか、息が止まるような苦しさに喘ぐ
────何があったの?
由沙は朦朧としたまま、手を付いてどうにか上半身を起こした。
ゴーッと不気味な音が続いている。
何処かで頭も打ったらしく、鈍い痛みがじんじんと広がっていた。
こめかみを抑え、手探りで飛ばされた眼鏡を探す。ようやく眼鏡を探しあてると、息を吐きながら顔を上げた。
そして・・・・。
さっと全身の血が引いくのが分かった。
良子の家が、燃えていたのだ。黒い煙と共に、激しい勢いで・・・・・。
目の前が真っ暗になった。信じられない事を前に、激しいショックを受ける。
─────これは、悪夢だろうか?
冷たいアスファルトの上に座ったまま、食い入るように炎を見つめ続けた。
「親友・・・・ねぇ。自分が安全になる為に彼女を危険に巻き込んで、その上殺してしまうなんて、親友のする事かしら?ねっ、委員長」
不意に、由沙の頭上から、刃物のように冷たい言葉が振って来た。
由沙は、茫然としたまま声の主を見上げる。
「野本・・・・さん?」
野本ゆかりの綺麗な顔が、炎に照らされて闇の中に浮かびあがっていた。
口許に薄い笑みを浮かべながら、平然と燃え盛る炎を見つめている。
────何故、野本さんがここに?
由沙はまだ、何が起こったのか理解していなかった。
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