第一章 FOUR

 深い深い闇、気がつくと由沙はその中で佇んでいた。


 ここは何処だろう?


 疑問を感じながらも、ただぼんやりするだけ。

 体が、妙に軽かった。足がふわふわし、地についていない感じがする。

 由沙は視線を下に向け、自分の足元に何もない事に気付いた。


 ─────浮いている?



 いや、違う。ここには、何もないのだ。

 虚無の渦巻く空間を見つめ、心が寒くなる。その寒さは、蝕むように体の奥に浸透していった。


 ぎゅっと、両手で自分の体を抱く。しかし、手はそのまま体をすりぬけてしまった。そこには、自分の体さえなかったのだ。

 恐怖が走り抜けた。自分がなくなってしまったような、心許ない恐怖。


 由沙は、恐怖から逃れる為、闇の中を走り出した。

 すると、いきなり足が重くなる。一生懸命走ろうと思えば思うほど、鉛の靴を履いたみたいに鈍くなるばかり。

 『お父さん!』

 思わず、口からその言葉が漏れた。・・・が、声が出ない。と言うより、自分の声が聞こえて来ない。

 恐怖は、一層大きくなった。


 ・・・と、不意に誰かの背中が見えた。白いものが、ひらひら揺れている。

 白衣だ。あれは、お父さんだ。

 父親と白衣の結び付きはないのだが、何の根拠もなく由沙はそう思った。


 父が助けてくれる。嬉しくなって、その背に手を伸ばした。けれど、父の背中は近くなるどころか、どんどん遠ざかっていく。それでもと必死に伸ばした手が、いきなりにゅっと伸びて闇の中を突き抜けていった。


 驚いて自分の手を見る。すると、その手はいつの間にか小さくなり、子供の手になっていた。


 眼前で、闇が燃え上がる。紅蓮の炎が、柱のように闇を突き破ったのだ。

 『いやっ!』

 由沙は叫んで、闇の方へ走り出す。しかし、炎は勢いを増して彼女の後を追って来た。

 恐怖は益々激しくなり、由沙の心を飲み込んでしまう。


 怖い、怖い、怖い。


 太鼓のように、その思いが胸を何度も叩いた。

 何処からか、甲高い叫び声が聞こえる。鋭い刃が氷柱のように落ちてくる。

 うねりのような物が、由沙の足を絡め取った。足が、その場から動かなくなる。

 その間にも炎は、凄い勢いで後ろから迫って来ていた。

 飲み込まれる!

 絶望が胸を覆った時、全ては銀色に染まった。


 ふっと、体が浮上するような感覚に、由沙は小さくうめき声を上げる。それから、突然ひっぱられた感じがして、意識が戻った。

 何か、柔らかい物が首筋にあたっている。それは温かく滑らかで、優しく上下に動いていた。


 ───何だろう?とても、気持ちがいい。


 夢の恐怖は一瞬にして忘れ、由沙はその心地好さにしばらくうっとりした。

 ぴくぴくと痙攣した後、ゆっくり瞼が開く。

 最初は、ぼんやりとした明かりが見えた。それから、焦点が徐々に定まり、やがて人の顔の輪郭となる。

 はっと、身を起こした。それから、ぱちぱちと瞬きする。


 ───私、どうしたんだろう?


 空白だった頭に、記憶が蘇った。

 そうだ、確か窓の外を覗いていたら・・・・・。

 いや、その前に泥棒だ。父の部屋に泥棒が入ったのだ。

 外れかけていた眼鏡の位置を直して、部屋の中を見回す。

 と、

 「やあ、目が覚めましたか?」

 ハスキーな声が耳に届いた。その声が余りに近くだったので、由沙はぎょっと顔を強張らせる。


 恐る恐るそちらに視線を動かすと、いきなりドアップの顔が現れた。

 「だっ、誰?!」

 反射的に、ぱっと相手を突き放す。何故か分からないが、由沙はその人物の腕の中に抱き抱えられていたのだ。


 「やれやれ、介抱してあげたのに、随分な態度ですね」

 その全く見知らぬ人物は、生真面目な表情で肩を竦めた。


 しかし由沙は、相手の言葉をゆっくり聞く気など無かった。慌てて立ち上がると、凄い勢いで戸口の方まで逃げる。それから、身構えた恰好でくるりと振り返った。


 何時の間にか分厚い世界地図が、楯のようにしっかりと彼女の手に握られている。

 「あなた、泥棒ね!いきなり後ろから殴るなんて、卑怯よ!」


 由沙は、見知らぬ人物に向かって、ありったけの声を出して叫んだ。

 なんせ、彼女の中ではついさっきの出来事。

 殴った相手が未だにそこに居て、何故か殴った相手を介抱している。・・・というのはおかしな話しなのだが、今の由沙にはそこまで考える余裕はないようだった。


 きっと眉を釣り上げて、その人物を鋭く睨みつけた。


 「・・・・違いますよ、僕は泥棒じゃない。それに、君を殴った人間でもない」

 謎の人物は、やはり生真面目な調子で言って、軽やかに立ち上がった。

 身長百七十センチくらいの、男と言うには華奢な体型をした人物だ。

 服装は、真っ白な綿シャツにジーンズ。手足がやたら長く、見えている肌は綺麗に日焼けをしていた。


 やや癖のある髪、高い鼻、切れ長の大きな目、凛々しい眉、薄い唇。

 まるで日本人形のように、きりりと整った顔立ち。

 そのせいか何処か人間味が薄く、男か女か分からない中性的な雰囲気を漂わせていた。

 ただ、僕と言っている限りで言えば、男なのかもしれない。

 とにかく、男なら美青年には違いないだろう。


 「じゃあ、誰?」

 由沙は、相手の美しさに少し驚いたが、それでも本を楯にしたまま鋭い視線を向ける。その人物は真っ直ぐ由沙を見つめたまま、いかにも真面目な顔でこう言った。

 「通りすがりの正義の味方、じゃ駄目ですか?」

 「馬鹿にしないでよ!」

 由沙の眉が更につり上がった。


 勝手に他人の家に入って来たのだ、どう考えても正義の味方とは思えない。

 大体、正義の味方なんて言葉が人をおちょくっている。子供じゃあるまいし、ああそうでしたかなんて言える訳がない。


 「まあまあ、そんなに怒らないで。本当に、僕は通りすがりの者なんです。たまたま君の家の窓から怪しげな人が出て、変だと思って覗いてみただけです。そしたら、君が倒れていて本当に驚きましたよ」

 彼はやはり真面目な顔で言い、大袈裟に肩を竦めて見せた。

 「本当?」

 由沙は、尚も疑いの眼差しを向ける。と相手は、大真面目に頷いた。

 「もちろん、本当ですよ。・・・それより君、何処か痛い所はないですか?」

 言われて、咄嗟に首筋を摩ってみた。倒れる前、確かそこを打たれたのだ。けれど、痛みは全く残っていなかった。


 「・・・・大丈夫、みたいだけど・・・・」

 なんとなく首筋を摩りながら、頭を横に傾げる。

 「それは良かった、じゃあ僕はこれで失礼します」

 彼は、由沙がどうやら大丈夫そうだと知ると、実にあっさりとした様子で言った。それから、くるりと背を向ける。


 「ちょっ・・・、ちょっと待ってよ!」

 由沙は、そのまま窓から出て行こうとした彼を、思わず呼び止めた。

 「何?」

 窓枠に足を掛けた状態で、振り返る彼。

 その姿が、なんかちょっと間抜けな感じがした。相手が美青年だから、余計にそう感じたのかもしれない。


 この奇妙な状態に戸惑いながらも、由沙は彼を行かせまいと言葉を続けた。

 「・・・窓から出なくても、玄関があるんだからそっちから出たら?」


 勿論由沙としては、親切で言った訳ではない。ただ、もう少し話しを聞き出したかっただけだ。

 本当は、何か知っているのかもしれない。このまま逃せば、それが聞けなくなる。由沙は、取り敢えず冷静になってそう考えたのだ。

 美青年は、無表情に彼女を見つめていたが、しばらくして納得したように頷いた。


 「・・・ああ、そうですね。それじゃあ、玄関から出させて貰います」

 「スニ-カ-、脱いでよね」

 由沙の言葉で、彼の視線が自分の足元へと移動する。

 「おっと、これは失礼」

 つかみどころのない調子で言って、彼はスニーカーを脱いだ。それを手に片方づつ持ち、由沙の方へ歩いて来る。


 「・・・・所で、余計なお世話かもしれませんが、少しは片づけた方がいいんじゃないですか?なんか、この部屋随分汚いですよ」

 真面目な顔で言われ、由沙は凄く疲れた気分になった。

 彼の表情を見ている限りでは、本気で言っているのか、馬鹿にされているのか、どうにも判断がつかなかったのだ。


 「だから、見れば分かるでしょ、泥棒が入ったのよ。あなた、窓から出て行く男を見たって言ったわね」

 「ふむ、なるほど。ええ、グレーの背広を着た男でしたよ。顔は、残念ながら見てませんが・・・・」

 言いながら、すたすたと由沙の横を通り過ぎて行く。由沙もその後に続いたが、彼は全く由沙と歩調を合わせようともせず、勝手にさっさと行ってしまいそうになった。


 爽やかだが、少し冷淡な感じのする青年である。

 果たして、この男を信じていいものか・・・・・。

 なんせ、由沙は泥棒の姿を見ていない。仮に泥棒じゃないとしても、なんとなくこの人物は胡散臭い感じがするのだ。


 「ねえ、あなた名前は?何処に住んでるの?疑って悪いけど、一応泥棒でない事を証明してくれない?」

 慌てて男を追い掛けて尋ねる。もし本当に泥棒なら、随分危険な事をしているのだが、本人はまったく気付いていないようだった。


 ぴたり、急に男が立ち止まった。由沙はびくっとして、数歩後ろへ下がる。

 やはり泥棒なのかと、緊張して身構えた。

 そして、振り返った彼が一言。

 「玄関、どっちでしたっけ?」

 由沙は、脱力感に思わずよろけた。

 が、すぐにぱっと顔を上げて、男に食ってかかる。


 「ちょっと!人の話し聞いてるの?」

 「聞いてますよ。そんなに怒らなくとも、短気ですね。僕のことが知りたいなら、はい免許証」

 彼はジ-ンズの後ろポケットを探り、無造作にそれを放り投げてきた。

 慌てて黒いケースをキャッチし、開いて免許証の表を見る。


 薄い桜模様の上に、名前と住所と成年月日が記されていた。写真も本物だ、間違いなく彼である。

 名前は青山真、歳は二十歳。本籍もY市で、住所はここからすぐの場所だった。

 「僕は、その先のマンションに住んでいるんです。ここの道を通るのが、一番早道でね。知ってるでしょ、サンライズマンション。因みに、507号。良かったら、遊びに来てみますか?可愛い女の子は、大歓迎ですよ」

 今まで無表情に近かった彼の顔が、初めて笑みに包まれる。

 由沙はむっとして、免許証を彼に叩き返した。


 軽薄な冗談を言う奴だ、と思ったのだ。大体、こんな美男子に可愛いなんて言われても厭味にしか聞こえない。自分が可愛くないのは、誰よりもよく知っていた。

 「結構です!」

 殊更冷たく言って、由沙は真を玄関の方へ追い立てた。


 「冷たいですね、君を助けてあげたのは僕ですよ」

 玄関でスニーカーを履きながら、真はそれほど不機嫌になった様子もなく言った。

 「どうも。介抱して貰ったのは有り難いですけど、早く帰らないと不法進入で警察に訴えるわよ」

 「はいはい、帰ります。・・・・じゃあ、またね、由沙ちゃん」

 真はにっこり笑うと、そのまま玄関の外に消えた。


 「ちょっと!何で私の名前を知ってるの!?」

 驚いた由沙は、追い掛けるように玄関の戸を開けたが、そこにはもう彼の姿は無かった。忍者のように、消えてしまったのである。

 由沙は茫然としたまま、しばらくその場に佇んでいた。



                  

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