第7話

その話を聞いたのは、企画会議がいつもより長引いてしまい、少し遅めの昼休憩に入ろうとした時だった。

社食へと向かうため部署を出ると、廊下を香苗が血相を変えて走ってきた。


「あっ、紗希!」

「なにどうしたの、血相変えて」

「ねぇ、これ見た?」


香苗は手に持っていた雑誌を広げて私に見せてくる。

先日出た週刊誌だ。


「どうしたのこれ?」

「昼休みに買って読んでいたんだけど、これ。ここ見て」


香苗が指を指した所を見て、アッと息を飲む。


「ねぇ、この写真の人、暁君じゃない?」


そう呟く香苗にうまく返事が出来ない。

そのページには大きく、『新進気鋭のイケメンミステリー作家、空野アカツキを大特集。デビュー三年目にして初めてメディアに見せるその姿にファン熱狂』と書かれていた。

そしてページの写真。

そこには髪を後ろに流してセットし、黒いスーツ姿に身を包んで微笑む暁の姿があったのだ。


「これ……」


その姿に見覚えがある。以前、仕事だと言ってこの姿で外出していたではないか。

さらには『先日、都内で行われたサイン会には多くのファンが押し寄せ、会場は大熱狂』『前作の「奇跡の森」では累計30万部を売り上げ大ヒット。

映画化が発表され、新作「夏の狂愛」もすでに重版が決まっている』と書かれてあった。


「私この奇跡の森って本知っているよ。一時期話題になっていたよね。映画化って、凄くない!?」


と香苗は興奮気味に驚きを隠せないまま聞いてきた。


「私、この本持っている……」


面白いと話題になり、私も買って読んだ。確かに一気読みしたくなったほど面白く、夢中になった。

まさかそれを書いていたのが、暁?


「もう、何がニートよ。かなりの有名人だったんじゃない」


香苗は苦笑するが、私は笑えない。

暁がこんなに凄い人だったなんて知らなかった。

確かに小説家だとは聞いていたが、こんなに有名人だとは思っていなかった。売れるか売れないか、そんなところだろうと勝手に思っていたのだ。

そういえば……。ハッと顔を上げる。

この前、暁の部屋に初めて入ったときに本棚にやたらと空野アカツキの本がそろっていた。

あの時、まさかと思って打ち消した一つの可能性。

それはどうやら正解だったようだ。

そういえば、暁も『そのうちわかるよ』と話していた。それってつまり、サイン会をすることで顔が出るからということだったのか。

初のメディアということは、多くの人が暁が空野アカツキだと知らなかったということになる。


でも、でもさ。


「教えてよ……」


幼馴染でしょ、一緒に暮らしているでしょ。隠さずに、もったいぶらずに教えてほしかったな……。

家に帰ると暁が「おかえり」といつものように出迎えた。

その顔はいつもと何も変わらない。


「……ただいま」


低い声で返事をすると、暁が首を傾げた。


「何? どうかした?」

「うん……」


暁は不思議そうに私を見ている。

しかし、私はその横を無言で通りすぎた。

この暁が、空野アカツキだったなんて。どうして教えてくれなかったのだろう。

一言くらい言ってくれていても良かったのに。

あの写真の暁は知らない人みたいだった。

夕飯を食べ落ち着いた後、縁側に座っていると、暁がいつものようにビール片手に隣に座った。


「ありがとう」

「うん。なんか元気ないね、どうかした?」


そう言うその表情は優しく、よく知っているいつもの暁の顔だ。

それでも、目の前のこの人は有名小説家の空野アカツキである。そう考えると、なんだかとても遠い存在のように感じてしまった。


「教えてくれても良かったんじゃない?」


意を決してそういうと、暁がビールの缶から口を離し、驚いて様に私を見た。

横に置いてあった雑誌を見て「ああ」と納得したように呟く。


「どうして教えてくれなかったのよ。暁が、空野アカツキだって……」

「小説家だとは言っていたでしょう」

「そうだけど」

「それに別に俺、一言も売れない小説家だとか卵だとか言った覚えはないよ。紗希が勝手にそう思い込んでいただけ」

「う……」


それはまさにその通りで何も言い返せない。

グッと言葉に詰まるが、悔しいような、悲しいような気持ちは消えない。

置いて行かれたような気分になるのはなぜだろう。


「だからって言ってくれてもいいのに」

「ごめんね」


軽い口調で言われ、ムッとする。そんな簡単な謝罪なんてほしくない。


「いつから書いているのよ?」

「本格的に書き始めたのは、大学生の頃から」


あっさりとした口調だが、ギョッとした。


「え? そんな前から?」

「でも売れたのは最近。大学出てから一度は就職したし。就職しながら出版社に投稿していて、デビューが決まったから退職した」

「……そうだったんだ。あぁ、だから生活費も困らなかったんだね」


勝手にお金がないと思っていたけど、実際は普通のサラリーマン以上は余裕で稼いでいるだろう。

だから、家賃負担するということも言えたし、生活費も特に困らなかったのか。

知らなかった。何も知らなかった。

でもそんな大事なことウチの親だって暁の親だって何も言っていなかった。

なんだか仲間外れにされた気分で面白くない。そんな気持ちが棘のように言葉で出る。


「ふぅん……。重版決定だそうで、おめでとうございます」

「どうも」

「これから先生とお呼びしなくてはいけませんね」


嫌味っぽくそういうと、暁が一気に冷たい目線をして振り返った。一瞬その眼にひるむが、口は止まらない。

イライラが収まらなかった。


「これからもっとメディアに出るんですよね。いいんですか、タワーマンションとかに住まなくて。そもそも売れっ子の先生ならもっといい家に住めるんじゃないですか」

「紗希」

「というか、私なんかと住めるような立場の方ではなかったんですね。誤解されちゃいますよ、先生」

「紗希!」


きつい声で名前を呼ばれ、反射でビクッと肩をすくめた。

見上げると暁が怒ったような目で私を見ている。


「それ本気で言っている?」


低い声に言葉が詰まる。

射抜くような鋭い目に身体がすくんだ。言い返せず俯く。


「そもそも忘れていたのは紗希の方だろ」

「え? どういうこと?」


意味が分からずに首を傾げるが、暁は答えない。

忘れているってなんのこと?

私が何を忘れているというの?


「俺は、小説家になったって言えば紗希が気付いてくれると思っていた。名前だってすぐにわかってくれると思っていた。でも紗希は何も覚えていないんだ」

「覚えていない……?」


何を覚えていないというのだろう。

戸惑ったまま暁を探るように見ると大きなため息をつき、おもむろに立ちあがった。


「もういいよ。紗希が覚えてようがいまいが関係ない。俺の職業何てどうでもいいだろ」

「関係ない……?」


ズキッと胸が痛んだ。関係ないなんてどうしてそういう言い方をするのか。私は暁の仕事を知る必要はないってこと? 暁の仕事のことなんて私には関係ないから? 


「なんで……」


気が付けば、手元にあったクッションを立ち去ろうとした暁の背中に投げつけていた。


「何するの」


呆れたような声にさらに傷つく。

自然と涙で視界が曇った。


「紗希?」

「ひどいよ。関係ないなんて、どうしてそんな言い方するの」


声を震わせながらそう問うと暁のため息が聞こえた。

それすらも胸がズキッとする。

暁は肩をすくめた。


「言い方がきつかったか。俺の仕事を紗希が気にすることなんてないって言いたかったんだけど」


ボロボロと流れる涙を雑に拭うと、いつの間にか目の前に来ていた暁が手首を掴んだ。少しかがみ、顔を覗き込む。


「泣かないで」

「泣いてない」

「いやいや、大泣きしているじゃん」

「うるさい」


手首を掴む暁の手を振りほどこうとするが出来なかった。

むしろしっかり掴まれている。なのに痛くない。


「……関係ないとか言わないで」

「本当のことだろ」


そう言われてさらに胸が痛くなる。

そうかもしれないけれど、どうしてそんなに突き放したような冷たいことを言うのだろうか。


「何でよ。私たち姉弟みたいなもんじゃん。家族みたいなもんじゃん。知っていたっていいでしょう。それを関係ないとかの一言で済まされたくない」


そういって、ハッとする。『弟』は禁句だった。

顔を上げるとやはり暁はスッと目を細め、不機嫌様な表情になる。


「姉弟? 本当にそう思っているの?」

「だって……私たちずっと……」


その先は言葉にならなかった。

暁の唇が私の唇を塞ぎ、声をなくさせたのだ。

驚いて身を引こうとするが、抱きしめられて逃げ道を失う。

暁の手が支えるように頬にふれ、包み込んでしまうほどの男らしい大きな手とその熱にカッと身体が熱くなった。

どうして? 身体が震える。


「ん」


されるがままだった私は、次第に自分の身体を支えきれず、暁の腕にしがみつく。そうしてやっと暁が唇を離した。


「俺たちは幼馴染であって、姉弟じゃない」


息を吐いて整えようとする私に、暁の声が冷たく降り注ぐ。


「紗希の事、一度だって姉のように思ったことはないよ」

「あ、きら」

「弟はこんなことしないって言っただろ。ねぇ、紗希。俺を見てよ。小説家でもない、弟でもない、幼馴染でもない……」


暁の切なげな瞳にハッとする。


「ただの男として俺を見て」


そう言って家を出ていく暁の後を追うことも出来ずに、ただその場に座り込んでいた。

唇にまだ暁の熱が残っている。

『弟』は暁にとって地雷だってわかっていた。

でも、私にとって暁はずっと弟のような存在だった。ずっと……。


……本当に? 本当に弟のような存在だった? 暁がこの家に来てからもずっと?


いや、違う。違うんだ。

弟だって思っていないと怖かった。暁が知らない男の人のように感じて怖かったのだ。

大人の男へと成長した暁に私の心が追いつかない。

それなのに、暁に触られたりキスされたりすることは嫌じゃなかった。

日に日に暁が私の中を占領してくる。

でも、暁のように『幼馴染』の枠を飛び越える勇気がなかった。

今までの関係が心地よかったから、男と女になることで、その心地よさが違うものになってしまいそうで怖かったんだ。

本当は、少しの隠し事にも傷つくくらいに、暁が心を占領していたくせに……。

暁の全てを、知らなくてよいと思いつつも、本心は、知りたかった。

暁のことが知りたかった。

教えてほしかった。

だって、私……暁を好きだから。

だから、知りたかったんだ……。




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