春にさよなら

肥前ロンズ@仮ラベルのためX留守

シキとハル

「ナッちゃんがなんとか共和国に行くんだって」

 多分アフリカとかそこんとこ。

 ミートパスタを食べるハルは、クルクルとフォークで巻きながら言った。

 ざわめく昼下がりのカフェで、私は久しぶりにハルと食事をすることになった。ハルの言葉に、私は大きく口を開けたまま、ポロリとフォークからハンバーグを落とした。


「ナツに会ったんだ?」

「ナッちゃんとはもう何年も会ってないよ。ハガキで知らせてきたんだけど、シキには来てないの?」

「来てないけど……」


 ってかあいつ、せめてSNSのアカウント教えろよ。なんだよハガキって。返信めちゃくちゃ面倒だろ。


「内乱の多いところの、支援に行くんだってさ」

 すごいよなあ、とハルは言うが、その視線は私に向けられることなく、ただミートパスタに向けられる。

「……ハルは、それでいいのか?」

 私の問いに、ハルは「何が?」と返す。

 その素っ気ない声に、拒絶の色を感じた私は、視線を落とした。

「なんでもない」

 黒いホットプレートの上で飛び散る肉汁は、まるで花火みたいで、ふと、三人で手持ち花火を持ち寄って遊んだ日が頭をよぎった。






 ある有名な画家が描いたことで有名なカフェは、壁一面ローズの色で塗られている。ミントグリーンのドアと窓が嵌められていて、まるで桜餅みたいな色合いだ。

 そういや、今年は桜餅を食べ損ねたな。あっという間に暑くなって、春を満喫する暇もなかった。なんて思いながら私は、ローズ色の建物の上で木漏れ日が揺れているのを見つめていた。

「ごめん、遅くなった」

 ドアからハルが出てくる。随分長いトイレだった。

「もう、初夏の色だな。葉っぱの色」

 私が言うと、そうだね、とハルはカフェのそばにあった木を見上げながら言った。

「もう、夏が来るね」

 土の匂いと草木の匂いをまとった風が、ハルの精悍な頬を撫でる。こんな童顔な男でも、いつの間にか髭も生えるもんだ、と私は時の流れを感じていた。

 人目を気にせず大きな声で笑いながら、当たり前のように三人で過ごした季節は、随分遠いところに行ってしまった。

「どうしたの?」

 ハルに聞かれ、私は夏休みのことを思い出していた、と返す。

「ナツとハルで花火したことをちょっとな。本当に、大したことを思い出したわけじゃないんだ」

 まさかハンバーグの肉汁で思い出していた、というのは締りがない気がしたので、そこは黙っておく。

 ハルは、そう、と、気の抜けた返事をした。それ以上、その会話が広がることはない。ハルはあまり、昔のことを――というよりナツのことを思い出したくないようだった。

 それでも、さっきみたいに、ぽろり、とナツの話題が零れてくる。


「良い天気だから歩こうよ」


 ハルのお誘いを受け、私たちは石畳の上を歩く。

 強い日差しを受けた石畳は目にささるほど眩しくて、あっという間に太陽の熱は私たちを焦がした。あまりの暑さに、私たちは鉛色の木陰へ逃げた。

 私には無い喉仏に、つう、と汗が流れた。

「シキはさ、良い人いないの?」

「ハルにはいないのか?」

「……いないよ」

 ハルの言葉に、ふうん、と私は興味なさげに返した。

 人通りは少ないとはいえ、ちらほら誰かとすれ違う。その人たちから見たら、私たちはやはり恋人のように見えるのだろうか。




『ねー、シキちゃんって、ハルとナツ、どっちと付き合ってるの?』

 甲高く、けれど邪気のない声で、何度そう尋ねられただろう。小学校高学年の頃から、私はハルとナツ、どちらかと付き合っているんじゃないかと噂された。

 男と女が一緒にいれば恋人同士。それがたまらなく嫌だった。

 だって、ハルとナツが好きなのは、女の私ではなくて、お互いだったから。好き同士に見られるべきは彼らであって、私では無いはずなのに。

 だが、それ以上に、私にはこれっぽちもその気がないのに、自分の本心とはかけ離れた見方がまるで客観的事実のように語られるのが、本当に苦痛だった。……その、どうしようもない嫌悪感に気づいて、私はぞっとした。

 ――大人になって気づいたのだが、私には、誰かに恋をする機能が備わっていない。今は「恋愛できないこと」をすんなり受け入れられるが、思春期を迎えるとそうもいかなかった。

 毎朝、昔はなかったニキビだらけの顔を擦り付けるように洗い、自分の身体に合わないサイズの制服を着て、油とフケでベタついた髪をなんとか綺麗にし、鏡を見る。私の身体は変わっていき、心だけが置いていかれる。教室に行けば、部屋の隅では男子の下世話な話が、女子からはカッコイイ男の子を振り向かせるためにオシャレすると、話が盛り上がっている。

 自分の望まないものを押し付けられていく感覚を、なんと表現したらいいのだろう。まるで身体も心も、恋愛するために変わっていく。恋愛は成熟するためのステップとして、周りの子たちがどんどん変わっていく。

『好きなんだけど』

 最初に告白を受けて、私はなんと断ったのだろう。ものすごく頑張って、相手を傷つけないように断った気がするけど、

『そうだよな。ナツと付き合ってるもんな』

 他者から見る私の感情は、いつもそこに集結してしまった。

 違う、と何度言いたかったことか。私が付き合っている相手が、ハルであったこともあった。それでも、そうやって納得して、自分の心を守ろうとした人たちを、傷つけることができなかった。

 なぜなら私は、理性では酷いと思いつつも、彼らのことを、「おぞましい怪物」として捉えてしまったからだ。


 いくら洗っても自分の肌から油染みたフケやアカが出てくるように、恋愛感情に触れることは心も爛れていきそうで怖かった。それほどまでに、私にとって誰かの恋愛対象や性的対象になるのは、おぞましいことだった。

 そしてそれが、他の人にとってはありふれている行為であることにも、目を背け、耳を塞ぎたかった。

 私の身の回りにある物語には、何時だって恋愛と性愛であふれているのだから。


 だが一番辛かったのは、誰にそれを伝えたらいいのかわからなかった、ということだった。なぜなら彼らに悪意がないことは最初からわかっており、今の彼らにとって恋愛というのがとても美しくキラキラとした宝石のようなものである、というのもわかっていたからだ。

 皆、私に優しかった。誰も私に対して悪口も言わなかった。恋愛に興味を持てず、盛り上がる会話に水をさしてしまう私を責めたりしなかった。

『今好きな人がいないだけだよ』

『気づいたら芽生える恋もあるよ』

 善意で言ってくる周りの人間に、私は曖昧な笑顔を浮かべるしか無かった。もうそういうレベルでは無い、と、どうしても伝えられなかった。

 自分が欠陥品のように思えた。恋愛感情を持つ子たちを、同じ生き物だと思えなくなった。

 恋が「おぞましい」など、言えるはずもなかった。特に、大切な友人の前では、絶対に話せない。


『シキ! 俺の方が身長伸びたよな!?』

『違うよ! こないだの身体検査、ナッちゃんより俺の方が高かったもん! 5mmぐらい!』

『癖っ毛の髪の毛で水増しだろそれは!』

 同性に恋愛感情を抱く恋人同士というのは、同時にライバルでもあるのだろうか。まだ変声期を迎えない二人の声が寝不足の頭に響くので、私は耳を塞ぎながら告げる。

『残念だが、私から見たら大して変わらない』

『むぎゃー!』

 息の合う二人は、奇声をあげて抗議した。


 恋愛感情や性愛を持つ周りがおかしいんじゃない。自分がおかしいのだ、と、言い聞かせていた。誰かを好きになることがない、冷たい人間だと思った。そんな自分のせいで、誰かを傷つけたくなかった。……それがまた、自分を苦しめた。

 私は、この世から消えたくなった。誰にも知られず、忘れ去られたいと思った。そうしたら、もう、誰かを傷つけるかもしれないという恐怖に、怯えなくていいからだ。

 だからだんだんと、彼らとの距離を置きたくなった。実際、距離を置いたこともある。

 それなのに、こうやって気づいたら、二人が目の前にいるのだ。

 私が離れたことなんてとっくに気づいているのに、鈍感な振りをして笑っている。どこかぎこちなく、恐る恐る私の顔を見ながら、それでもいつも通りに私に話しかけてくる。

 どうしたの、なんて踏み込まないで、ただ一緒にいたいのだと、態度で伝えてくる。

 ぞんざいな扱いをしても、傷つかない。ぶっきらぼうに、飾り気のない言葉が、自然と零れてくる。何も考えずに、大きな声で笑いあってふざけ合える。

 ああ完敗だ。私はここにいたい。

 私は恋をしないが、この友人たちを愛していた。一部を理解できなくとも、受け入れられなくとも、それだけは、間違いではなかった。






 瑞々しい草の匂いと、水を含んだ土の匂いが混ざる。一歩踏み入れただけで、あんなにも暑かった空気が、一瞬にして澄んだ山の空気に変わる。坂には黒ずんだ落ち葉が積もっていて、私たちはその上を歩く。パキパキと細かく砕けるそれは、いつか山の土となるのだろう。

 そこに敷かれた苔むした石段を上り、神社にたどり着く。境内にある大きな桜の木の前で、ハルが足を止める。

「ここ、懐かしいね」

 ここは、小さかった頃の私たちの遊び場だった。まだ女も男も関係なく、飛び跳ねたり、対抗意識を燃やせる場所だった。

 思春期になった時、私は競うことをやめた。大人たちの都合で競わされる自分の立場に、心底嫌気がさした。だがナツとハルは、私が競争から降りても、ずっと競いあっていた。

 その一つが、背比べだ。桜の木には、刻んだあとが残っている。


 樹皮に刻まれた跡をなぞって、ハルは懐かしいなあ、と言った。


「ナッちゃんと二人で身長を競い合っていたんだっけ。

 ……まあ、二人ともシキに負けたんだけど」


 ハルが幽霊に取り憑かれたような顔をして言う。

 高校の時点でハルの身長は165cm。ナツの身長は169cm。私の身長は175cmだ。


「なんでシキそんなにデカいの……? 何食べたらそんなに大きくなるわけ……?」

「遺伝なんだろうなあ」

「シキの足の細胞を僕にくっつければ僕は高身長に……」

「免疫の拒絶反応が起きるだけだろそれ」

「免疫力落とすもん」

「なんでそう身長に対して命懸けなんだ……」


 ハルの身長に対する情熱はよくわからん。というか、男二人の身長による対抗心はマジでよく分からん。


「でも、まだ桜咲いていたんだね。今年は開花が早かったのに」

「山桜だからかな。それにしたって、よくこの時期まで咲いてる」


 ソメイヨシノより色が濃く、影を落としたような花弁は、ソメイヨシノよりずっと匂いたっていた。


「……せっかくだから花見しようよ」


 ハルがそんなことを言い出して、石段の方へ走っていく。綺麗なフォームだ。

「どこに行くんだ」

「コンビニ! 俺、ビールとつまみ買ってくるから!」

 そう言って、転がり落ちるような速さで降りていった。

 

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