その⑪ 遺言状のゆくへ
次に会場に姿を見せたのは意外にもカフェモンドリアンのマスターだった。この件に関して饒舌で、遺言状についてはまるで無関係に見えていた初老の男。昭和を閉じ込めた、いにしえのカフェを絵に描いた喫茶店の店主。三村の聞きたいことも何でも隠す様子もなく気安く答えてくれた。あのマスターが顔を見せるとは。
いや、まんざら無関係ということでもなかろう…
三村の見るところ、あのおびただしいモンドリアンの絵画が全て本物だとしたら…これは一財産だろうなとは思っていた。
細かく頭を下げながら低姿勢に周りを見渡し足早に入室したマスターは、今日は少しお洒落して帽子をかぶり首に臙脂色のチーフをつけている。三村を見つけると駆け寄って親しみを込めて挨拶をした。
「おはようございます。こっち、前に話した学年がひとつ上の佐竹一郎です。俺の友達の中では一番の出世頭。このビルのオーナーですよ」
「これは…」
三村は珍しく弾かれるように動揺した。早々と現れた大物ゲストに驚きを隠せない。佐竹一郎。その人がここにいる。この場には現れないかと思っていたのに、もう手の内を見せても大丈夫なのか…
「お初にお目にかかります。僕達はもうモニターで見られてますよね。此処にも何度かお邪魔しています。バッチリ監視されてましたから初対面とは思えませんよ」
と弁護士特有の作り笑顔で好戦的に挨拶する。
「佐竹です。今日はお世話になります」
マスターよりも少し現役感のある初老の男。スーツが似合う。なによりマスターとともに現れたのに驚いた。その上、この意外な受け答えに『おやっ』と思案を廻らせる。もっとアグレッシブな人物を思い描いていた三村だった。
これで6人。まだ椅子は埋まらない。他にも来るゲストがいるのか。三村が話を聞いて回った者はあらかた席に着いていた。モンドリアンのマスターと共に来た、このビルのオーナーだと言う佐竹一郎。依頼人が連れてきた御婦人。そのふたりにはまだ何も話は聞けてなかったが…
「では、そろそろ遺言状の開封を始めたいと思います…」
剛三郎が声をかけるのと同時に後ろの扉が開いた。
「すみません。駐車場が思ったより遠くて遅れました。おまたせして大変申し訳無い」
そう言って申し訳無さそうに入ってきたのはあの日、初めて坂の上の豪邸を訪問した時に柵越しに世間話をした隣の家の老人だった。隣にもうひとり御婦人が控えている。確か表札は権田だったと三村は記憶している。
権田家もこの遺言状開封に立ち会うべき人だったのか。隣人は除外という三村の認識を覆えす。これまた、三村には意外な事だった。
剛三郎に進められて前列の右端に座った二人は、剛三郎と顔見知りのようだった。ということは…席次として我々より関係が深い訳だ。いや、この際自分たちは大した関係などない。と…改めて考え直す三村だった。
このメンツがいかに遺言状に関わっているのか不思議で興味深い事だった。きっと今日集められるメンツもガイダンスに載っているに違いない。50年の間に関係や生存に変化があることは解っていても…綿密に仕組まれた故老人久我直之の仕掛けの披露を待つようなワクワクする気分だった。
「こほん、では改めまして。始めさせていただきます」
剛三郎が正面に向き直って一礼し、盆の上に乗せられた袱紗をめくると中から封筒が顔を出した。手にする遺言状は昨日書かれたもののようにしわひとつ無い美しいものだった。剛三郎がハサミを入れる。中から達筆な和紙に筆で書かれた遺言状が姿を表した。
「また、こちらも筆書きなんですね…」
「長い眠りから覚めたというところか…」
モンドリアンのマスターが重々しくそう言って姿勢を正した。
「では、読み上げさせていただきます。
私、久我直之は、遺言として次のことがらを記す。
①遺言者の有する財産のうち後記の不動産を遺言者の娘の保護者である権田利史に譲る。相続人が死亡した場合は法廷相続人がこれを相続する。
②遺言者は遺言者の有する『横澤商会』の土地建物を佐竹佑一に譲る。相続人が死亡した場合は法廷相続人がこれを相続する。
③遺言者の有するカフェモンドリアンの店、店内の美術品はカフェモンドリアンのマスター山路優介に譲る。相続人が死亡した場合は法廷相続人がこれを相続する。
④遺言者の有する動産。久我家の地下に眠る車5台及び久我自動車販売の権利一切を妹久我喜代美に譲る。相続人が死亡した場合は法廷相続人がこれを相続する。
⑤それ以外の財産、証券、土地を娘、久我守江、咲衣、幸智に残す。相続人が死亡した場合は法廷相続人がこれを相続する。
※久我幸智は母久我守江が病弱なため、双子として生まれるも乳人権田利史に養育を託す。そのまま無事に育ってこの遺言を受け取って欲しい。
以上のことを管財人弁護士額田公人に託す。
①の不動産は東京都墨田区丘の上丘陵3−5−1権田邸
声が良い。オペラの一幕を見ているように朗々と読み上げられた遺言状。会場の中をゆったりと響き渡る声は若く快活で重々しくそれだけでこの開封を息子に託した2代目管財人の配慮が忍ばれた。全てを聞き終えた三村は、これは一杯食わされたと思うしか無かった。
当時、確かに叔父久我則男の驚異は感じていたものの犯行があったとすれば、この遺言状が書かれた時の5年後。しかもその確証は明らかにならず、たまたまもうひとりの孫である久我幸智を権田家に託し育てたことが功を奏してひっそりと守り育てることが出来た。
事業は順調に軌道に乗り多くを残してこの世を去る久我直之氏としては大手を振って財産分与が出来ない事がさぞかし残念だっただろう。しかし、彼の財産を虎視眈々と狙う見えない敵から守るために、この見事な遺言状を残してこの世を去る。彼の意思を継ぐ者たちは自分の所有とはっきり定められてないにもかかわらず、長年の間任された企業や家を守り育てて今に居たる。それぞれ重い長い50年だっただろう…
50年を経て、其々が思った通りの結果を出せていたのだろうか。緊張していた顔ぶれが、安堵に包まれていた。
「良かった。これからも今まで通りで良いってことですな」
「幸智ちゃん、ちゃんとおじいちゃんの気持ちが聞けたね。これで安心だ」
あの上品な御婦人こそ生き別れた双子の妹、久我幸智であり、亡き久我直之の最愛の孫娘。二人が交通事故にあった後いかに生きたのか三村の興味はそちらに移ろうとしていた。
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