その⑩ 眠っていた遺言状

 2022年3月28日…その日は、もうそこまで迫っていた。あの人影も途絶えて閑散とした『横澤商会』界隈に、当日はどんな顔ぶれが集まって何が起こるのか、日頃は度胸の塊のような夕香も不安なようなドキドキするような…初仕事が上手く行くようにと祈っていた。

「いったいどう決着したら君にとって無事解決ってやつなのかな。想像もつかないけど、聞かせてもらえる?僕も楽しめるように」

「先生、そこのところは私にもまだわかりませんけど、穏便に何事もなく片付いたら良いなと願っています。揉めて殴り合いになったりしませんよね。誰と誰がって具体的にわからないんですけど」

「ははは、それは見ものだね。さあてどうなるか、そんなハプニングもあるのか、蓋を開けてみないとこれはわからないな〜」

 三村は笑わない目でそう言った。楽しんでもいないし、冷静そのもの。三村なりの考えがあるように思えた。


 開封当日…管財人の剛三郎は朝、銀行に寄って貸し金庫の蓋を開け、書類を請け出すとその足で『横澤商会』に向かった。剛三郎にしても祖父から預かった大切なクライアント、準備万端とは言え、今日は忘れ物をしないように、事故に合わないように慎重にやりきろうと大きく息を吸った。


「父さんは出かけ無いんですか?横澤商会まで」

 朝食の席で剛三郎が父に声をかけた。

「今の所出る幕はない事を希望している。様子を見させてもらうよ。大揉めするようなら出番があるかも知れないけれど…会社の内部もトラブルはないような気がしている。親父と違って一から立ち会っている訳じゃないからね。どれだけ資料を読み込んでも当時の事が自分のものにはならないんだよ。実感が沸かない。登場人物の心まで掴めないからね」

 本音だろう。父はそう感じている。

「椅子はどのくらい並べますか」

「う〜ん。大盛況と行かないことを願って、6の2列12にしよう」

「はい、解りました」

「原本は銀行に残すように、ひとりで銀行に行かないように誰かもうひとり連れて行って下さい。立会人も兼ねてね。何かあるといけないから」

 と、釘を刺すように言った。今更何が起こるかなど考えようもなかったが、もし、この相続に反旗を翻すものがあるとすれば戦わなければならないことも想定しているようだった。


 三村と夕香が例の駐車場に車を止めてテクテク歩いて到着する。やはりこの一角はゴーストタウンなんだろう…今日もひっそりと静まり返っている。

「そうか、だから駐車場もあちこちにないんだ」

 今更気がつく夕香に三村がクスクスと笑った。

「来る人がいないと儲からないからね」

 歩きながらこの眠った町並みが思った以上に広範囲な気もする。街が朝の光を浴びて凍りついたように眠っている。佐竹一郎というビルの所有者はいったい何故こんなに長い間放置しているのだろう。あるいは、50年経った暁にはどうしようとか計画があるのだろうか?

 2階に上がると、すでに椅子が並べられていた。剛三郎とアシスタントらしき女性が部屋の隅を掃除している。

「おはようございます。ご苦労さまです。お待ちしていました。当事者じゃ無い方がいてくれるのも我々としては有り難いと言うか…嬉しいです。なんか冷静に見守って頂けそうで、こちらでもう少しお待ち下さい」

 そう言って2列目左端の窓に近い2席を薦めてくれた。まだ誰も来ていない。時間は予定の10分前を指していた。

 ああ、あそこに時計があったんだと三村は改めて無機質な壁を眺めた。何時からあった時計なのかはわからないがこの部屋で孤独に長い年月を刻んでいたに違いない。

 静かに時を待つ会場には花が生けられている。剛三郎の横でまめまめしく動いている彼女の計らいだろうか。

 殺風景な放ったらかされたままだった『横澤商会』のビルの一部屋が、今日は華やいで見える。ひょっとして今日のこの日のために保存されたビルだったんだろうか。会場がここと、50年前にはすでに決められていたのかも知れない。


 ギーと、扉が開く…

 最初に顔を見せたのは三村の依頼人、久我皇子だ。三村は立ち上がると扉に近づいて挨拶をした。

 あれ以来会っていないが今日は心無しか落ち着いて少し化けて見える。続いて彼女の後ろに、もうひとり見覚えのない女性が立っていた。歳はとっていても清楚なお嬢様という感じ。おお、さては…この御婦人がモンドリアンのマスターの想い人だろうか…

「先生、あの人…ひょっとして…」

「ああ、間違いない、噂のマドンナかな、今日の主人公だろうね」

「主人公…そうなんですか、じゃじゃあ…」

「いや僕に聞かないで。何かが解るわけじゃない。そんな気がするだけだよ。ラブレターの受取人ってところだな」

 三村は少し嬉しそうに表情を緩めた。

 この辺りから三村はすでに、自分たちの役割について感じとっていたんだろう。無理せず攻めもせず、静かに事の成り行きを見守る覚悟でいた。



 


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