その⑧ 乾物商「横澤商会」
戦後、市井の人々は、手にした少しの元手でさらに財を大きく膨らまそうと数多の者が小豆相場に手を出した。堅実に投資し徐々に育てた資金を元手に別の事業を初めた者もいたが、あぶく銭でもうける端から考えもなしに使って、結局何も残せなかった者もたくさん生み出した。多くの者が人生を賭けて、一喜一憂し相場に溺れて血眼になった。
かの『横澤商会』もご多分に漏れず小豆相場で大勝ちし、それを元に少しずつ商社として乾物を売買し、米も扱い、繊維産業を起こして既製服の製造をしたり、確実に手広く商売を拡げていつしか堅実な経営者となり、会社は安定し、地域でも指折りの大企業となった。
地元の大企業ともなると表向き羽振りの良い話が広がる。が、最初は小さな『乾物商』だったというのがこの辺りでは有名な話しらしく、公に『横澤商会』は、地元の盟主として尊敬されている。が、誰に聞いても小声で似たような話をする。何軒か回ると大まかながら実態を知ることが出来た。
もちろん裏付けは後でするとして、ひとまず輪郭は掴めた気がする辣腕弁護士三村寿紀だった。出来ればその会社の創業者を知りたいと思ったが、創業者についての情報が浮かんでこない。『横澤商会』それは巨大化した幻の企業で実態を知るものは意外に少ないらしかった。
さらに、昔の噂話をよく知る者も、『横澤商会』の話になると皆目見当がつかない。おまけに社屋の周りはシャッター街と化して話を聞く者にも出会えない。現在表向き代表を務める佐竹一郎、この人物がどういう経緯で社長に就いたのかイマイチよく分からなかった。
弁護士のかたわら探偵紛いなことも依頼があれば引き受ける三村は、調べるのが得意で資料を読んだり足を使って話を聞き回ったり、豆に動くのが好きだった。今回も根本は同じで苦にはならなかったが、どうも煙に巻かれて実態がつかめなかった。
ただ、株にめっぽう疎い三村は。すでに神話のように感じていた小豆相場というものが未だに機能していること、その実態をあまりにも把握できてなかった事に内心驚いた。
『横澤商会』を立ち上げ乾物商として成功した人物、久我直之が、昭和47年、60歳で亡くなった。戦争が終わって27年。その頃、反対に相場に失敗して落ちぶれていた85歳の叔父久我則男は、遺産のお零れを狙っていたらしい。しかし、期待していた遺産は50年の長い眠りについて簡単に手が出せない事を知り大いに失望した。
自分には到底立ち会えない昭和97年の3月28日を深く記憶したに違いない。
しかも亡くなった当時。久我直之には法廷相続人としての妻も子供もいて、自分に回ってくる遺産は初めから無かった。遺産がなくても生活するだけの資産を管財人が管理し受け継ぎ表向きに何の問題もなく『横澤商会』が揺るぎなく運営されたことにも叔父ながら舌を巻いた。
この50年、故人の遺言状を守り会社を筒がなく維持した初代管財人の額田公人も腕の良い弁護士だったと思われる。
「私の祖父は、その額田公人なんですけどね。この仕事に命をかけていたらしいですよ。子供の時なんとなく笑って聞いた話なんですけど、この案件で出かける時は身支度も顔つきも違ったって」
「おじいさんは今、何歳ですか?」
「90歳です。意識はしっかりしてるんですけど肺をやられてしまって、車椅子生活です。ここ20年は入院したり退院したりの繰り返しです。気管支も弱くて苦しい日もあるんですよ」
「仕事を引き受けたのが40歳。油の乗った時期ですよね」
「祖父は元々『横澤商会』の顧問弁護士だったみたいです。昔の書類は手書きだから筆跡で人物認定できたりするんですよ。今はパソコンだからそんなの無理ですけどね」
味気なくプリントアウトされた書類を眺めて額田剛三郎がそういった。
「そろそろ公開の日が近づいてきましたね。準備は万全ですか?」
「まあ、用意したものを開けるだけですから、僕にとって準備するものはありません。よく切れるハサミくらいですよ」
実におおらかだ。夕香も釣られて笑ってしまった。
「揉めないことを祈っています。どんな中身であれ故人の残した大切な意思ですからね。封印って凄いですよね。しかも50年間。誰も知らない事実がこの世の片隅に存在していた。みたいな…実体としては、これ、お伽噺ですから」
『揉めないことを祈っていますか…』腕の良い額田公人ならなんて言っただろう。と
三村は剛三郎の話を聞きながらそう思った。
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