その③ お屋敷

 机の上に広げられた封筒と便箋は、縁に花柄があしらわれた女性的なものなのに、どっしりと書かれた筆文字は黒黒と光って、どう考えてもちぐはぐな太筆の男手によるものに見えた。

「まあ、あそこへ行ってらしたんですか、あの家は叔父の家なのです。

 私の夫の母の兄の家。叔父の家はもう随分前に家系が途絶えてしまって、今は誰も住んでいないのです。

 その叔父の遺言が残されていましてね。死後50年間、開けてはいけないことになっていて、まだその、手つかずに管財人がそのまま管理しているんです」

「死後50年ですか…50年と言うと代も変わっていますね…管財人も替わったんでしょうかね。その叔父さんのご親戚は誰かご健在ですか?」

「いやもう誰もいません。私の父も既に鬼籍です。でも亡くなった叔父はずっと何かに怯えていたようで、まあ今更、怯えたところで跡継ぎもいない訳だし、家もあの通りの荒れ放題でどうにもならないんですけどね。

 こういう場合遺産ってどうなりますの」

 品の良い御婦人が率直にそう聞いたことに夕香はドギマギした。

「まあ、その遺言状を開けてみないとどうなることやら、御本人にご遺族がないとなると姪御さんですか、あなたに渡るものも出てくるんでしょうが…私には判りかねます。で、その50年は何時になるんでしょうか?」

「3月28日、あと二月…」

 御婦人は頭の中にカレンダーを浮かべてそう言った。

「二月…あの、差し支えなければ、どうしてその日を御存知なのか聞かせていただいてもよろしいでしょうか?直接の遺族でないあなたが、管財人と連絡を取っていらっしゃるとか?」

「まさか、家とあの家とは昔から距離があってほとんど交流はないんですの。叔父が亡くなった時まだ生きていた大叔父が85歳で私の父に言ったそうです。

 あいつは50年開けられない遺言状を残した。それが開くのが壬寅のとし、昭和97年だって言ったんです。それがずっと言い伝えで今までね。執念深い話ですよ。お恥ずかしい」

 夕香はクラクラした。こっそりスマホを取り出して調べる。昭和97年って…2022年?今年?かのえとら年。想像するに、その年を忘れないように家命のように代々語り継いで今まで来たと、大叔父の執念と、叔父さんの怯えが言い知れず背筋を凍らせる。話す口ぶりからも不快感が手にとるように感じられた。

「あなたのご兄弟は?」

「弟が一人、それで家の家系は終わりなんです。大叔父の家族のことは分からないんですが、相続者がいない場合私たちも関係してくるんですよね」

「確かに、直径の子孫がいれば関係ありませんけどね。どっちにしても遺産が有るのか無いのかもわかりませんし。今の所3月28日を待つしか手が無いんじゃないでしょうか」

「なんか恐ろしくて落ち着かないんです」

「何故?」

「私と弟に相続権が有るとすれば、揉め事が起きたりしないでしょうか」

「揉め事?それも、開いてみないとわからない、ですね。全部寄付なんてドラマみたいですが、有るには有る話です」

 これには反応がない…遺産が目的、じゃないのか…

「殺されたりしません?」

「え?あなたが…なぜ?そう思われるのですか?」

「邪魔者じゃないですか、相続人にとって…私も弟も…」

「相続人?いないはずの相続人が存在すると…誰かに脅されてます?具体的に」

「いえ、いいえ滅相もありません。ただ、昔からあの家には誰かが住んでいるような気がしているんです。もう45年も経つというのに」

「45年、50年じゃ無いんですか?」

「叔父は60の歳に亡くなったんです。その5年後、叔父のひとり娘と娘の長女が交通事故であっけなくふたりとも亡くなって、家系が途絶えました。その後は空き家です。もう誰もいません。長いことあのお屋敷は閉ざされたまま、今に至るんです」

「交通事故ですか…

 あの、もうひとつ叔父さんの奥様は?」

「私は会ったことがないんです。あの当時あの家にいたのか…当時56歳で生きていれば105歳。その後のことは聞いたことがありません」

「今は失くなったとして、その後どうなったか、その辺の事情は如何でしょう。あの家に住んでなかった。記憶があるんですね」

「そうなんですけど、はっきりとはわかりません。印象がそうなんです…でも事故はおじさんが亡くなって直ぐなんですよ。

 なので、わかるんですよ。そんな風に亡くなった二人の怨念があの家に籠もってるって、恐ろしくて仕方ないんです」

「45年、ずっと怖がってらっしゃったんですか?」

「もちろん忘れている時もあります。人間ですから、楽しいことも有るし、でもこの頃思い出すんです。10歳で亡くなった咲衣ちゃんをね。生きていれば私と同い年、私は覚えているんです。咲衣ちゃんの笑顔…」

 御婦人はさめざめと泣いた。約束の日を前にして何かがつっかえて眠れない日が続いているのだろうか、45年も経つのに同い年の咲衣ちゃんが死んだショックがまだ体温のように残っている。

 交通事故って…偶然にしてもそれによって家系が閉ざされた、現実に一つの屋敷が人の住まぬ廃虚と化した。恐ろしい気持ちになるのも分かる気はする。メモを取りながら夕香が気の毒そうに依頼者に微笑みかける。

「ご主人は今回のことで何か話されていますか?」

「あの人は、全然興味ないみたいなんです。人の家のことだって」

「ご主人はご健在ですか」

「ええ、入院してますけどね。今は仕事も引退して療養しています」

「お子様は?」

「家は子供は出来なかったんです。弟のところに娘が一人。今はイギリスに暮らしています」

「ご主人の弟さんですか?」

「はい。弟は名古屋で車関係の仕事をしています。子供の時から車が大好きだったらしくて他のことに一切関心がないんです。まあ商売も上手くいってますし興味がないんでしょうね」

 いろいろひと通りの話を聞いた後、お店の前で別れた。車を一緒に待とうかと訪ねても、

「大丈夫です。先に行って下さい」

 と…頑なに拒む様子から自分の手の内を見せたくない。そんな感じもした。


「気になることは有った?」

 先生が聞く、

「滅相もないって、あのお姿から想像できない激しい反応でしたね…この辺り嫌いなんでしょうか」

 夕香は辺りを見渡してそう言った。つまらないことを覚えている。でも鮮明に拒否の姿勢が感じられた。

「うん、2回も、言ったね。姿に似つかわしくない。わざわざ嫌いなところに僕達を呼び出したことも?確かに気になる…腑に落ちない。

他には、何か有った?」

「う〜ん、う〜ん」

「あの人、旦那さまと幼馴染なのかな。咲衣ちゃんって人とも、でないと10歳の時から知り合いって、旦那様の従兄弟でしょあの御婦人とは縁も所縁もない」

「あ、わざとあんな言い方したんでしょうか。罠かしら?私達を罠にはめようとして」

「罠…僕達を…ハハハ、その発想も面白いな」

 先生は嬉しそうにそう言って高笑いした。


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