夏の暑さに負けそう

第1話

―夏の暑さに負けそう―


 一人の女の子が俺の前から消えたところで、俺の日常には大した影響を及ぼさない。小説や漫画の登場人物のように分かりやすく動揺して、頭の中その人のことで頭をいっぱいにして失敗を重ねることもない。むしろ、今まで以上に淡々と日々を過ごしている。


 通い始めて二ヶ月。いつも同じ席に座って、同じ酒を同じ順番で頼む。


「ワンパターンすぎて、次が読めるわ」


 悠未ゆうみさんにボソッとそう言われて苦笑する。いつかまた会えるんじゃないか、そう思って通いつめた結果だった。


 新しくできた悩みは、ハルちゃんに会えないことだった。もし、そんなことを相談したら笑ってくれるだろうか。


浅雛あさひなさん」


「は?」


「お知り合い?」


 珍しくこんな所で苗字を呼ばれて勢いよく振り返る。


「なんで跡守あともりさんが……あ、えっと、同僚の跡守さんです」


「ふーん……座れば?」


「はい、失礼します」


 さりげなく勧めたのは、ハルちゃんが座っていた席……ではなく、反対側の隣の席。いつもどうしてもこの席だけは空けてしまう。


「跡守さん? はどうしてここに?」


「浅雛さんとお話したくて」


「え、俺?」


 同期ではあるけど、あんまり接点はない。でも、何かにつけて関わろうとしてくる。


「そうです」


 仕事でなんかあった……というわけではないだろう。違う部署、それも関わりのほぼない部署だ。だから、なんとなく予想はつくが、わかりたくない。


 というか、俺と話したくてここに来たって……尾けてきたってことか?


「あの、よくここに来られるんですか?」


「まあ、ここで会いたい人がいて……最近会えてないけど」


「あら、そんなこと言っちゃうんだ」


「隠しても仕方ないかなって」


 他に想いを寄せる相手がいるんだと、あなたには興味がないんだと、伝えたいからというのが大いにあるが。


 話したくて尾けてくるというほどの興味なら、前提として結構な好意がこちらに向いていると予想がつく。過剰にモテたことはないが、好意を向けられたことがないわけではない。ここまでされて気づかずにいられるほど鈍感ではない。


「で、話って何かな?」


「えっと……お休みの日は何をされてるんですか?」


「何も」


 もっと広がりそうな話題の一つや二つ用意してくればいいのに。後尾けられてこっちから話題を広げるなんて、そんな優しさを向ける相手だと認識してない。


「それはいくらなんでも冷たすぎでは?」


「まあ、そうか、も……え?」


 急に降ってきた声と、隣に腰掛けた人の気配。意識の全部が持ってかれる。


「お久しぶりです。ユキさん。悠未さんも」


「ついでかい」


 笑顔が足りないな、なんて前のように笑って悠未さんに絡む。前の光景が戻ってきたみたいで、それがとても嬉しい事だった。


「で、長い間見なかったけど、一体何してたのよ」


「家を片付けてました。今めちゃくちゃ物がないですよ。空っぽって感じ」


「持ち直したってこと?」


「まあそんなところですかね」


 そうか、家に帰りたくなかった原因を、一人で立ち向かって片付けたのか。


 ハルちゃんは、強いな。ハルちゃんの事情は上辺のものしか知らないけど、それでも、それが簡単ではなかったことはわかる。


「また会えてよかった」


「あー、確かに言っておけばよかったですね。すみません」


 確かに言っておいてほしかった気もするけど、少し気持ちがわからなくもない。俺だって、同じ状況で伝えるか微妙だ。


 だって、約束していたわけではない。こっちが会いたいと思っていても、相手がそうだとは限らない。


 その程度の関係だったから。


「浅雛さん、その方は?」


「どうも、ハルです。浅雛さんとは飲み友達ってところですかね」


「そうだね」


「そう、なんですか」


 ハルちゃんがいるなら、あんまり酷いところ見せたくないなって気持ちと、ハルちゃんがいるなら、ハルちゃんとだけ話したいという気持ちが絡まる。


 せめて、尾けてくるのが先週であったのなら、冷たくはするかもだが、相手はできた。


「浅雛さんは、なにかお変わりありました?」


「いや、特にないよ。ハルちゃんは?」


「私も家の中がスッキリ片付いたくらいですね」


 “浅雛さん”とハルちゃんが呼ぶのは、彼女らしい気遣いだろう。会社の人の前では本名の方がいいだろうっていう。


「悠未さんは?」


「特にないわよ」


「ふーん。まあ、そんなに経ってませんもんね」


 ハルちゃんがこっそり跡守さんの様子を伺っているように見える。俺の態度から、『知り合いではあるが親しくない人』だということはわかっているだろう。その上で、どう会話に巻き込むのか、巻き込まないのかを考えているのだろう。


「あの、帰ります」


 その空気に耐えきれなくなったのか、跡守さんは会計を済ませてバーを出ていった。


「送らなくていいの?」


「……ストーカーを? 冗談でしょ」


「同じ会社の人かと。ストーカーだったんですか?」


「合ってる合ってる。同じ会社に勤めてるストーカーだから」


 用もないのにうちの部署に来たり、就業後後を尾けたり、十分ストーカーの部類だと思う。まださほど被害は受けてないけど。怖いのは自分が何をしているのかおそらく自覚がないことだ。


「え、なんか実害とかは……」


「今のところないけど、気をつけなきゃとは思ってる」


「同じ会社ってのも中々ネックですよね。あれですかね、『好き』が行動すべてを正当化できる理由だと思っている人みたいな?」


「そうかも」


「面倒くさそうね」


 いや、もう、ハルちゃんの言ったそれ、大正解だと思う。それでしかない。全部自分は悪くない、だって好きだから仕様がないとでも言いそう。そんなはずは全くないのに。


「まあ、とりあえず跡守さんのことは忘れて、ゆっくり飲もう」


「考えても仕方ないですもんね。飲みましょう」


 また、いつも通り甘いお酒を頼むハルちゃんに、以前のような時間が帰ってきたと、嬉しくなる。


 俺はこの時を待っていたんだよな。ずっと。


 思わず緩んだ顔で、ハルちゃんを眺めれば、困った顔で首を傾げられた。申し訳なくなって、誤魔化すように乾杯を仕掛ける。


 変なことを考えていたわけではないから、許してほしい。



 ハルちゃんとの時間はあっという間に過ぎた。時々口を挟む悠未さんも、少し楽しそうにしていた。


「帰るなら、ハル送っていきなさいよ」


「ああ、確かに。送るよ」


「いいんですか? じゃあお願いしようかな」


 それぞれ会計を済ませて外に出ると、少し涼しい風が吹いていた。


「そろそろ秋ですかね」


「まだ、日中はあっついけどね」


 こっちです、とハルちゃんに案内されながらハルちゃん宅へ向かう。人通りの多くない道。でも時々、不自然な足音が聞こえる。


「ハルちゃん」


「私も気づいてます」


 小声で話しかければ、ハルちゃんからも小声で返ってくる。


「どうします?」


「ハルちゃんの家がバレてもまずいと思うし、追い払おうか」


「大丈夫ですかね?」


「さすがに力では勝てると思うけど……」


 二人で足を止めてみれば、後ろでしていた足音も止まった。


「跡守さん」


 振り返って声をかけると、ゆっくり物陰から出てきた。


「浅雛さん、私――」


「迷惑です。すぐに帰ってください」


「でも――」


「迷惑なんです。ただひたすら」


 なんでとか、こうしてほしいとか、そういうことは一切言う気がない。なんでとか言えば、気になっていると勘違いされそうだし、こうしてほしいという言い方をすれば曲解されかねない。だから、こちらの揺るがない感情だけ伝える。


「そんなこと言わないでください。私は――」


 それでも、食い下がってくるよな。これで引き下がるような人なら、今こんなところにはいないだろう。


「浅雛さん、警察はともかく、会社には相談してもいいんじゃないですか? 何か手を打ってくれるかも」


 そこに、ハルちゃんから助け舟。確かに、警察じゃあもっとわかりやすい被害にでも遭わない限り大したことはしてくれないだろうが、会社に相談すれば、確実に跡守さんが会社に居づらくなる何かはしてくれるだろう。うちの会社はホワイトを売りにしているので、そういう対処も柔軟だと思う。あっという間に噂としても広まりそうだし。


「そうだね、あまりにもしつこいようだったら、そうしようかな」


 ハルちゃんには優しい声色で話す。差を思い知れ。あんたには特別冷たくしているんだ。


「今日は、帰ります」


「二度と尾けてこないでください」


 涙目を浮かべた跡守さんは、早歩きで去っていった。涙を流せば同情でもされて優しくしてもらえるとでも思ったのだろうか。それとも、冷たくあしらわれた自分の方が被害者だとでも思っているのだろうか。


「エスカレートしないといいですけどね」


「ほんとにね。じゃあ、帰ろうか」


「そうですね。今度こそちゃんと正規ルートをご案内します」


 どうやら、ストーキングに気付いてルートを変更していたらしい。さすがだな。


 そのあともたまに確認したが、ストーカーはいなかった。今日のところは本当に諦めたらしい。


「じゃあ、ユキさん、ありがとうございました。おやすみなさい」


「うん、またね。おやすみ」

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