第2話


 一週間経ってまた訪ねると、二人とも先週と同じ場所にいた。


「いらっしゃい」


「笑顔が足りない」


「うっさいわね」


 二人の会話のテンポの良さに吹き出しそうになってから、挨拶を済ませる。じっとりと湿って肌に張り付いたシャツを室内の冷たい空気を取り込むように剥がす。


「ユキさんお疲れ様です」


「ありがとう。ハルちゃんはまだ夏休みだっけ?」


 手を差し出されて、何かと思いつつ鞄を差し出すと、鞄を受け取り仕舞ってくれた。会うのは二度目で、何より客同士で、おかしな光景に思えるのに、それでもこんなことが何故か楽しい。


「まあ、はいそうですね。九月の中旬まで」


「いいわね、暇で」


「アルバイトで忙しくしてますけどね」


 また、勧められた同じ席に座ると、先週と同じものを注文した。ハルちゃんは先週と違うものを飲んでいた。でもやっぱり甘そうなお酒だった。


「ユキさんは、だいぶ疲れてる感じですけど、何かありました?」


「いやあ、上司がね……」


「会社員あるあるってやつですかね」


 笑って言いながら、グラスの中身を飲み干すとおかわりと声をかける。先週も思ったけど、ハルちゃん結構お酒に強いんだよな。アルコール度数が高くなさそうなものばかりだとはいえ、相当な量を飲む。


「ハルちゃんのありがたいお言葉、なんかない?」


「なんですか、それ」


「先週、結構ありがたかったから」


 そう返せば、嬉しそうになにがあったのか詳しく聞かせてと促される。嬉しそうに笑う表情は、珍しく歳相応に見えた。


「理不尽な人っていますよね、私は接客業なんで、上司よりお客さんに感じること多いですけど」


「あー、やっぱり誰にでもあるよね、そう思うこと」


「そうですねぇ、大事なのは自分を抑えつけないことと自分のせいにしないことですかね」


 また生意気な、そんなつぶやきと共にグラスが置かれる。


「感情のまま言葉をぶつけることは我慢しなきゃいけないことですけど、怒りの感情を持つこと自体は悪いことではないと思うんです、理不尽な方が悪いし」


「確かにねぇ」


 グラスに手を伸ばすと、冷たさが気持ちいい。


 理不尽な人間っていうのは一定数いて、中には自分が理不尽な目に遭った経験を、『だから止めよう』ではなく『だから自分もやっていい』と自分の常識を曲げてしまう人もいる。


「私はいつも心の中でボロクソに言ってます」


「ボロクソに」


 思わず笑いながら次の言葉を待つ。いつの間にか悠未さんもカウンターの向こう側で椅子に座っていた。


「はい。心の中で何を思ってようが誰にも迷惑かけないじゃないですか。神妙な顔して真剣に謝りながら心の中では、このクソジジイが、お前中心の世界なんざこの世にねぇんだぞとか言ってます」


「怖いね」


 自分だったら、いつも……そうだな、結局後悔とか反省とかを繰り返す。なんなら、その理不尽な人間のご機嫌をとっておけば、なんて考える。そうやって自分を追いつめていく。


「その場で発散するのが1番ですよ。そして自分を責めない。自分のミスならちゃんと反省はします。でも、理不尽なことは相手が悪いんだから、こっちがどう気を回したところで理不尽は理不尽として作用するんです」


 確かに、理不尽がデフォルトな人を相手にしてしまえば、どのルートを辿ったところで最後には結局粗探されて理不尽なこと言われるのがオチだよな。


「なんとなくわかる」


「だから、理不尽人間のせいにすればいいんです。それで心の中で悪口。そのうち成功して見返してやればいいんですよ。理不尽人間はいくら取り繕ったところでその程度の人間ですから」


「また、ボロクソだね」


 確かにそこまで言ってしまえれば、例えそれが心の中でのことでもスッキリするかもしれない。


 その程度の人間、なら確かに実力は伴わない経験値だけ積んで、ベテランには成れても敏腕には成れないだろう。そうであれば、多少位が上がっても限度はあるだろう。使えない人間がすでにトップに立っていたら話は別かもしれないが、そんな会社なら辞めた方がいいかもしれない。


「だって、ちゃんとやってて賢い人の方が嫌な思いをする世の中って嫌でしょ?」


「まあ、確かに」


二十歳はたちの言うことじゃあないわよね」


「悠未さんの代わりだってば」


 また二人の言い合いが始まりそうになって口を挟む。


「言われた通りにやってみる、今度から」


「あと、愚痴るのも身体にいいですからぜひここに」


「なんであんたが宣伝してんのよ」


「だから、悠未さんの代わり」


 こっちがいくらテンポを崩しても、二人には関係ないみたいだ。


「二人とも面白いですね」


「セットにしないでくれる?」


「確かに。年齢差ありすぎ」


「関係ないし、七つしか違わないですし」


 七つってことは二十七歳か。見た目はもう少し若いようにも見えるけど、落ち着き様はもっと上に見えるな。


「七つ違えば充分にジェネレーションギャップを味わえる」


「やめなさい」


 楽しそうな二人をやっぱり羨みながらグラスを空にする。


「悠未さんが話し下手って思わないけどなあ」


「ハルに引っ張られてんのよ。そういう意味ではありがたいけどね」


 思わず呟いた声に返事をくれながら、グラスを下げて次のグラスが置かれた。


「店長しっかり」


「うるさいわね」


 もっと、仲良くなれたらな。そんなことを思いながらハルちゃんの横顔を眺めた。


 いつの間にか、ハルちゃんに『お疲れ様です』と声を掛けられるのが当たり前になって、その声を聞いてやっと力が抜けるようになってしまった。


 かけがえのない、当たり前になった時間は、もうとっくに手放せない。少し前まで日常だったそれを手放すのは簡単だったのに。


 毎朝重い身体を引きずって会社に行くのは変わらない。無駄な工程が多すぎて苛つく仕事も変わらないし、電車に押し込められる憂鬱も変わらない。ただ帰宅後暇になって、ただ金曜日の夜だけ最寄り駅と自宅の間にあるバーに立ち寄るようになっただけ。


 それが手放し難くなってしまったのは、ハルちゃんのおかげだ。


「早く金曜がくればいいのにな」


 思わず零した呟きを、同僚は見過ごしてくれなかった。面白がって、金曜デート? と尋ねてくる。その笑顔がとてつもなく腹立たしくて、さあなと誤魔化した、つもりだった。


浅雛あさひなさん、金曜日になにかあるんですか?」


「いや……」


 この人は確か、別の部署の……なんでここにいるのかは知らないが、あまり関わりたくないな。距離の詰め方が苦手なタイプだ。


 周りの奴らが、跡守あともりさんも気になるよね、と茶化してくる。くだらない会話を俺を中心にしてしないでくれ。


「なにもないなら、ご飯でも――」


「いや、なにもないわけじゃないよ」


 あえて、言葉を遮ってみれば、そうですかと小さく呟いて去っていった。俺はため息を吐いてから、座りなおす。周りの同僚たちも気まずい顔を隠さずに、散っていった。


 今週も始まったばかりで、気が遠くなっても、書類を積まれるのに比例してストレスも積み重ねられても、今のような面倒に巻き込まれても、『お疲れ様です』とかけられる声を思えば頑張れる。そんな風になってしまったんだ。


 何週間も通って習慣になったその時間、二人の距離感がずっと羨ましくて、そんな風に考えているうちに、なんだか感情がよくわからなくなってきた。


 珍しく、営業みたいな仕事を任されて街を歩いていれば、どこかで見たことあるような人物を見つけた。


「あれ、悠未さ……」


「お前ちょっと黙れ、こっち来い」


 思い当たったと同時に口を手で塞がれてファミレスに連れ込まれる。時計を確認すれば、まあなんとか余裕がありそうな時間だったので早めの昼食ってことにしようと決めた。


「えっと……?」


「まさかバレると思ってなかったから……」


両手で顔を覆いながらそう呟く悠未さんは、普通にイケメンだった。


「え、オカマじゃないんですか?」


「声がでかい。あれはただの仕事だ」


 そんな大きい声出したつもりはないんだけどな。小声の方がいいのか……?


「え、そういうもんなんですか」


 普通に普段からそういう服装をしている人なんだと思ってた。化粧もだけど。


「たぶんそういうの珍しいんだろうけど」


「ですよね」


 ああ、やっぱりそうだよな。好きじゃなかったらなかなかできないよな。俺ならできない。好きじゃないし恥ずかしい。でも、それが好きなら、そんなこと思わないだろう。好きなことが恥ずかしいことはない。興味のない人間が女装するのと、そういうのが好きな人が好きなものを着るのとでは話が違う。


 それはともかく、この人は……


「なんで会っちゃうかな……」


「ハルちゃんも知ってるんですか?」


「まあ、最初にな」


「最初?」


「送ってやってるって話知ってるよな?」


 あー、なんか慣れたもんだとかなんとか。あれも羨ましいなって思っちゃったんだよな。


「ああ、言ってましたね」


「最初に送ってってほしいって言われた時にばらした」


「普通に男だけどいいのかって?」


「まあ、そうだな」


「それで?」


 あの子なら、ちゃんと考えて想定して警戒しそうなものだけどな。今も続いているってことはそこで引き下がらなかったってことだよな。


「貴方なら別にどうでもいいって」


「どうでもいいって……」


 顔がタイプだったとか? いや、それだとしても警戒しなきゃだろ。どんな人間かなんてすぐには見抜けないし、どこまでが本当で、どこからが嘘かなんてなかなか分からないものなんだから。


「しかも、カプセルホテルみたいなところ泊まってて、最終的には……」


「最終的には?」


「……俺ん家に泊まってる」


「はあ?」


 どういう展開でそんなことになっているのか全然分からず、戸惑う。二人とも仲いいとは思っていたけど、付き合っている感じではなかったし、どういうことなんだ。


「なんか、犬とか猫とか拾う人の気持ちがわかった」


「いや、人ですけど」


「俺手出さない自信あるしいいかなって」


「よくわかんないです」


 ハルちゃんとは違う意味で謎な人だな。年齢のわりに凄く大人びているハルちゃんとどこかズレている悠未さん。きっとあの日あそこまで落ち込んでいなければ、出会わなかったような人。それくらい、今までの自分には縁のないような人だ。


「なんか、自分に重ねちゃって。家帰りたくないって言うから」


「なんですかそれ、てか、そもそもそんな話俺にしていいんですか?」


「ユキくんにはちゃんと言っとこうと思って。だってお前ハルのこと好きだろ?」


「は?」


 俺がハルちゃんのこと好き?


「ハルにもお前が合ってそうだし」


「いやいやいやいや」


 いや、人としては好きだけど、悠未さんは恋愛的な意味で言っているよな。


 あー、若干、傾きかけてたな。それは認めよう。でも、そんな誰かにバレる程の気持ちはまだ育ってない。それは確実。


「でもあいつ、結構重いぞ」


 確かにそれはなんとなくわかる気がするけど、そうじゃなくて。


「いや、話勝手に進めないでください」


「あいつのこと色々知っちゃったせいでさ、幸せにしてやりたくて」


「悠未さんが」


悠真ゆうまな。徒野あだしの悠真」


 本名言っていいのか。いや、今それどころじゃない。


「徒野さんが幸せにしてあげればいいじゃないですか」


「いや、俺は無理」


 仕返しをするつもりで、かなり力強く言い返したのにあっさり否定される。アイスコーヒーを飲み干して、勝手に落ち着いている。


「は?」


「好きになれないし」


「あっ」


 そうか、オカマじゃないイコール恋愛対象が異性とは限らないよな。ていうか、オカマの恋愛対象って男で合ってるのか? よくわからない世界だ。


「いや、そういう意味じゃないんだけど。なんていうか、恋愛嫌いだから」


「ハルちゃんで克服すればいいじゃないですか」


 恋愛嫌い? この人も何か抱えているのか。


「じゃあ、聞くけど」


「はい」


「お前はそれでいいの?」


「え?」


 急に声のトーンが変わって、身構える。今度は何を言われるのだろう。


「お前は、お前以外の誰かとハルが付き合って、結婚して、幸せになっていくところを黙ってただおめでとうって気持ちで見てられんの?」


「あー、えっと」


 そんなの想像したことないけど……もしそういうことになったら、それを目の当たりにしたら、羨ましい。いや、それで済むだろうか。

 まだ知らないことばかりで、距離をずっと感じていた。その距離を縮めようともしてこなかった。でも、初めて会ったその日に聞いた言葉に、それを生み出したハルという女の子に魅せられた。


「あいつは人の何倍も、常に頭回転させてる。きっと、お前との関係も自分の気持ち無視で色々考えてるだろうぜ」


「どういう意味ですか」


「お前の気持ちはともかく、距離を縮める気がないことは読まれてんだよ」


「そういう……」


 確かにあの子はそういうの悟っていそうだな。それだけ敏いイメージがある。


「今週末も、来るだろ?」


「はい……」


 頭の中に色々詰められた感じだ。だいぶぐちゃぐちゃ。


「……てか、喋りすぎた……」


 ぐったりとそんなことを呟かれて、思わずため息を吐いた。


「それよりさ、聞いていいかわかんないんだけど」


「……なんです?」


「トウって何? 誰?」



 鈍い音を立てて開いたドアの奥、温かい光。

「ごめんなさいね」


「え?」


 いつものように週末バーを訪れて、いつもと違ったのはハルちゃんがいないことだった。


「ハル、来てないの」


「来て、ないんですか」


 来た意味を失った気がして、力が抜けた。


「うちからも出ていったし」


「そう、ですか」


 まさか、突然……いや、でも実際それくらいの関係だった。なんの約束もなく、偶然会って隣の席に座って話をして。


「本当はよくないんだろうけど、これ」


「え?」


 差し出された紙には、四葉のクローバーが描かれたメモ帳に几帳面に並んだ文字。


「個人情報」


飛鳥あすか茉春まはる……」


 思わず名前を読み上げた。新しく、一つ情報を得たのに、ここに本人がいない。


「なんでこんなもの?」


「知らない人間家に上げるってさ、信用できないでしょ。なんかされても身元がはっきりしてれば通報できるじゃない? お互い教えあったのよ」


 なるほど……それもきっと言い出したのはハルちゃんだろうな。それにしても綺麗な字だな。


「それより、飛鳥って苗字聞き覚えない?」


「え?」


 飛鳥……有名人とか? すぐには出てこないな……


「偶然ニュース見てたから覚えてたんだけど」


「ニュース?」


「四月末に高速道路であった事故、ギリギリ一人だけ助かってその後大分騒ぎになってたじゃない」


「あー、ありましたね」


 そんな、自分の近しい人間が関わっていないような事故のことはあっという間に忘れてしまう。悠未さん、よく覚えていたな。


「生き残った二十歳の長女」


「まさか」


 確かに、それくらいの年齢で女の子だったけど。


「違ったらよかったんだけどね」


 ってことは、本人に確認済みってことか。それにしても……


「そのニュースネットで見ましたけど、まさかこんな所で会うとは……」


 家に帰りたくないって、そういうことだったのか。


「妙なこと考えていなければいいんだけどね」


 辛そうな表情を浮かべた悠未さんにつられて思わず下を向いた。掴み損ねてしまった。自分の手を見つめながら開いたり閉じたりする。


 一応、色々覚悟してきたつもりだった。来た瞬間砕け散ったけど。


 もう、来ないつもりなのだろうか。もう、会えないのだろうか。


 まだ手を伸ばしてもなかったのに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る