少女に都合の良い世界
翌日、何故か屋敷の使用人から、最近庶民の間で流行しているんです、などと言って小説を一冊貸してもらった。
午後の空いた時間に読ませてもらったが、これがなかなか面白い。
貴族社会の悪辣な計略によって一度離縁を申し付けられてしまった貴族令嬢が、訳アリの辺境伯の下に嫁ぎ、そこで幸せを掴み直すストーリー。
当初は些細な行き違いから辺境伯にも敵意を向けられてしまう主人公だったが、その誤解が解けてからは、逆に下にもおかない溺愛を受ける。しかし、過去のことからそれを素直に受け取れない主人公……。
なるほどなぁ。こういうのが最近の流行りなのか。私が子供の頃は、もっとパワフルな女主人公が活躍する読み物が人気だったはず。
それにしても、この主人公、あまりに鈍感すぎやしないか。辺境伯もそれならそれでもっとちゃんと好意を示せばいいのに。ふむふむ。
私が久方ぶりにフィクションの世界に耽溺していると、あっという間に日が暮れてしまった。夕餉の席では、ビスク様も交えて昨日の夜会の場でのあれこれを話した。
やはりビスク様のコミュニティでもミイヤ様とソマリ家の騒動は話題になっているらしく、ミイヤ様の社交界での悪評もすっかり払拭されたとのこと。さらにめでたいことには、早々に新しい婚約者も見つかったそうだ。
ブル伯爵とのことは、私の口から話題に出すことは憚られた。先代の御当主――ビスク様のご主人様との間になにかあったというのなら、今それを蒸し返すことでもないだろう。
その代わりといってはなんだが、使用人から借りた小説について話すと、フィオ様が急にそわそわとし始めた。
んん??
「ああ、それね。私も読んだことがあるわ。どうだったかしら」
「はい。面白かったです。私がよく小説を読んでいたときとは、また少し流行が変わっているみたいで」
「……それで?」
「はい?」
「……いいえ。楽しめたのなら良かったわ」
「??」
ビスク様。何故そのように、不出来な生徒を生暖かく見守る教師のような目を?
フィオ様はなにをそんなに落胆なさっているのですか?
昨晩から何か腑に落ちないことが続くものだと訝しんでいた私に、フィオ様は改めて就寝前に時間を作ってくださった。
普段あまり私が立ち入らない書斎。用意されたホットワインから、シナモンの香りのする湯気が立っていた。
「メオ。昨日、ブル伯爵と一緒にいた奥方とは、何か話をしたか?」
「いえ。彼女とは特になにも。あ、そういえばお名前も……」
「ムイ=ブル伯爵夫人だ。一昨年、ノルド子爵家から嫁いでいる」
「はあ、子爵家から」
私が言うのもなんだが、なかなか身分違いなご結婚だ。
「ベアド=ブル伯爵にとっては、三人目の奥方となる」
「三人目? 側室ということですか? なぜ二人も……」
「いや、前の二人の奥方はどちらも死亡しているのだ」
「え」
訳ありの伯爵と、そこに嫁いだご令嬢。
今日読んだ小説の内容が頭を過る。
だが、これは、夢見る少女に都合の良い
「二人目の奥方が亡くなられたとき、ブル伯爵は、彼女を故意に死なせたのではないかと嫌疑をかけられた。その時の審理に、私の父も関わっていた」
つまり、こういうことだ。
二人目の奥方には、特にこれといった持病もなければ、領内に流行病があったということもなかった。それにも関わらず、彼女の生家である侯爵家には、なんの音沙汰もなく、ある日突然病死の報だけが齎されたのだ。事件性を疑われるのは当然のこと。しかし、証拠はなかった。
「司法府としても、訴えは確かに受領した。正規の手続きを踏んで捜査も行われた。だが、その捜査の内容は、お世辞にも正義が全うされたとは言い難いものだった」
この国でも有数の資産家であるブル伯爵家の当主の醜聞だ。揉み消すのに力を貸すものは一人や二人では済まないだろう。審理は決し、伯爵は無罪。それどころか、愛する妻を亡くしたばかりの男にあらぬ嫌疑をかけたとして、相手の侯爵家の方が風評被害を受ける始末。彼女の両親の悲憤はいかほどのものであっただろうか。
「ノルド子爵家は、なぜそのような方のところへ、ムイ様を……」
「ノルド子爵領は、国土の東端、魔の森に接した地域にある」
「あ……」
数年前、
そこへ差し伸べられた、金の匂いの染みついた伯爵家の手……。
『鶏小屋を改築したぞ』
『荒れ道を整備できたんだ』
嬉しそうな家族の笑顔。見たこともない風車。牧場に巡らされた頑丈な柵。
明日は我が身。
ムイ様の境遇は、あり得たかもしれない私の姿だ。
「メオ。私は法の代弁者だ。司法が一度無罪と決めた者に対しいたずらに疑いを向けることはできない。だが、父は審理が決した後も、ずっと悩み続けていた」
大法官であった、ファズ=ムウマ様。
ベアド=ブルが無罪とされたのであれば、その最終的な責任はファズ様にある。
無論、本当に無罪であった可能性もあるだろう。だが、ファズ様はそうは考えなかったのだろう。
「君にこのことを伝えることが正しかったかどうか、私にも分からない。だが、当時の司法府の大半がブル伯爵の無罪に意見を傾けていたとき、最後まで父は慎重な考えを持ち続けていた。それに対し、ブル伯爵がなにか
フィオ様のアイスブルーの瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。
いつになく不安げに揺れているように見えるのは、果たして室の明かりのせいだろうか。
「はい。ありがとうございます」
私はうすら寒いものを背中に感じつつも、気合で笑みを作って返答した。
色々と考えさせられることはあるものの、基本的には私と無関係の話だ。
ムイ様に送る招待状の件は、改めてビスク様やシノン様に相談してみよう。
その上で、ブル伯爵が出席しそうな集まりには、今後極力行かないようにすればいいのだろうし。
などと、甘い考えをもっていた私を、一月後に届いた報せが打ちのめした。
ムイ=ブル様が、急な病を得て、亡くなられたとのことだった。
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