黒い雲が、空を流れて
その日は、朝から湿った風が吹いていた。
こんな日は決まって夕方くらいから土砂降りの雨が降る。
昼食後の休息の合間、私は午後のサロンの予定に備えつつ、空の上を流れる雲を眺めていた。
本日のお客様は、ノルド子爵夫人――アニタ様。
先日訃報が届いた、ムイ様のお母様である。
ムウマ伯爵邸に直接お招きすることは憚られたため、両家に関わりのあるお方の別邸を貸して頂く予定だ。
あの日、ベアド様の後ろで消え入りそうなほど縮こまっていたムイ様の姿を思い起こす。
聞いてみれば、嫁入り前のムイ様は、どちらかと言えば活発で、おしゃれ好きなどこにでもいるご令嬢であったのだとか。
今日の占いは、正直辛い。
だが、本来は別のお客様をお招きする予定であったところ、その方からの計らいで特別にアニタ様を紹介してくださっているのだ。前後の事情を知っているだけに、断りづらい。
ぽつりぽつりと、部屋の窓に雨粒が当たり始める。
私がもう一枚肌着を重ねていると、外が俄かに騒がしくなった。
お屋敷の入口の方で、なにか言い争っているような声が聞こえる。
どうしたのだろう。そろそろ出発しないといけない頃合いなのだけど……。
まあ、気づいてしまった以上は見て見ぬふりというわけにもいくまい。
私は傘を用意して自室を出て、玄関の扉を開けた。
「お願い致します。お願い致します」
「おやめください。困ります!」
まだ勢いこそ弱いものの、斜めに降りしきる雨の中で、使用人の女性たちが一人のご婦人を懸命に宥めていた。
「どうぞ。どうぞムウマ伯爵にお目通りを。なにとぞ。なにとぞ!」
門の外側には、そのご婦人が乗ってきたのであろう馬車が停められている。
そこに描かれた家紋を見て、ここ数か月の間に勉強した貴族名鑑の知識を引っ張り出す。
あれは確か、ノルド子爵家の紋章だったはず。
つまり、あのご婦人は、アニタ様?
そんな。どうしてここに。
今日のサロンは別の場所で行うと、確かに約束を取り付けたはずなのに。
私が混乱していると、同じように騒ぎを聞きつけたフィオ様が玄関から現れた。
「一体なんの騒ぎか」
「フィオ様。ええっと、今日、別の場所で占いをする予定だったのですが、それがなぜか――」
「うん? どういうこと――」
「ムウマ伯爵!!」
フィオ様の姿を認めたアニタ様が、使用人たちの制止を振り切って私たちの元に駆け寄り、膝を着いた。
「どうされました!?」
「ああ。ああ。お願い致します。どうか、どうか、私の娘の仇を。あの悪魔に法の裁きを!」
「な――」
私とフィオ様は、それだけで事情を察した。
「貴女は、ノルド子爵夫人で間違いないか」
「はい。はい。そうでございます。ムウマ伯爵。どうぞお願い致します。もはや貴方にしか頼ることが出来ないのでございます!」
「愚かなことを!!」
フィオ様が、声を荒げた。
ただ、その表情は怒っているようには見えない。
雨に濡れたフィオ様のお顔が、くしゃりと歪められた。
「ノルド子爵夫人。私は司法官だ。こんな真似をされても困る。事件の被害者遺族が直談判などしに屋敷まで来ては、その後どのような沙汰を下したとしてもその公平性が損なわれてしまう!」
「しかし!」
どうやら、怖れていたことが起きてしまったらしい。
つまり私は、
「フィオ様。このままこちらに居座られても埒があきません。一先ず、私のサロンにお通ししましょう。あそこは、
「あ、ああ。そうだな」
「すみません、どなたか、サロンの支度をお願いします」
数人の使用人が、慌ててその場を離れる。
泣き崩れるご婦人に、私は傘を差しだした。
雨粒が頬を打つ。
風がごうごうと。
黒い雲が、空を流れていた。
つまり、話はこういうことだ。
数年前と同じく、ある日唐突にムイ様の死を告げられたノルド子爵夫妻は大いに憤激した。
過去二度の婚姻によって同じ悲劇を被った二つの貴族家へ渡りをつけ、結託し、捜査を行ったのだ。
そして、娘を失った親たちの執念は一つの実を結ぶ。
ブル家を放逐されたかつての使用人の消息が突き止められ、現当主ベアドの異常な悪癖と、使用人の婦女子に対する口も憚る悪行が明るみにされたのだ。
それは、彼に嫁いだ娘がどのような目に遭ったのか、想像させるには十分すぎる話だった。
その供述を以て司法府に訴えを起こし、なんとか国の介入にまで漕ぎつけたものの、やはり敵は手強く、ブル伯爵家の力によってまたもや揉み消しを図られているのだという。
通常の犯罪であれば裁きは地方の刑吏が行う。だが、その審理が難しいと判じられた場合には司法府にそれが委ねられ、中央の司法官が改めて事件を審理にかける。
それでもまだその審理に慎重な判断が求められた場合には、いよいよ最高位である大法官に判決が委ねられるのであるが、今回の場合は、既に地方の刑吏からは早々に審理を投げられている。
今のフィオ様の立場は、中央司法府の一司法官だ。フィオ様の判断だけをもって裁きがなされるということはないが、少なくとも発言権を持つのは確かである。
アニタ様たちは、このまま高位貴族の権力に屈して娘の仇を逃がすわけにはいかないと、司法官の誰かに直談判する方法を模索した。
だが、当然真正面から訴えたところで取り合ってもらえるはずもなく、「話は既に受理している」と門前にて突き返されるばかりであった。
そこで彼女に目を着けられたのが、私の占いサロンだったのだ。
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