ダンスに集中してほしい
私に突然のモテ期が到来したとか、そんなことがあるはずもなく、一体どんな思惑があるのか、ただただ不気味だった。
すぐ横に自分の奥さんがいるのに、初対面の人妻をダンスに誘う?
大丈夫か、この人。キディ先生のマナー講座を受けろ。
あまりのことに私がフリーズしていると、こちらに近づいてくる足音がテンポを上げたのが分かった。
「メオ。すまない」
目にも眩いブロンドを揺らし、駆け付けてくれたフィオ様に、隣の奥様と、ベアド様の奥様も露骨にほっとした表情を見せる。
当のベアド様といえば、相も変わらず貼り付けたような笑みで、やや大げさな手ぶりでフィオ様を迎えた。
「これはこれはムウマ伯爵。ご挨拶が遅れてしまい申し訳ない」
「ブル伯爵。こちらこそ失礼した。ところで今、貴殿が私の妻にダンスの申し込みをしていたように見えたのだが、まさか見間違いでしょうな?」
「いいえ、申し込ませていただきましたよ。もちろん、二曲目以降に」
「なるほど、そうでしたか」
そんなこと言ってなかっただろ。
でもまあ、この場はそういうことにして納めるのが無難なところだろう。
フィオ様と一曲踊ってさえおけば、後は疲れたとかなんとか適当に言ってバックれればいいのだ。
「では、改めて、メオ」
その場の面々と適当な社交辞令を二、三交わし、フィオ様は優雅な所作で私に掌を向けてきた。
そうだよ。さっきは助かった、とか思ってしまったけど、これはこれで難局だよ。
私の心臓が安堵と緊張の往復ビンタに悲鳴を上げている中、日々の勉強の記憶に縋りつく思いで、なんとかそこに手を重ねる。
風に吹かれるように、水に流されるように、私の体が踊場へと引き立てられた。
もちろん、練習でフィオ様と踊ったことは何度もある。
私の右手と、フィオ様の左手が高く合わさり、私の背中にフィオ様の右手が添えられる。ほんの少しも圧を感じない。それなのに、確かな熱が私の体の芯に染みていった。
この感覚だけは、いつまでも慣れない。
一歩、踏み出す。
リズムを感じて。
体重が流れていく。
足の親指に力が入る。
ナチュラルスピン。リバース。ホイスクで一拍。
踏み出した足を引き足が追い、腰が高く引き上げられる。
頑張れ、私。
出来てるぞ。
そうだ。
その調子だ。
こんな基本中の基本のステップでガチゴチに緊張している私に、フィオ様はさらなる試練をお与えになってきた。
「放ってしまっていて、済まなかった、メオ」
あろうことか、ダンス中に話しかけてきたのである。
「あ、え、はい?」
「なにか、考え込んでいる様子だったから」
いいえ、それはステップに集中していただけです。
「ブル伯爵に、なにか言われたか?」
「え、ええっと、私の占いがどう、とか」
「占い?」
「はあ、なにやらご興味があるそうで、その、奥様にどうか、とか」
「そうか。だが――」
一体その言葉をどう解釈したのか知らないが、私の手と背中に触れるフィオ様の両手に、力が入った。
「今は、私とのダンスに集中してほしい」
あの、違うんです。むしろこれ以上なく集中しているんです。受け答えがしどろもどろなのは、答えにくいことがあるんじゃなく、会話に裂くだけの脳のリソースが不足しているだけなんです。
ただ、傍から見れば上の空なダンスをこんな場で披露し、フィオ様に恥をかかせるわけにはいかない。私は気合を入れ直し、フィオ様の眩いご尊顔から目を逸らしつつ、ステップのみに集中した。
永遠にも思える数分間で私の緊張はピークに達し、その後は予定通り疲労を理由に二曲目以降のダンスはお断りさせてもらった。建前ではなくガチで疲労していたことは予定外だったが。
フィオ様と共に、飲み物片手にバルコニーで休んでいると、夜風が心地よく通り抜けた。薫る風は金木犀の匂い。
「すみません、フィオ様。一曲だけでバテてしまって」
「いや。それより、練習の成果がしっかり出ているようだ」
「キディ先生に及第点はもらえるでしょうか」
「ああ。私が保証しよう」
そう言っていただけると、心労も報われます。
一息ついたところで、私はようやく気になっていたことを質問させてもらった。
一応は婉曲的に。
「ブル伯爵家とは、交友があったのですか?」
「いや、私個人としては何も。ただ、先代――私の父様とは、少しな」
「ああ、確かに先ほどもそんなような……。私は聞かないほうがよろしいでしょうか?」
「……判断に困るな。ただ、少なくともこの場ではないほうがいいだろう。明日、少し時間をもらえるだろうか」
いや、あの。無理して話してもらわなくても大丈夫ですよ?
別に私、旦那のこととか家のこととか、全て知っておきたい、みたいなモチベないですから。
しかしそこで、フィオ様がいつになく不安そうな顔で私を見ていることに気づいた。
「メオ。ブル伯爵は、その、君の占いに興味があると言ったのか?」
「ええ。社交辞令だとは思いますけど、奥様に招待状を送ることになりました」
「そうか……」
「まずかったでしょうか……?」
「いや、そうではないんだ。前にも言ったが、君のサロンでの活動に口を挟むつもりはない。しかし、その、なんだ。君はやはり、自分の趣味には理解のある男性のほうが、その……」
ぽく。ぽく。ぽく。
ちーん。
私、浮気を疑われてる!?!?
「ち、ち、違います、フィオ様。あの、私、そんなつもりじゃ――」
「ああ、いや、済まない。気にしないでくれ」
よくないよくないよくない。この誤解はよくない。
そして、なるほど、ようやく理解が及んだ。ブル伯爵め、やってくれたな。
恐らくはなにかしら穏やかならぬ因縁が両家にはあるのだろう。私にちょっかいをかけることで醜聞をでっちあげようとしていたわけだ、あの美白鷲鼻男は。ミイヤ様とソマリ家のごたごたに関わっていなければ気づかないところだった。
「ご、ご安心ください、フィオ様」
「う、うん?」
「私はムウマ家に嫁いだ身です。ムウマ伯爵家には大変な恩義を感じておりますので、それに背くような真似は決していたしません」
「そ、そうか……」
おや? なにか不満そうだぞ?
なにか腑に落ちないところを残しつつ、その日の夜会は終了。私たちは帰途についたのだった。
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