私にしかできない

「私たちが、愚かだったのです。結婚する前のあの男は、とても、とてもそんな狂人には見えず……。とても、聡明で、紳士的で……。ああ。なんと愚かだったのでしょう。むざむざと娘を、あの悪魔の生贄に……!」


 語れば語るほど。

 話せば話すほど。

 アニタ様の眼からはさめざめと涙が流れ落ちた。

 悲嘆も悔恨も、憎悪も怨嗟も。

 全てが混然と混じり合い、彼女の瞳から溢れ続けている。

 雨に濡れた彼女を拭いていたタオルが、今はひたすらそれを吸い取っていた。


 柔らかな燈が灯されたサロンの中で、テーブルを挟んで私とアニタ様は向かい合い、それを部屋の出入り口からフィオ様が見つめている。


『メオ。君のことは信頼しているが、ノルド子爵夫人は今平静を失っている。念のために私も控えていよう』


 分かっています、フィオ様。、口約束で余計なことを言わないように監視するわけですね。



「アニタ様。貴女の今のお気持ちは、私などが察するには大いに余ります。ですが、ここに来られたからには私のお客様です。貴女のために、主人へ口添えをするようなことはできません。司法の裁きに対して、私から何事もお約束することはできません。私にできることは、貴女のためにカードを引くことだけです」

「カード……?」


 この時、既にアニタ様の声は掠れ始めていた。

 話の次第は聞いた。今アニタ様がどういう状況に置かれているのかも分かった。

 アニタ様のお心も、切々と吐露される言葉によって、私の胸と腹の内に深く染みていた。


「私のカードに、未来を予測する力はありません。人の心の内を見透かすようなこともできません。ただ、貴女の心に寄り添い、生きる道を探す手伝いをさせて頂きます」

「私の、生きる道など……。私は、私はただ、あの子に……」

「分かっています。貴女に向かって、こう考えるべきだとか、こうしたほうがいいとか、そんなアドバイスを送ることは誰にもできません。もちろん、私のカードにも」


 今回アニタ様がとった行動は、重大なルール違反だ。浅慮と言われても仕方がないし、ムウマ家は多大な迷惑を被っている。

 だが、だからと言って、彼女の行動を咎められるものがあるだろうか。

 彼女を正しく導けるものがあるだろうか。


 私の占いは、人の心に寄り添うためにある。

 ならば、今の私にできることは、だ。


「今回は、セフィロト・ツリーを用います」


 私は、卓上で円を描くようにカードを混ぜ合わせた。

 躊躇いはあった。

 だけど、今はこうするしかないと信じた。


 注視する。

 カードの裏地、全く同じように描かれたはずのウサギの絵柄。その線のずれ。僅かな傷。色味の違い。一枚一枚、それを見極め、あくまで自然な動きに見えるようにカードを混ぜ、選っていく。


 カードを整え、宣言通りの並べ方に展開し、めくる。


『4本のスティック』、『ウンディーネとチューリップ』、『黒猫』の逆位置、『10本のデイジー』。その他にも、明るく、穏やかで、全てがプラスの意味を持つカードがずらりと並んている。本来ならばあり得ないほどに、偏った内容の暗示。


 


 長年このカードと共に生き、このカードをめくり、手繰り、読み取ってきた私にしかできないトリック。祖母から母へ、母から私へと受け継がれた、禁忌の技。


『いいですか、メオ。この技を乱用するようなら、それは占い師としての終わり。だから、これは本当の本当に最後の手段だと思いなさい』


 分かってます、お母様。

 この家でこの技を使ったのは、正真正銘、これが最初。

 そして、私の占いはこれで最後。


 私は、カード一枚一枚を丁寧に読み解き、絵柄の由来を説き、一羽のウサギが歩む旅路と運命の物語を語った。

 歓待、愛情、克己、休息、懐郷、安寧、継承。過去から現在へ、そして未来へ。

 

「これは、アニマルカードのナンバー21。最後のカードです」


 それは、最も大きく、深いシンボリズムを持つカードだ。

 明るい空の下、ウサギが覗き込むのは、一抱えの水鉢。

 赤く、小さな『金魚』が、穏やかな表情で悠々と泳いでいる。

 それは狭い世界だろうか。外にはもっと大きな世界が広がっているのだろうか。それを識ること、識らないことに、意味はあるのだろうか。

 

 長い旅路。幾たびもの始まりと終わりを体験したウサギは今、完成された一つの宇宙を見つめている。

 混じり合うエレメント。

 大いなる循環。

 宇宙の卵。


「命は巡ります。そして、人の思いもまた、巡っていきます。今、アニタ様は深い喪失の中にいる。それがいつまで続くのか、いつ終わるのか、分かりません。ですが、アニタ様の中にある温かな記憶、優しい思い出もまた、消えてなくなりはしないでしょう。それはきっと、いつまでも貴女の傍に居続けていてくれるはずです」

「はい……はい……」


 外の景色と同様に荒れ狂っていたアニタ様の心が、徐々に凪いでいくのを感じる。

 そう。今の彼女の心を癒すことなど誰にもできるはずがない。ましてや、今日初めて会う私になど、とても。

 だから私は、ひたすら彼女の心を吐き出させ続けた。

 やがて訪れる、消耗と疲労。通り抜ける隙間風。

 それを、私のカードと言葉が柔らかく包み、宥めていく。


「今はただ、喪に服しましょう。ムイ様の魂の安寧を祈って、彼女を悼みましょう。彼女との思い出を、一つ一つ思い出してください。憎しみに焦がれそうなときには、彼女の安らかな寝顔を、悲しみに溺れそうなときには、彼女の晴れやかな笑顔を」

「ああ。ああ……。ムイ……」


 枯れ切ったアニタ様の喉から嗚咽だけが漏れ、私は、その荒んだ手を取り、握りしめた。

 沈黙の帳が降り、私のカードは、役目を終えた。





『本当に、申し訳ございませんでした』


 ここに来た時より、一回りは小さくなったように背を丸めたアニタ様を、迎えに来られたノルド子爵に預け、見送った。

 神経が参っていた。

 頭が鈍く痛み、喉がひどく乾く。

 一歩引いた位置で、それを見守っていたフィオ様が、悲し気な表情で私に声をかける。


「メオ。君は――」

「申し訳ありませんでした」


 なにか言われる前に、取りあえず頭を下げる。

 それが私の生き方だったけど、今回は本当に、心底申し訳ない気持ちで一杯だった。

 私がやったことに、フィオ様は気づいただろう。


『今のところ、我が家に実害は出ていないし――』

『君がこの場所で詐欺や瞞着を行わないというのであれば――』


 私は、この人との約束を二つ破った。

 もしも今回のアニタ様の行いが他所に広まり、司法官としてのムウマ伯爵に繋ぎをつけようとする人が後に続いてしまったら、それは大いなる害悪だ。

 フィオ様の信用は、地に落ちるだろう。



「金輪際、この家で占いは行いません」



 その宣言を、一刻も早く周知徹底させなければならない。

 私は、国の司法を代々請け負う、ムウマ伯爵家の夫人なのだから。


 フィオ様の端整なお顔が、くしゃりと歪められた。


 ――この人は、気持ちが直ぐに表に出るんだな。


 今更ながらに、そんなことに気づく。


「すまない、メオ」


 その必要はない。気にせず今まで通りにしてくれ。

 なんて、ちょっとでもそんなセリフを期待してしまった自分に、心底嫌気が差した。

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