第7話 侵略者、街を征く
「おい、貴様」
「お?」
さらに日を跨いだ翌日のことである。
前日、意識を取り戻したウロ坊と少しばかり話した後、メルヴィレイは不意に何処へともなく飛び去って行った。
彼女が飛べること自体に不思議はない。
いや、不思議かつ不可思議ではあるのだが。羽根があるとはいえ、トンボのそれに似た薄い羽根だ。高身長な彼女の体重のことを考えれば、物理的に飛行する揚力をアレで賄うことは不可能に思える。だが、そんなことを言いだせばそもそも論彼女の存在自体が不可思議でしょうがない。
その日彼女がこの場所に戻ってくることはなく、ウロ坊は自由なヤツだと彼女を評し、普段と変わらぬ何気ない日常を送った。
ゴミを漁り、屑を拾い、あるいは道行く知り合いに空想を語り。そうして日々生きて行けるだけの糧を得る。
実際のところ、メルヴィレイとの邂逅は彼の生活に何一つとして変革をもたらさなかったのだ。
住居が得られる訳でもなく。食料が得られる訳でもなく。衣類が得られる訳でもなく。
娯楽、嗜好、快楽もなく。ただ、世界には人知の及ばぬ不可思議があるのだと、そう彼の認知に小さな楔を打ち込んだだけであった。
『個体としての人間の観察』並びに『サンプルは貴様』という言葉が真であるならば彼女はウロ坊を知るためにここへと戻ってくるだろう。だとしても、きっと彼の人生が変わることはない。
ウロ坊が生きている内にメルヴィレイが人類の駆除を始める可能性は低い。もしかするとこの燕子花新町をエネルギーの試算のために滅ぼす程度は行うかもしれないが。だが、未知の侵略者としてフィクションのように華々しく非道な行いをすぐさま行うとは考えにくい……街1つ滅ぼすことを、非道でないと言い切ることもまた難しいかもしれないが。
ともかく、彼女という非日常の権化たる存在の行動は、ウロ坊の視点ではあまりにも遅々としているように感じられる。
ウロ坊は悪人ではない。過酷な環境で育ったが故に多少普通からは逸脱しているが、それでも常軌を逸した精神構造をしているということはない。
しかしそれは同時に、彼が善性のみの存在ではないことも示している。
浮浪児という成育環境は、彼の中で絶対的な優先順位とも言える価値観を形成していた。
それ即ち、自己利益の追求である。
他者よりも自己の生存を優先し、安全を優先し、利益を優先する。生物の根源的な本能に基づく自己防衛欲求の肥大化、とでも呼ぶべき価値観であろうか。
その価値観は、根幹は防衛本能ではあるが表層は欲望という殻で覆われている。
簡潔に記すならば、メルヴィレイが常識外の存在だと認知した時彼はこう感じたのだ。
自分はこの存在を前に。この存在がその気になれば。
自己の生命のなんと儚きことか、脆く崩れやすいことかと。
そして、彼女が人類を滅ぼす存在であると聞いた際には諦観の念と同時に好奇心を抱いた。
どうせ滅ぶなら。どうせ死ぬなら。その凄惨たるエピソードを我が身に、脳に刻みこんで死に往きたい。
元々先の見えない人生だったのだ。生まれながらにホームレス。経歴は無く、戸籍も無く、親も無く。伸びる目の無い人生で、何時死ぬとも知れぬ身の上であった。
当然ウロ坊も死にたくはない。むしろ生への執着は人一倍かもしれない。だからこそこの十年あまりを彼は生きてきたし、生きてこられた。
だがどうせ抵抗できずに滅ぶのなら。人類を滅ぼす侵略者がいるのなら。
自己に対する最大限の利益追求――好奇心を満たし快楽を得る。
彼の行動理念がこうなるのも、また自然なことであった。
だが現実はどうか。
侵略者の侵略の手は実に遅い。
彼女の手による人類の滅亡は遠く、ウロ坊の生存もほとんど保証されてしまった。なにせ観察のサンプルだ、生きていなければ意味がない。
この事実は、彼にいつもと変わらぬ日常が続くという事実を突きつけた。
ウロ坊はこれに大きく落胆した。
しかしよく考えてみれば失ったものなどなにもないと彼は気付く。勝手に期待し勝手に失望しただけだ。
そして、世界の不思議と妖精の脅威を知った少年は何も変わらなかった。
「これは何と書いてあるのだ。貴様ら人間の文字であろう」
何処へ行っていたのやら、舞い戻ってきたメルヴィレイは開口一番。河原の草原にて寝そべるウロ坊に言葉を投げると紙の束を差し出してきた。
「読めないのか?」
「読める訳が無かろう。ワタシは人間でなく、アチラ側にはほとんど人間の文化は持ち込まれていないのだからな。こうしてマトモに会話が出来るだけ上等だと思え」
「会話が出来るだけ上等って……知性とかも人間以上なんだろ? 解読したりしねえのかよ」
「貴様ら人間は犬や猫の言語、あるいは鳥類のさえずりを理由なく翻訳するのか? それに目の前に読める者がいるのだ、利用しない手はなかろう」
「要するに、面倒だって訳か」
「うむ」
堂々とした立ち振る舞いで頷かれては、ウロ坊としてはこれ以上何も言えない。
確かに、人間も専門家でもない限り別種の生物の言語など学ばないし、それどころか同種たる人類の言葉すら母国語以外はほとんど知ろうともしない。
そう思うと彼女の言は一理ある。他種族の言語を話せるだけでそれこそ上等だ。そして会話が出来る以上読める者に読ませることが出来る、文字まで学ぶなど手間でしかないだろう。
「しょうがねぇな……言っとくけど、ワシはまだ10かそこらだからな。それにまともな教育受けてねぇ。人間ってのは普通何年もかけて言葉とか文字を覚えていくんだ、ワシに読めない字があるかもだかんな」
「貴様に、それ以前に人間に完璧など期待しておらぬ」
「そうかよ」
ウロ坊は差し出された紙を奪い取るようにして手に取ると視線を落とした。
「あぁ? ただの新聞じゃねぇか」
「シンブン……新聞か。確か貴様らの用いる情報伝達ツールの一つだな」
「……間違ってねぇけど、新聞をそんな風に表現するヤツ初めて見た」
「それで何と書いてあるのだ」
「なんてことねぇよ。普通のことだ。経済とか政治とか、あと病気とか」
「ワタシはその普通を知りたいのだ」
「これ全部音読しろってのかよ。てか、こんなモンどっから拾ってきた」
「どうでもよかろう」
そう答え、メルヴィレイは無言で圧を放つ。
どうも早く読めと促しているらしい。
少しばかりそれに対する反骨心を抱かなくもなかったが、それをしたとて無意味であることをウロ坊は自覚していたため素直に再び新聞へと目を走らせた。
「……漢字が読めん」
「なんだと」
そして、開幕頓挫した。
「……………………」
「……おい」
「なんだよ」
「もしや貴様、馬鹿というヤツなのか?」
「うっせぇ。ここらに住んでるヤツらから色々聞いたりはしてっけど基本会話しかしねえからひらがなと簡単な漢字しかワシにゃ読めん」
「馬鹿だな、貴様」
メルヴィレイは哀れみと蔑みを包括した表情を浮かべた。
「ワタシの知識によるとこの国ではひらがな、カタカナ、漢字の三種の文字が使われているらしいではないか。その内貴様は一種しかまともに読めぬと?」
「そうだよ悪かったな馬鹿で。カタカナすらまともに読めねぇ馬鹿で」
「……サンプルの選定に失敗したか?」
「うっせぇ。失敗に決まってんだろ何が妖精だバーカ。人間を測るんならワシみたいなはぐれじゃなくってもっとフツーのヤツにしろよバーカ」
「む? 何をそう怒る」
「馬鹿だとか連呼されりゃ少しはカンに障るわ」
――その新聞の一面には、大々的にとある事件についての情報が記されていた。
燕子花新町婦女連続失踪事件。
その字面をウロ坊が読めぬことも、無理かなぬことであった。
――――
「おい、貴様。何故人間どもはワタシに視線を向ける」
「知るかよ。妖精が珍しいからじゃね?」
燕子花新町を東西に分ける川。その川の東にて栄える街中をウロ坊とメルヴィレイは歩いていた。
「貴様以外にはワタシが妖精だと明かしていないはずだが……もしや、話したか?」
「話してねぇよ。見りゃわかんじゃねぇか? 耳はともかく羽根と尻尾生えてんだから」
「それが妖精と人間との違いだと何故人間どもは分かるのだ」
「……あー、じゃあアンタが美人だから。それで注目されてんだよ」
「適当だな」
分かりやすく、ウロ坊はへそを曲げていた。
そも、今日の彼の機嫌は悪かったのだ。
突然の非日常、波乱万丈な人類の終焉を期待していて勝手に失望していた。それ自体はウロ坊本人の自家中毒のようなものだ。多少内心が荒れたがそれまでだった。
しかし、そこにメルヴィレイの気遣いのない言葉だ。
普段の彼であれば、馬鹿と蔑まれることに腹を立てたりなどしなかった。自分が教育をまともに受けていない人間である自覚はあったし、文字すらまともに読めぬことを彼を玩具にしにきた不良や同族たるホームレスに揶揄われることなどそれこそ日常の一幕でしかない。
だが、これが重なったことでウロ坊はへそを曲げた。
目の前の存在が自分よりも圧倒的上位の存在であると認識しつつなお、へそを曲げていた。
「……ワタシの外見は人間とさほど変わりがないと、そう思っていたが。違うのか?」
「違うだろ。羽根と尻尾が」
「だが、それだけではないか」
「それだけって、十分違うだろ」
「誤差ではないか? 羽根と尾だけなのだ」
街中で注目を浴びることにメルヴィレイは首を傾げている。
その様子に、本当に彼女は――この生物は人間と異なるのだと、改めてウロ坊は実感した。
「例えば、だが。貴様ら人間の作り出した区分を用いるが、キツネとタヌキ……これらは同じイヌ科の動物だ。だが、この二種は明確に外見が違う」
「そりゃキツネとタヌキだからな」
「人間はヒト科。そしてゴリラもまたヒト科だ。これも外見が違う」
「そりゃ人間とゴリラだからな」
「……ゴリラと比して、ワタシはどう見ても人間に近しい外見であると思うのだが」
「前提として霊長類には羽根はねぇし、尻尾もそんな鱗に覆われてねぇし、人間に限っては基本尻尾はねぇんだよ。名残はあるらしいけどな」
「……むぅ」
「ワシらの感覚からすれば人間と妖精はワタボウシパンシェとゴールデンライオンタマリンくらい見た目が違うっつーことだ」
「なんだその妙な……なんだ」
「サルだよ、どっちも」
「ライオンなのにサルなのか……」
まぁ、ウロ坊にもメルヴィレイの感覚は理解できなくもない。できないことはない。
あくまで妖精とは生物。彼女はそう言っていた。
ならばこの外見の近さは機能美によるもの、収斂進化の結果なのだろう。エゾモモンガとフクロモモンガのようなものだ。遺伝的には前者がネズミに近く後者はカンガルーに近い、だが外見はそっくり。
で、あれば。生物として離れていようとも、そして形態が多少異なっていようとも。
確かに羽根と尾を除けば人間と妖精は似ている。似ているが故に、その程度誤差だと判断してしまうのも無理はない、のかもしれない。
少なくとも、目の前の彼女にとっては誤差らしい。
「……え。あれ。だったらなんで」
「む? どうかしたか」
はたと。
どうでもいいような、そうでもないような疑問がウロ坊の脳裏に過ぎる。
彼は大衆の視線を釘付けにしながら隣を歩くメルヴィレイに視線をやる。
金髪と異国風情感じる美しい顔立ち。これだけでも人々の視線を集めるには十分だろう。そんな彼女には尾があり羽根がある。ゴシック調の黒の衣装と相まって、観衆からはおそらくコスプレした外国人だとでも思われているのではないか。
だが、注目すべきはそこではない。
「卵生で……基本親がいない……」
卵生なのはいい。
哺乳類にも卵生が――単孔類が存在する。カモノハシやハリモグラ達だ。彼らは卵から産まれ母乳で育つ。
だが、妖精には親がいないはずだ。そう言っていた。
――ならばなぜ、胸が発達している?
グンカンドリのオスのように、胸部で性的成熟を示す生物は人間以外にも存在する。彼らの胸は、繁殖の競争以外にはほとんど無意味な代物で、妖精の胸部もそういった進化を辿った偶然の産物なのかもしれない。
あるいは、ツノゼミの仲間のツノのように。偶然発達しただけで、淘汰されなかったというだけで残り続けたダーウィン主義への反逆の象徴かもしれない。
ウロ坊はメルヴィレイの胸元を見やりながら。
……直接聞くのはセクハラか? いや、妖精はメス……女しかいない種なんだからセクシュアリティが希薄だって言ってたな……いやしかし。
そんなくだらない懊悩を抱えている内に、ウロ坊は不機嫌を忘れていた。
「……本当になんなのだ、貴様」
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