第56話 知らない方がいい



 初めてクラスを受け持つことになり、理沙子は気合いが入っていた。担当するのは小学校2年生。まだまだ幼く、ランドセルを背負うのが大変な姿も可愛らしい頃だ。

 理沙子は上手くクラスを率いていけるように、先輩にアドバイスを求めたり、家に帰ってからも勉強したりした。

 そのため二ヶ月ほどたった今、なんとか大きなトラブルなく過ごしている。

 子供は、当たり前だがそれぞれ違った個性を持っている。やんちゃな子もいれば大人しい子もいて、その中で理沙子は一人の生徒を気にかけていた。

 名前は木下蓮太。引っ込み思案で、いつもクラスの隅で本を読んでいる。しかし、そのせいでいじめられているわけではない。理沙子が何を気になっているのかというと、蓮太の家庭環境だった。

 蓮太は理沙子に懐いて、よく話しかけてくるのだが、出てくる家族の話が普通とは違っていた。最初は小さな違和感だったが、聞いているうちにどんどん大きくなっていった。


「ママがね、オムライス作ってくれたの」

「おかあさんといっしょにお風呂入るんだ」

「ママと遊園地いくの! 先生におみやげ買ってくるね!」

「おかあさんと寝ているとね、ギューってしてくるんだよ」


 蓮太の話では、ママとおかあさんが出てきた。ごちゃ混ぜになっているのかと思っていたが、別の人について話しているのだと気づく。そして理沙子は、ママが蓮太の父親の愛人かなにかだと考えるようになった。確かな根拠があるわけではなく、完全に勘だ。ただ、理沙子はそれが当たっている自信があった。

 その根拠は蓮太がおかあさんの話をする時、ママの話をするのとは違った温度感だ。さらに、おかあさんと出かけたとは一切聞かないのである。

 しかしすぐに理沙子の中で、別の考えも浮かぶ。

 もしかしたらおかあさんは生みの親で、すでに亡くなっているのではないか。彼女は不倫を疑った自分を恥じた。蓮太にとっては、どちらの存在も大事。それで十分である。彼女にできるのは、蓮太を否定せずに優しく話を聞いてあげること。

 自分の仕事に集中しよう、理沙子はそれ以上深掘りすることを止めて、頭の隅に追いやった。



 それからひと月ほどが経った頃、理沙子はすっかり蓮太の件について忘れていた。

 ちょうど家庭訪問の時期になり、何がきっかけか蓮太が1年生の頃に担任だった人と話をする機会があった。

 そこで理沙子は、なんの狙いもなく蓮太の母親について話題に出した。


「そういえば、蓮太君の家も大変ですね。あそこのお母さんは、いつ頃亡くなられたんですか?」


 その質問に返ってきたのは、訝しげな表情。


「蓮太君って、木下さんのことよね。あそこのお母さんが亡くなったなんて、私は聞いたことがないわよ」

「え、そうなんですか」

「ええ、書類でもそんな記載はなかったはずだけど……あなたの勘違いじゃないかしら」


 言われてみれば確かに、理沙子はそんな話を一切耳にしたことがなかった。勝手に勘違いしただけだ。勘違いに気付かされて、片隅に追いやっていたはずの好奇心が再び膨らむ。

 おかあさんとママの秘密を知るまで、理沙子はもう止まれなかった。

 そしてタイミングのいいことに、探るには最適な家庭訪問がこれから始まる。彼女は勝手に背中を押された気分になった。



 どう探るか色々と計画して、ついに蓮太の家へ家庭訪問しに行く日を迎えた。はやる気持ちを抑え、理沙子は家のインターホンを鳴らした。


「お待ちしておりました。いつも蓮太がお世話になっています。どうぞ、中に入ってください」

「こんにちは。本日はよろしくお願い致します」


 少しの間があり、中から蓮太の父親が出てくる。柔和な顔立ちをしていて、雰囲気も柔らかい。理沙子はリラックスして、頭を軽く下げた。


「こんにちは理沙子先生!」

「蓮太君、こんにちは」

「こらこら。先生が困るから、中で待ってなさいと言っただろう」


 父親の後ろから顔を覗かせた蓮太に、理沙子は笑う。本来の目的である家庭訪問も、きちんとまっとうするつもりだった。一応、先生としての意識は忘れていない。

 リビングに案内され、世間話を交えながら蓮太の学校生活を話していく。母親は用事があり不在だと最初に説明された。少し残念に思ったが、その方がやりやすいと考え直す。

 しかし、なかなか調べるタイミングが掴めない。それも当たり前だった。家庭訪問に来て、調べる余裕があるわけがない。

 終わりの時間が迫っていて、理沙子は内心焦っていた。今日は無理だろうか。そう諦めかけていたところで、着信音が鳴り響く。

 それは蓮太の父親から聞こえてきた。焦った様子で胸ポケットを探り、スマホを取りだした。


「申し訳ありません。仕事先からの電話でどうしても出なければ行けなくて……すぐに終わります」

「あ、お構いなく。蓮太君とお話して待っていますので」


 どうしても無視できない相手だったようで、父親は謝りながら席を外した。理沙子にとっては歓迎する状況なので、顔がにやけるのを抑えるのが大変だった。

 運良く父親がいなくなったが、自由にできる時間は多くない。理沙子はすぐに動いた。


「ねえ、蓮太君」

「なあに?」

「今日ママはいないって聞いたけど、おかあさんはいる?」


 直球な質問。しかし子供だから疑わないはず。それは当たっていて、蓮太は嬉しそうに答えた。


「いるよ!」

「そうなんだ。……あのね。先生、おかあさんに挨拶したいから、会わせてくれないかな」

「いいよ!」


 家の中を闇雲に探すより、蓮太に案内させた方が早い。快諾された理沙子は、思わず笑いがこぼれた。


「こっちこっち」


 テンションの高い蓮太に手を引かれ、理沙子は素直についていく。リビングから出る際、父親と鉢合わせるかもしれないと警戒していたが、廊下には姿がなかった。もしもの場合は言い訳を用意していたが、使わなくて済んで安心する。

 迷いなく進む蓮太は、階段をのぼる。身長差に転ばないようにしながら、理沙子は少しだけ引っ掛かりを覚えた。しかしそれが何か分からず、気のせいだと放置する。


「おかあさん、ここにいるんだ」


 階段をあがった奥の部屋。前にたどり着くと、蓮太が誇らしげな顔をして理沙子を見た。彼女はようやく謎がとけると、興奮しながらドアノブに手をかける。

 そして扉を開けた。


「ひっ」


 向こう側の光景を見て、理沙子は無意識に悲鳴をあげる。自分が今見ているものが信じられなかった。理解できなくても、先に恐怖の感情が口から飛び出したのだ。

 部屋は薄暗く、じめりとしていた。湿気ではない。陰気な空気が漂って、息をするのも苦しく感じるぐらいだった。

 中には蓮太が話していたおかあさんがいた。人間で、死んでいない。ただ、檻に閉じ込められている。白いワンピースを着て横たわり、虚ろな目で理沙子を見上げた。

 何だこれは。どういうことだ。理沙子はパニックになり、思わず後ずさった。

 その背中に、何かが当たる。


「おや、こんなところで何をしているんですか」


 場にそぐわない柔らかな声色。それが余計に恐怖を大きくさせる。肩に手を置かれ、理沙子はただ震えることしか出来ない。


「良かったなあ、蓮太。また家族が増えるぞ」

「ほんと? やったあ!」


 理沙子を無視して交わされる会話。彼女はもう逃げられないと悟ってしまった。

 そんな彼女をじっと見つめる目に、一瞬だけ悲しみがよぎった。しかしすぐに虚ろなものに戻る。




 聡見は、あるクラスメイトが気になっている。正確に言うと、話す内容がおかしいと感じていた。本人に直接聞くのははばかられて、とりあえず良信に相談することにした。


「なあ良信。クラスに木下っているだろ」

「きのした?」


 クラスメイトにも関わらず、良信は名前にピンと来なかったようだが、聡見は構うことなく続ける。


「こういうこと言うの良くないかもしれないけど、どうしても気になって。なんで木下って、家族の話をする時色々な呼び方をするんだと思う?」


 ママ、おかあさん、母、かあさん――最初は気づかなかった。しかし何度か話をするうちに、様々な名称を口にしていると分かり、そこから気になって仕方なくなった。理由を知りたかった。

 良信に相談はしているが、答えは出ないだろうと最初から決めつけていた。そして木下について調べようと、聡見は心の中で考えていた。


「うーん……とみちゃん、世の中には知らなくていいこともあるんだよ」


 しかし、良信の言葉にはっとした。まるで憑き物が落ちた気分だった。どうしてそこまで木下について知りたかったのか、自身でも不思議なぐらいだ。


「そ、うだな。人のプライベートを暴こうとするなんて、人として褒められたものじゃないな。悪い、忘れてくれ」

「うんうん。それが懸命だよ」


 聡見が素直に非を認め謝ると、良信は満足気に頷く。すっかり興味が失せた聡見の耳に、続けられた言葉は届かなかった。


「入ったら、もう帰してもらえないからね。関わるだけ損」



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