わたしの王子様?
「奈々未さん」
部室に入るなり、杏里は奈々未さんを捕まえてこう持ち掛けた。
「今日の結羽先輩とのエチュード、俺を騎士役にしてくれませんか。一日だけ」
奈々未さんは汚れた眼鏡を眼鏡拭きで拭いた。私はびっくりして、会話に交じることもせず、ただ教室の隅っこから彼らを眺めていた。
「どうして?」
「俺なりの騎士を、結羽先輩に見てもらってから、結羽先輩なりに騎士を作ればいいんじゃないかと思って」
よどみない言葉は少しかすれていた。高い声なのに、男の子だった。それから杏里は私にちらりと視線を寄越した。私は察した――彼はまだ怒っていた。
そんなに怒るほどのことだったろうか?
「いいよ。今日だけ。……プリンス結羽も、いざとなったらプリンセスにならないと」
「ええ……? 本気ですか?」
「ワタシはいつでも本気!」
この前は「絶対に配役を変えない」と言っていたのに、どんな風の吹き回しだ。
奈々未さんは気を取り直したように眼鏡をかけなおし、手を打った。
「ハイ集合、今日もエチュードからやっていくよ。じゃあ急遽配役変えた結羽・杏里ペアは最後にしよっか」
「はい」杏里だけが大きく返事をした。私は実質初めてになる姫役のことで、頭がいっぱいだ。奈々未さんは楽しそうにはにかんだ。
「じゃあいってみよう」
姫。私が姫? 手を引かれて走ったり、抱き上げられたり、なんかいい感じにもてはやされたりする、その姫? 歴史上の人物がつぎつぎ頭の中をしずしず横切っていく。マリー・アントワネットとかマリー・アントワネット。それからマリー・アントワネット。
うわあ。マリー・アントワネット(×3)しか入ってこない。お姫様? お姫様……。他に居たっけ? 王子とか英雄とか、そういうレパートリーはたくさんある。男役をやると決まったときから積み重ねてきたから。でも、女……?
「先輩」
身体をくの字に折り曲げて頭を抱えていた私は、はっと背を伸ばした。杏里が私を見上げている。
「俺に任せて。先輩は先輩のままでいて」
「え?」
「演じなくっても、いいから」
杏里はあの、綺麗な顔で微笑んだ。そしてぶらぶらと所在ない私の手を、握った。
「俺のホンネ」
『姫、ここは危険です。お早く』
杏里は低い声を作って、私の前に跪いた。私はおろおろとあたりを見回す。何が何だか分からない。そういうお姫様にしようと、直前で決めていた。
『き……危険って、何が? どうしたの?』
『城の外をご覧になりますか。怒り猛った群衆が押し寄せているあのさまを。あなたの首を狙って刃を向けるあの恐ろしい形相を……』
『……そんな』
私はたどたどしく、姫を演じているつもりだった。だけど杏里は……。
『――っていう設定はどうですか、結羽先輩』
「えっ」
私は度肝を抜かれてがくんと頭を揺らしてしまった。
「な、なに?どういうこと?」
『つまりですね、結羽先輩は絶世の美姫で、俺はその騎士ってことです。簡単でしょ。姫君と騎士の禁断の愛。どうでしょうか?』
「え、ええと……」
私は助けを求めるみたいにして奈々未さんをうかがった。けれど奈々未さんは黙って私たちを見ているだけだった。まなざしが「続けろ」と言っている。
『俺、考えたんですよ、結羽先輩がきれいに見える方法。単純なこと、俺が男に見えればいいんです』
杏里は杏里で芝居?を続けている。私は杏里に向き直った。杏里の「そのまま」という言葉を思い出して、目を固くつむる。
「……私がきれいだなんて、うそだよ」
『嘘? どうして』
「だって、どんな男の子よりも、どんな男の人よりも、背が高いもの。声も低いし、ロングヘアも似合わない。カワイイ雑貨も似合わない。それから、制服も、似合わな……」
『そう思ってるのは結羽先輩だけじゃないですか』
「だって、本当のことだから」
私はつむっていた目を開いた。少し涙がにじんでいた。
『あなたはきれいだ』
「どうしてそんなこというの。何で知ったような口きくの。私のことなんかなにも、何も知らないじゃない、杏里。なんでそんな、期待を持たせるようなこと、言うの」
杏里は私の剥いた牙を難なく受け止めた。
『俺はあなたが好きだから、ずっと前から好きだから。……あなたが特別に見えているんです。ただそれだけ』
「!」
「はぁい、カット! 最高だよアンリくん! プリンセス結羽も最高! いいもの見せてもらった!」
奈々未さんは私と杏里の間に流れている微妙な空気を吹っ飛ばす勢いで私たちの肩を抱いた。
「オーケーオーケー、すごく斬新で生々しかったね!いいよ!」
「気に入ってもらえてよかった」杏里が苦しそうに言った。「奈々未さん、首はやめてください」
「首? 気のせいじゃないかなぁ」
いや、奈々未さんは確実に首をきめている。私は奈々未さんを杏里から引きはがすと、にじんでいた涙をようやくぬぐった。
「奈々未さん、がちで首はやめましょうよ」
「ははは失敬思わず本音が行動に現れてしまったみたいだよ失敬」
奈々未さんの目は笑っていない。私はため息をついて、奈々未さんをのぞき込んだ。
『船長!どうしてそんなに気を立てているんです! お宝の山はもう手に入れたでしょうに!』
奈々未さんは途端に船長に様変わりした。
『ハハ! わかっちゃいねえな子分よお、目の前で大事なもんをかすめ取られた時ほど、腹が立つことはないんだぜ!』
『これで勘弁しちゃくれませんか。おれたち、一生働かなくても済むくれえの大金を手に入れたんですぜ?』
奈々未さんはしばらく黙ってから、大きく息をついた。
「……うん、ありがと結羽くん。落ち着いた」
奈々未さんは杏里を見て、それから彼の頭を両手でぐりぐりと圧迫した。
「やってくれやがったなぁ、アンリよぉ」
「いたたたあたたた」
「奈々未さん、だから杏里をいじめないでください」
「スキンシップだってば」
私は杏里を引っ張って背後に庇い、奈々未さんの視界から隠した。杏里は圧迫された頭をさすりながら、私の影でこう言った。
「ひょっとして強力なライバルがいたのかなぁ……」
「へ?」
「なんでもないです」
杏里は笑った。「今日の言葉、一生忘れないでくださいね」
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