杏里の顔が見られない話
「――あとね、奈々未さんのことは、奈々未さんと呼ぶこと」
「それ、ルールなんですか」
杏里は目をまるくした。私はうんとうなずく。
「そうそう今の部長、……いや、奈々未さんが作ったルール。部長って呼ばれたくないんだって。一人の仲間として見てほしいそうだよ」
「そうなんだ」
杏里は小さくつぶやくと、私を見上げる。あ、まつげめちゃくちゃ長い。
「七瀬先輩のことは、なんて呼べばいいですか? ――結羽さん?」
私は
うそ、なんでもよくない。結羽さんとか呼ばれたら、またドキドキしてしまう。
「わかりました、先輩」
杏里は私の気持ちを汲んでくれたみたいだ。ほっとしながらも、この先のことが思いやられる。私はずっと、杏里にドキドキしてしまってる。セーラー服がまるで似合わない私が。制服を衣装みたいに着こなしてしまう杏里に。いやいや、ありえないでしょ。ありえないから。こんな、……。
「この演劇部に男子生徒がいないのはなぜですか?」
杏里が心底不思議そうに尋ねた。
「ああ、ウチの中学は野球が強いの。だから野球部に行く人が多くてね……」
さりげない説明の間に、小さくうなずくのも、かすかな瞬きも、すべてがまぶしい。まぶしすぎて、目が焼けてしまいそうだ。こういう人が舞台に立って、情熱的なセリフを言ったなら、一瞬で観客全員を虜にしてしまうだろうな。
「……先輩。俺の顔に何かついてます?」
杏里が尋ねる。ひょっとして、嫌な思いをさせてしまっただろうか。
「あっごめん。綺麗な顔だなって思って……つい」
「先輩だって綺麗ですよ、とても」
頬にかっと血が集まるのが分かる。なんでそんなにストレートな言葉を言うんだろう。言えるんだろう。私は言い訳するみたいに、杏里からそっと視線を外した。後ろめたさみたいなものがあった。
「な、そんなことないない、私、女子にモテるタイプの、ほら、そういうタイプ!」
しかし――杏里は青い目をまっすぐこちらに向けてきた。
「俺は先輩に会いに来たんですよ」
「えっ?」
何を言ってるのか、ちょっとよく分からなかった。杏里は繰り返した。
「俺は先輩に会いたくて、
へ?
「やってるかいプリンスたち!」
教室の隅で脚本づくりに勤しんでいた奈々未さんが飛んできて、私たちを交互に見上げた。
「アンリくん、エチュードの最初のセリフ。大体の設定と内容は頭に入ってるね?」
「はい」
「配役は先日言った通り。プリンス結羽。プリンセス杏里。このままで」
「逆ではダメなんですか?」杏里が小さく手を挙げた。奈々未さんは頷いた。
「ダメです」
奈々未さんは腕を組み、私と杏里を交互に見上げて、うんうん頷いた。
「どっちかというと、プリンス結羽への宿題だから」
「マジですか」私は小さくつぶやいたが、奈々未さんには聞こえていたみたいだ。
「マジです! というわけで、今日も元気に基礎練から行こうか。集合!」
部活が始まる。私は渡されたルーズリーフの文字を読めないでいる。読んでいるつもりなのに、もう、全然読めない。プリンス結羽モードは終わってしまった。
――先輩に会いに来たんですよ。
さっきからあの言葉が刺さって抜けないでいる。目に入る文字も耳に入る声も全部が、その言葉で全部飛んでしまう。
私に会いに?
当然というか、その後始まったエチュードはやっぱり奈々未さんを満足させるには至らなかった。私が杏里の顔を見ることすらできなかったからだ。
「なんなのどうしたの悪化してるじゃないのー!」
「すみません、すみません」
「いくらアンリくんがイケメンでキラキラでも、演者として接しなきゃダメだよ!」
「すみません」
杏里はそれをどんな気持ちで聞いていたんだろう。私はやはり杏里の顔を見れなかったから、静かに頭を抱えてうずくまった。
「次はちゃんとします。なんとか……」
「まあ、一週間は始まったばかりだしね。プリンスの課題もそうだけど……」
奈々未さんは小さくため息をついて、私にはそれ以上何も言わなかった。代わりにくるりと後ろを振り返り、こちらをうかがっていた女子部員たちに喝を入れている。
「レディたち! 君らもだからね! アンリくんの美貌にテレテレしてる場合じゃなーい!」
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