大陸暦1971年――静かな夜


 それからライナの背中を優しく叩いていると、ふと思い出した。


「あ、そうだ」


 私の声に反応して、ライナが胸に埋めていた顔をあげる。こちらを見るその目はとろりとしていて、直前までまどろんでいたのだろうということが目に見えてわかった。

 それを見て明日にすればよかったと後悔しながらも、もう起こしてしまったしこの際だと自分のポケットに手を入れる。下着は履きかえたけれど衣服は着替えていないので、それはそこに入ったままだった。


「ライナ、口開けて」


 ライナは私から離れると、素直に口を開いた。

 私はポケットに入っていた包みから取りだしたものを、ライナの口に入れる。

 ライナは口を閉じて、なんだろうとでも言うような顔でそれを口内で転がしていたけれど、やがてその顔をぱあと明るくした。


「あめだ」

「うん」


 そう。ライナにあげたのは今日、監督にもらった飴玉だった。

 食後にあげようと思っていたんだけど、父さんのことでつい忘れてしまっていた。


「美味しいか?」

「……うん! おいしい! すごくおいしい!」


 ライナが声をあげて喜ぶ。今日一番の声だ。

 この子は父さんがいるときは、なるべく声を抑えている。

 私がそうするように言ったわけではない。いつからかライナが自分で気をつけだしたことだ。それはおそらく、うるさくして父さんの機嫌を損ねないように、そしてそのせいで私が父さんに怒られたり暴力を振るわれないようにそうしているのだろう。

 こんな子供にそんな気を遣わせてしまって申し訳なく思いながらも、幼いながらに姉のことを考えてくれているこの子の気持ちが私は、嬉しかった。

 ライナは満面の笑みを浮かべて、飴玉を口内で転がしている。

 母さんが生きていたころは、母さんに言われてたまにお菓子を買ってあげていたけれど、今は日々の食事もままならない状況なのもあり滅多に買ってやることができない。

 だから久々にお菓子が食べられてライナも嬉しいのだろう。

 丸い頬がふくらんだりへこんだりしている様子を微笑ましく見守っていると、ライナがふいに、はっとなにかに気づいたような顔をした。


「? どうした?」

「ねっころがっておかしをたべたら、わるい子だっておかあさんにおこられちゃう」


 ライナはそう言って頭をさげた。視線の先、ライナの胸元には首からさげられた小さな袋がある。ライナはそれに手をやると、優しく包み込むように握った。

 その中には、母さんの形見である結婚指輪が入っている。

 母さんが死んで泣いていたライナに、私が持たせたものだ。これを持っていれば、いつでも母さんと一緒だと言って。

 それ以来、ライナはこれを肌身離さず身につけていた。


「そうだな。でも、今日は特別だ」

「とくべつ?」

「そう。ライナがいい子にしてるから特別。飴玉はご褒美だ」

「ごほうび」


 そう呟いてライナは視線をあげると、またすぐにこちらを見た。


「これ、ひとつしかないの?」

「あぁ」


 私は思わず苦笑してしまう。

 そうだよな、もっと食べたいよな、と申し訳なく思っていると、ライナから、ガリッという音が聞こえてきた。それがなんの音かとわかる前に、ライナが自分の口に手を入れる。指に摘まれて口から出てきたのは、割れた飴だった。


「おねえちゃんもいい子にしてるから、ごほうび」


 飴の欠片を差し出してくる。


「ライナ……」


 久々のお菓子なのに、本当は全部食べてしまいたいだろうに、それでも私にくれようとするライナの優しさに目頭が熱くなった。


「ほら、おねえちゃん、あーん」 


 口を開けると、ライナが飴を入れてくれた。……懐かしい味がする。そういえば飴を食べるのは数年振りだ。


「おいしい?」

「うん。美味しい。凄く美味しい」


 ライナの真似をして答えたら、真似された本人は嬉しそうに笑った。

 飴を食べ終わると、ライナはそのまま幸せそうな顔をして眠りに落ちた。

 窓から差し込む月明かりの中、小さな寝息を聞きながらその無邪気な寝顔を眺める。

 夜にライナと二人こうしていると、いつも母さんが生きていたころを思い出してしまう。

 母さんは夜にも仕事に出ていたので、ライナを寝かしつけるのは私の役目だった。

 そして夜明け前に帰ってきた母さんを、父さんは『俺をほうってどこに行っていたんだ』と怒鳴って殴ることがあった。……母さんが遅くまで働いていたのは父さんや家族のためなのに。

 そういうとき、母さんからは目を覚ましても部屋から出てはいけないと言われていた。

 父さんの矛先が私に向いてしまうからだ。

 それだけが理由なら、私も素直に母さんの言うことを聞いたりはしなかった。

 父さんに怒鳴られるのは怖かったけれど、蹴られるのは嫌だったけれど、それでも大好きな母さんが酷い目に合っているのを見て見ぬ振りをするなんてできなかったから。

 でも、私が止めに入ると、父さんは邪魔されたことに余計に腹を立てることがあった。そうなると落ち着くまでに時間がかかるし、さらには私をかばう母さんがもっと殴られてしまう。私のせいで、母さんの傷が増えてしまう。

 だから心がどんなに辛くても、私はライナと二人、身を寄せ合って階下が静かになるのをただ待っているしかなかった……。

 そんな暴力の日々に、一度は母さんも私たちを連れて家を出ることを考えていたみたいだけれど、結局はそうしなかった。

 それはおそらく、母さんにも優しかったころの父さんの記憶があったからだろうと思う。

 私なんかよりも、多くの思い出が。

 そしてなにより母さんは優しい人だった。

 父さんになにをされたって、なにを言われたって、母さんの口から父さんを責める言葉は一度も出たことがなかった。それどころか『父さんのことを恨まないであげてね』とまで私に言っていた。

 父さんがああなったのは、大事な鍛冶と腕を無くしたせいなのだと。

 それを乗り越えられたらきっと、元の優しい父さんに戻ってくれると。

 そんな母さんのことだから、父さんを見棄てることができなかったのだろう。

 私はお腹をさする。ライナには先ほど大丈夫だと言ったけれど、痛みはある。

 父さんは私に暴力を振るうとき、大抵、腹部を狙ってくる。母さんにしていたように手も使って体中を殴ってはこない。それが少しでも後ろめたい気持ちがあるのか、はたまた私がまだ子供だからそうしているのかはわからない。

 そしてまだ幼いライナには父さんも、うっぷん晴らしができないようだった。

 今のところそれがせめてもの救いだけれど、でも、いつ手をあげるかはわからない。だから私が帰るまでは家に入らず外で待っているようにと、ライナには言い付けていた。

 それにしても、最近は障害手当が入っていたのでお酒が切れることなく父さんも大人しかったのに……今日は本当に自分の不注意だった。

 ……でも、無意識ににらみつけてしまうほどに、私は父さんを憎み始めているのだろうか。

 昔は無くなった左腕や、それで苦しむ姿を見て、かわいそうだと感じていたのに……。

 寝ているライナを起こさないように気をつけながら、頬を撫でる。

 冬の寒さで少しカサカサになっている頬は、それでも温かかった。

 ……あの様子だと父さんは今夜、帰ってはこない。

 おそらく酒場か、もしくは売春宿で一夜を過ごすだろう。なので夜中に酔っ払って帰ってきて暴れることもないので、今夜はゆっくり眠れる。

 私はライナをそっと抱きしめると、まぶたを閉じた。


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