大陸暦1971年――姉と妹3


 夕食を食べたあと、お湯でライナの体を拭いてやってから二階へと連れて行った。そしてライナを部屋に残して一階に戻ると、私も衣類を脱ぐ。

 先ほどから痛むお腹に目を向けてみたら、やっぱりと言うべきかあざができていた。あの子にこういうのを見せたくないから、体を拭くときは先に子供部屋に行ってもらっている。

 それを今では素直にきいてくれているライナだけれど、最初は控えめながらにも抵抗はしていた。おそらく私と離れるのが嫌だったのだろう。

 だけど『お姉ちゃんのためにベッドを暖めておいてくれないか』と言ったら、喜んで聞き入れてくれるようになった。普段からもわがままらしいわがままを言わない子だけれど、私のためならなおさら素直になる。本当に、優しい子だ。

 私は急いで体を拭いてから、二階へと上がる。

 子供部屋に入ると、ベッドの上で伏せていたライナがこちらを見て笑顔を浮かべた。


「あたためておいたよ」

「うん。ありがとう」


 私は毛布をめくって中に入り込む。毛布の中は、暖かい。

 ライナは私の行動を見届けるかのように、伏せた体勢のままこちらを見ている。その顔の下には、本が開かれていた。


「絵本、読んでたのか」

「うん」うなずいて本に向き直る。


 ライナが読んでいるのは、私が昔に買ってもらった子供向けの絵本だ。


「ぼくに、なでられた、うさぎは、きもちよさそうに、まぶたを、とじました」


 つたない感じで絵本の文字を読みあげてから、横にいる私に顔を向けてくる。


「合ってるよ。上手だな」


 褒めると、ライナは嬉しそうに笑った。そしてまた本に向き直って朗読を続ける。

 ここ壁近へきちかでは、文字を完璧に読み書きできる子はそう多くない。そういうことは幼年学校で教えるからだ。

 その幼年学校は誰でも入ることができるけれど、行くには毎月の学費がかかる。そしてそれはお世辞にも安いものではない。

 だから壁近へきちかで幼年学校に通えるのは生活に余裕があるか、もしくは家計を切り詰めてでも子供に勉強をさせたいと思う家庭だけだった。

 私が幼年学校に通えていたのは、鍛冶士だった父さんの稼ぎが壁近へきちかの人間にしては多かったからだろうと思う。そして、父さんが働けなくなってからは、母さんが頑張ってくれていた。

 母さんが死んでからは流石に学費が払えないのでやめてしまったけれど、それでも何年も通わせてもらったお陰で、私は一通りの文字の読み書きはできる。

 だけどライナはそうではない。この子は幼年学校に一度も通ったことがないし、今も行かせてあげる余裕がない。なのでせめてもと、私が少しずつ文字の読みかたや、ほかにも幼年学校で習ったことを教えていた。

 ライナは絵本を声に出して読み続けている。

 そのつたない言葉を微笑ましく聞き続けていたら、やがて言葉の途中でライナが欠伸あくびをした。


「そろそろ寝るか」

「うん……」目をこすりながらうなずく。


 絵本をそばに置いてやってから、天井の明かりに向けて手をかかげる。するとライナが「ライナがやりたい」と言ってきた。

 私が手を下ろすと、入れ替わりにライナが天井に手をかかげた。

 その手の先には、簡素な魔灯まとうがぶら下がっている。

 魔灯まとうは明かりを発する照明魔道具だ。

 丸いガラスの中には、魔法の源である粒子が含まれた鉱石を加工したものが入っており、粒子の流れを変えることで点灯させたり消灯させたりすることができる。

 魔道具そのものは安いものではないけれど、この魔灯まとうに関しては国から補助が出るお陰で、大して裕福ではない人たちが住むここ壁近へきちかでも、そして貧民街である壁区へきくでも、それなりに普及はしていた。

 私は天井の魔灯まとうを見ながら、その明かりが消えるのを待つ。だけど明かりは揺らぎなく光を発するばかりで、一向に消える気配がない。横を見れば、ライナは難しそうな顔をして、かかげた手に力を入れている。

 ライナに魔灯まとうの操作を教えたのは、ごく最近のことだ。

 魔道具は基本的に、生まれながらに体内に粒子を持つ人間ならば誰でも操作が可能だ。そこに魔法の素養の有無は関係ないし、一度コツさえ掴めば造作なくできるようになる。

 けれども、どうにもライナは粒子の操作が上手くできないらしい。

 私は誰に教わるでもなく三歳ぐらいのときにはもう、見よう見まねで勝手にできるようになっていたのだけれど……向き不向きがあるのだろうか。それとも私の教えかたが駄目なのだろうか。

 粒子の流れを変えるという行為は感覚的な部分が強く、自分でもどう言語化したらいいのかわからず、ライナに教えた説明で合っているのかもわからない。

 せめて幼年学校で習っていればそのまま伝えることができたのだけれど、学校ではそれを教えてくれることはなかった。

 おそらくこういうことは家庭で教わるか、私のように勝手に身につくのが普通なのだろう。

 そして母さんがライナにそれを教えなかったのは、私のことがあったからなのかもしれない。……いや、もしくはそこに気が回らないぐらいに疲れていたか。

 疲労をにじませながらも私たちの前では微笑みを絶やさなかった母さんの顔を思い出して、恋しいような切ないような気持ちになっていると、耳に「んー」とうなる声が入ってきた。

 いつの間にか下げていた視線をあげて前を見る。そこには一生懸命に手を何度もかかげ直しているライナの姿がある。天井の魔灯まとうは依然、光をはなったままだ。

 これは今日も駄目だな、と優しく思いながら、毛布の中から天井を指さす。そして粒子を操作して魔灯まとうの明かりを消した。


「! できた」ライナが笑顔でこちらを見てくる。

「凄いな。でも、一人のときは危ないからしちゃ駄目だぞ」


 本当はなにも危ないことはないのだけれど、一人のときにされるといつも私が手を出していることがバレてしまうので、ライナにはそう言い聞かせていた。


「うん」


 ライナは素直にうなずくと、腕を毛布の中に収めた。

 私は肩の上まで毛布をかけてやる。


「寒くないか?」


 部屋には暖房のたぐいはない。暖炉は一階に小さいのがあるぐらいだ。それもまきなどの燃料代がかかるので滅多につけれない。

 ほかにも部屋を暖かくするには魔法を使ったり魔道具を使う手もあるけれど、もちろん私は魔法なんて使えないし、そういう魔道具は高価で買えたものではない。

 だから冬期に入った夜の部屋は寒く、外気にさらされている顔や、ときおり毛布の隙間から入る空気も、鳥肌が立つぐらいに冷たかった。


「おねえちゃんがいるからさむくないよ」


 でも、そう訊くとライナは必ず、こう答えてくれる。


「おねえちゃんはさむくない?」


 そして私の心配までしてくれる。


「ライナがいるから寒くないよ」


 いつも通りそう返すと、薄闇の中でライナは頬をほころばせた。

 実際、毛布の中が暖かいのは、体温が高い子供――ライナがいるお陰だ。

 これまでも、そして母さんが死んだ昨冬を乗り越えられたのも、この子がいてくれたからだと思う。きっと私一人だったら、とっくに身も心も寒くて凍えていたことだろう。

 ライナは私の言葉に喜ぶように、にこにことしていたけれど、やがて思い出したように眉根を下げると、私のお腹にれてきた。そしてお腹をさすってくる。


「おなか、いたくない?」

「大丈夫。お姉ちゃんは丈夫だからな」


 それはライナを安心させるために言ったことでもあり、本当のことでもあった。

 幼いころやんちゃだった私は、走ってこけたり、高いところから落ちたり、なにかにぶつけたりと、よく怪我をしていた。でも、そのときにすり傷は負えど、骨折どころかヒビも入ったことがなかった。

 これまでだって父さんに蹴られても、今のところあざぐらいで済んでいる。

 それはもしかしたら父さんが手加減をしているのかもしれないけれど、でも、母さんは父さんに蹴られて内臓を痛めたり助骨を折ったことがあった。

 そのときは星教会せいきょうかいほどこしが丁度あって、運よく治療を受けられて大事には至らなかったのだけれど……あれがなければ母さんはもっと早くに死んでいたかもしれない。父さんは母さんが怪我をしててもお構いなしだったし、比較的治療費が安い壁近へきちかの治療院で治療を受けるにしても最低、予約に一ヶ月は待たされてしまうから。


「おねえちゃん」


 あのときのことを思い出して怒りを感じていた私は、その感情を声に出さないよう気をつけて返事をした。


「どした?」

「おとうさんは……ライナたちのこと、きらいなのかな」


 無垢な瞳で問われて、私は返答に困る。

 父さんも、昔はああではなかった。

 怪我をする前は家でお酒を飲むことはなかったし、外で飲んで酔っぱらって帰ってきても暴力を振るったことは一度もなかった。

 それだけでなく、今では伸びきってボサボサになってしまっている髪も昔はこまめに切りそろえていたし、無精髭も絶対に生やすことはなかった。

 そして、男の人にしては中性的なその顔にはいつも、優しげな微笑みが浮かんでいた。

 父さんは仕事が忙しくて、あまり話したり遊んでもらった記憶はないけれど、食事も一緒に食べることは少なかったけれど、それでもその顔は覚えている。

 鍛冶仕事で鍛えられた体格のよさと、それに少し不釣り合いな小顔に浮かんだ微笑みが、私は……好きだった。

 ……でも、ライナはそんな父さんを知らない。

 この子が物心ついたころにはもう、父さんはああなっていたから。

 そんなライナをかわいそうだと思う反面、そんな父さんしか知らないライナを少しうらやましくも感じる。

 そのほうがかえって、父さんに対する気持ちに踏ん切りがつくだろうから。

 下手に昔の父さんを知っているほうが……辛いから。


「そうかもな」


 私は取り繕うことなく、思っていることをそのまま口にした。

 昔がどうであれ、今の父さんが私たちのことを疎ましく思っているのは間違いないだろう。でなければ、娘を蹴りあげることなんてできるはずがない。

 わずかな希望を失ったかのように、ライナの顔が曇る。そんなライナに私は続けて言った。


「でも、私は、私と母さんはライナのことが大好きだ。それじゃあ、駄目かな?」


 ライナが私を見る。大きな瞳が揺れている。薄闇の中でもそれがはっきりと見える。

 やがてライナは泣きそうなのを我慢するかのように、きゅっと口許を結ぶと、私に抱きついてきた。


「それでいい」


 胸に顔を埋めてそう言ったライナの頭を、私は撫でる。

 幼いライナにとって、父親から嫌われているという事実は残酷で、衝撃的なことだっただろうと思う。

 だけど、それでもライナはその事実から目をらしてはいない。

 その小さな身体で、それを必死に受け入れようとしている。

 お母さんとお姉ちゃんは自分のことを好きなのだからお父さんに嫌われていても平気だと、自分を納得させようとしている。

 私に抱きつきながら、湧き上がる感情に耐えている。

 そんな健気な妹が痛ましくも、愛おしかった。

 気持ちをなだめてやるように頭を撫で続けていると、胸に顔を埋めたままライナが口を開いた。


「……ライナも」


 そこで間が開いたので、私は「うん」と相槌あいづちを打つ。


「ライナも、おねえちゃんだいすきだから」


 その想いを伝えてくれるかのように、抱きついている手に力が込められる。

 その気持ちが嬉しくて、私もライナを抱きしめた。


「うん。ありがとう」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る