乱丁本を買った日
田村早瀬
乱丁本を買った日
僕が乱丁本を買った日の話をしよう。
それはとてもよく晴れた日だったけど、僕の気持ちは暗かった。丁度以前付き合ってた彼女と上手くいってなかったんだ。行くあてもなく、ぶらぶらと街を散歩していた。けど、歩いてるだけで、彼女とどう別れようかって想像が沸々と身体の内側から沸いてくる。だから、どうしようもなく、ただ歩くことに集中することにした。君もやってみたらいいと思うんだけど、普段歩かない道を歩くと少しドキドキして簡単な冒険をしてる気分になるんだ。今でも信じられないけど、少し疲れたと思った頃には駅3つ分くらい歩いてたんだ。
カフェでひと休みする前に、本屋に立ち寄った。そう、僕が乱丁本を買った本屋さ。本屋を回ってるうちに、ふと「戦争と平和」が目に入ってね。トルストイのやつ。なんでよりにもよって、彼女と別れることで心が一杯の日に、しかも、3駅も離れた本屋でこの本を買おうと思ったのか、僕にも分からない。けど、その時は買いたい衝動に突き動かされたね。まあ、心の中がごちゃっとしてて、身体も疲れてたらそういう衝動も湧くのかもしれない。僕は「戦争と平和」全4巻を棚から一掴みで取り出すとレジまで大股で歩いて行った。その時対応してくれた店員さんは可愛い子でね。この本屋に定期的に来ようかと思ったね。冗談抜きで。
店員さんはトルストイを両手で受け取ると、一冊一冊丁寧にバーコードを読み取って、カバーをつけてくれた。その間、彼女の白くて繊細な指と、小さな鼻を交互に見てた。すると段々彼女に感謝の気持ちが湧いて来たんだ。こんなに優しく本に手を取ってくれる人はいない。僕は自分が本になった気持ちになって、彼女に感謝した。けど、話しかけることはしないよ。その頃の僕は本みたいにシャイで無口だったし、こういう感情は外に出さない方がいいと思ってたんだ。
事件はカフェの席に腰掛けて、コーヒーを待っている間に起こった。ページを開くと、物語の始めのページが折り畳まれた状態で印刷されてたんだ。丁度夫人が男爵に面会する場面だった。ワシーリイ公爵が熱情家のアンナ・パーヴロヴナ夫人に「夫人が将軍の代わりに講和会議に臨んだら、必ずやプロイセン王の同意を取り付けたことでしょう」と語り、夫人の癇癪を宥める場面。そのセリフがパックリと二つに割れてしまっていた。まるで何かのいたずらか深遠な意図があるみたいに。
僕はこういうことに関しては優柔不断でね。本は読めないこともないし、どうしようか悩んだね。本屋に戻るとすると、折角落ち着いたのに、また立ち上がらないと行けない。それにまだコーヒーも来てないんだ。けど、続きを読もうとしても、ページに入った折り目がどうしても気になって読み進められなくなってしまったんだ。折角届いたコーヒーの湯気が立ち上る間に、さっき買った時のレシートがあるのを確認して、本屋に行くことに決めた。もしかしたら可愛い店員さんにまた会えるかもしれないという期待が後押ししたかもしれない。
けど残念ながら、本屋のレジに可愛い店員さんはいなかった。僕はどうしていいか分からずレジの周りをしばらくウロウロして、結局は勇気を出して乱丁本のことを告白した。その時対応してくれた店員さんは40代くらいの人の良さそうなおばさんだった。彼女は少し困った表情を浮かべると、店の裏から店長を連れて来てくれた。店長は気さくな爽やかな人でね。僕に謝りながらレシートを作り直して、返品作業はすぐに終了した。
けど、ここでも問題が起こった。「戦争と平和」は乱丁本の一冊しか本屋に置いてないって言うんだ。こういう街の本屋さんだと、健康本やビジネス本はたくさんあるのに、「戦争と平和」はたくさん置いてないんだ。読む人がそんなに多くないからね。僕も彼女のことで思い詰めて、3駅分歩かないと買わなかったわけだし、そんな人間がそんな頻繁に現れるとも思えなかった。だから僕は愛想良く本は諦めてお店を出た。「戦争と平和」の第一巻以外を持ってね。
今、僕の本棚には「戦争と平和」が全巻並んでいる。あれから色々なことがあった。その時読めなかった話の続き、つまり、どのように戦争が起こって平和が訪れたのか僕は知っている。
乱丁本を買った日 田村早瀬 @hayase_tamura
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