三章上

「あれ、もしかして葛谷じゃね?」


 そう呼びかけてきた声はどこか聞き覚えのあるもので、相手が誰か分かる前から、何故か嫌な予感が止まらなかった。

 その店員の顔は、やっぱり何処かで見た事があって記憶を辿ると、すぐにその既視感の正体に思い当たる。

 と同時に、体が落ちていくような言葉にしがたい恐怖が俺を襲った。


「久しぶりじゃん。なに、デート中?」


「大村───」


 俺は今どんな顔をしているだろう。

 そこに、さっきまでの楽しさは微塵もなく、あるのは青くなった絶望のみだった。

 どうして、どうしてどうしてどうして。後悔と疑問と困惑が俺の中を無限に反芻して回る。


「その制服着てるって事は星恩には入れたんだな、おめでとう。こんな可愛い彼女出来てるなんて意外だわ」


 話しかけられた声は耳には届いているのだが、全く頭に入ってこない。

 頭が真っ白でなにも考えられず、そのまま通り過ぎていく。


「葛谷くんのお友達?」


 下を向き青い顔をしている、明らかに様子のおかしい俺を見兼ねたのか、川崎が心配するように声をかけてくれる。

 だが、俺にはその言葉すらまともに届かない。


「あ、初めまして!俺は大村蓮って言います。葛谷とは中学の同級生で。あれ、どこかで会ったことありますか?」


「?

お会いしましたっけ?私は川崎美雨って言います───」


 どうして大村はそんなに馴れ馴れしく接して来られるんだ。俺に昔、あんな事をしたと言うのに。まさか何をしたかを忘れたとでも言うのか?

 川崎と大村が何かを話しているが、その様子を見ているだけで脳が茹だつようだ。

 自分の中にまだこんな熱くなれる感情がある事に驚く。


 これ以上、この光景を見ていられない。居ても立っても居られなくなった俺は無言で立ち上がり、店を後にした。

 待って、という川崎の呼び止める声が聞こえた気がしたが今の俺を止めるほどの力はなかった。




 ◆




「見つけた…」


 突然店を飛び出して行ってしまった葛谷くんの後を追って、同じように私も飛び出したが、腐っても男子。

 体力差は歴然で、追いつくまでかなりの時間を要してしまった。

 私の場合は、それだけが理由じゃないのだが…今はそれはいいだろう。


 とにかく、公園のベンチで1人項垂れている彼を見かけた時、思わずほっと安堵の息が出た。

 カフェであの大村くんという中学の知り合いが現れてから突然、心を読むまでもなく見て分かるぐらい動揺していた。

 一体、何が彼をそこまで追い詰めていたのか。


「葛谷くん、大丈夫?」


 なるべく優しい声色で驚かせないように声をかける。そうでもしないと壊れてしまいそうな程、その背中は小さく見えたから。

 その声に少し遅れて、ゆっくりと私の姿を確認する。

 その顔はこの短時間でここまで変化がつく事があるか?と思うほどやつれている。


「…川崎か」


 一瞬どんな風に声をかけたものか、迷う。

 そうして考えた結果、なるべく明るく元気に振る舞おうと決めた。


「もう急に飛び出すからびっくりしちゃったよ。こんな所に公園なんてあったんだね、初めてきたや」


 私は気にしていないとアピールする、これでちょっとでも気が逸れてくれればと願うがそんな思いとは裏腹に、黙りこくったまま何も返事は返って来ない。

 その目線はもう私でなく地面へと向けられている。


 今、声をかけるのは、無粋だ。

 そう判断し、葛谷くんの隣に腰掛ける。

 落ち着くまでせめて誰かが側にいてあげなくちゃ。今の彼を1人にしてはおけない。


 そうして、どれだけの時間が経っただろうか。

 夕暮れだった空は、もうすっかり太陽が落ち暗くなって、街灯でベンチがスポットライトのように照らされている。

 耳鳴りがしてきそうなほどの静寂で、まるで世界から隔離されているかとすら思える。その事に心地よさを覚え始めた頃。

 葛谷くんはポツリポツリと語り始めた。




 ◆




 周囲の人間が全て敵に見えるようになったのは間違いなくこの日からだった。

 中3の7月。肌を焦がすような日光に陽炎が立ち昇る。

 晴れ渡るような快晴。雲一つない青空は見るものの心を晴れやかにさせる。


 そんな日。


 体からは汗が止まらず、じっとりとした感覚に一刻も早くシャワーを浴びたい。

 ───だが、その時流れていた汗は記録的猛暑の外気とは関係ない、もっと別種の冷たい汗だった。


「お前なんかが星恩受けんの?恥ずかしくないわけ?」


 放課後の教室で、俺が座る席の目の前に立つ大村蓮が「進路希望調査」と書かれた紙を見ながら、そう言った。


 大村蓮。その甘いルックスと、話したものを思わず笑顔にさせる抜群のユーモアで、女子だけに限らず男子からも人気がある学年の人気者。

 いつも彼の周りには人が沢山いて、俺はそれを遠巻きに眺めている、その程度の関係。

 まともに話した事などほとんどなく、ただのクラスメイトとして、卒業までこんな調子なんだろうなと勝手に思っていた。

 だというのに。

 何が彼の逆鱗に触れたのか、明らかに不機嫌そうな大村が、今俺の前で仁王立ちしていた。突然の事すぎて驚きの方が大きく、喉から言葉が出てこない。


「なぁ、何とか言えよ。お前っていつもそうだよな。教室の隅の方で、こそこそしててさ。陰キャは陰キャらしくもっと底辺の高校がお似合いだよ」


 星恩高校。この辺りでは1番の私立高校で、とりあえずここを目指しておけば間違いないと言われている進学校だ。

 星恩を目指そうとしていた事がそこまで気に触ったのか?

 深く関わってきた訳では無いが、大村らしからぬ言いがかりと言うか、その程度の事でここまで感情を顕にしているのは、イメージと一致しなかった。


 教室内はクラスメイトがまばらに点在し雑談している、よくある放課後だった。


 ほんのさっきまでは。


 突然始まった公開処刑。普段交わることのない2人が何やら不穏な雰囲気ともなれば、教室内は、今、口を開いてはならないという暗黙の了解が共通認識となった。


 何せ、今俺の目の前で人を心底見下したような目で見下ろす大村は学年の人気者。大村の言葉を借りるのであれば生粋の陽キャ。

 片や俺はクラスの隅でなるべく目立たぬように数人の仲間達とゲーム談義に華を咲かせるような日陰者。

 その2人の相性なんて火を見るより明らかで、嫌でも周囲からの注目を集め、かつ、誰も口を挟めない雰囲気が完成していた。


「………」


 俯いたまま口を開かない俺に苛立ちを覚えたのだろう。

 ちっ、と舌打ちし思いついたように手に持っていた紙を宙に掲げる。


「皆。こいつ星恩に行きたいらしいんだけど相応しくないよな?なぁ?相応しいと思うやつは手挙げて?」


 ────あぁ、これはやばい。


 体中から嫌な汗が噴き出すのを感じる。

 その嫌な予感をどうにか払拭しようと、助けを求めるようにいつも話している友達の方へと目を向けた。


 …だが、「友達」からの視線はいつまで経っても返って来る事はなかった。


 声は確かに教室にいるもの全員に届いていたはずだ。

 だというのに、教室の中に手を挙げているものは誰1人いない。友達だってこの空間にいたはずなのに。

 その事実を認識した瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。


「うえ、なんで泣いてんのこいつ」


 思わず溢れ出した涙がボロボロと頬を伝う。

 必死に堪えようとするが、止めようとすればするほど止まらない。その事実が更に心を不安にさせ、溢れる涙に拍車をかけていく。

 できる事は必死に声を上げないようにする事だけで、鼻を啜る音も立てぬよう俺は息を止めた。


 ここに味方なんていない。

 この空間には最初から友達など存在しなかったのだ。

 みんな我が身が大切で、わざわざ自分からトラブルの種に首を突っ込んで来ようとしないのだろう。

 仕方ない。仕方ないと自分に言い聞かせる。

 逆の立場だったとして自分が助けに入れるかと言われれば断言は出来ない。

 出来ないが、それでも。

 それでも助けて欲しかった。だって友達だと思っていたのだから。


 この歳になってから人前でこんなふうに泣く事になるなんて。

 恥ずかしくて消えてしまいたい。誰か消してくれと願うが、現実は非情だ。

 罰が悪くなったのか大村はいつの間にか姿が消えていて、啜り泣く俺だけが取り残されていた。


 遠くから見ていた元友達も哀れなものでも見るかのような視線を向けていたが、ついに慰める事なく俺の視線を避けるように教室を後にした。

 せめて、嘘でもいいから謝罪の言葉を口にしてくれれば。まだやり直せたかもしれないのに。


 ────俺の心はそこで完全に壊れた。




「そこからは知っての通りだよ…。俺は人を信用する事をやめたんだ。最初から期待しなければ裏切られる事もない、単純な理屈だろ?」


 川崎の顔を俺は見る事が出来ない。今の顔なんて見せられたものじゃないし、どんな顔をしているのかも見たくない。


「それが…葛谷くんの人嫌いの根源だったんだね」


 川崎は悲しそうに言った。

 人嫌い、確かにそうなのかもしれない。あれ以来誰にも心を許さぬようにと立ち振る舞って来たのだ。


 だというのに、最近の俺はどうかしていた。心が読める川崎に出会った事をきっかけにその気持ちが緩んでいた。

 挙げ句の果てにはあれほど嫌っていた一軍と遊びに行こうだなんて。


 久しぶりに会った大村は何も変わっていなかった。

 昔の事など忘れたかのように軽いテンションで話しかけてきて、あろうことか星恩高校に入れた事をおめでとうだなんて。俺がどんな気持ちだったかなんて考えた事もないのだろうな。


 忘れよう忘れようと、記憶の奥底に封印していたがこんな形で掘り起こされた。完全に事故。あんな所でバイトしてるなんて避けようがない不運だった。そう思ってもう忘れよう。


「大村は何も覚えてなかった。俺に関する嫌な記憶なんて綺麗さっぱり消し去って、何事もなかったかのように────俺がどんな気持ちだったのかも考えずに。」


「……」


 その言葉にはなんの反応もない。だが、その事に気を使えるほど俺に余裕は無かった。

 言う事は言ったというように罰の悪さもあり、俺はそそくさと公園を後にすることにした。


「急に飛び出してきてごめん。今日はもう帰るよ」


 川崎はどうするのかと見やるが、何かを考え込んでいるようでまだ帰るような素振りはない。

 送って行った方がいいだろうか、など様々な思考が巡ったが今日これ以上一緒にいるのは、気まずいことこの上ない。結局、1人でも大丈夫だと判断し俺は駅に向かった。


 だから、立ち去った後で呟いた川崎の独り言が俺に届く事はなかった。


「昔の事を忘れてた?じゃあどうして────」


 その呟きは夜の静けさに吸い込まれ、闇に溶けた。




 ◆




 翌日からの葛谷くんは見ていて痛々しくなるものだった。

 最近、ようやく纏っていた壁が段々と剥がれ始めていたと思っていたのに。

 おかげで、周囲からの目もだいぶ柔らかくなり莉央も遊びに誘おうと思えたのだろう。

 だと言うのに、今の葛谷くんは逆戻りどころか、以前よりもさらに強固で高い壁のような、何人たりとも寄せ付けんとするオーラを纏っていた。


 気にしたら負けだ、と私がいつもの調子で話しかけに行っても、まるで取り付く島もないと言った様子で、完全に無視されてしまっている。

 最近はかなり打ち解けて来られたと思ってたんだけどな。心を閉ざすという言葉が正しいだろうか。あんな姿見ていられない。

 放課後。一緒に遊んだ時に見せた笑顔と、今の人を拒絶するような冷たい無表情は、あまりの温度差でとても胸が苦しくなる。


 ────話しかけないでくれ。


 それだけが強く伝わってくる。

 救ってあげたい、そんな事言わないで欲しいと胸が熱くなるがこちらの気持ちは、伝わらぬ一方通行だ。

 どうしたらまた話を聞いてくれるだろうか。やっぱり昨日のあれが原因だとしたらそれをどうにかしないことには────。


「美雨、顔険しいよ。それで、葛谷くんどうしちゃったの?私も話しかけてみたんだけどこないだと随分様子が違うみたいで。喧嘩でもした?」


 考え事をしていて、無意識に怖い顔になっているのを莉央に指摘され、初めて気がつく。

 周りから見ていても、私と葛谷くんの関係が良好でなくなったのは伝わったのだろう。

 莉央も話しかけたと言う事は、遊びに行く予定の事でも話したんだろうか。だとするなら、タイミングは最悪というやつだ。いまの葛谷くんの内心を考えれば、人気者が絡むような話は1番聞きたく無い話題だろう。


「なんでもない…事はないんだけど。喧嘩とかではないよ、大丈夫、ありがとね。あと…気を悪くしないであげて。」


 そう言うと、莉央の心配そうな顔が少しだけ緩む。


「そっか。私は全然大丈夫だから。なんかあったら言ってね、相談は乗るよ」


 そう言う莉央からは、嫌な感情はなく、葛谷くんの事を本当に気遣っているのが伝わってきた。

 あぁ、私は何ていい友達を持ったんだ。心配してくれる人がいる。それがどれだけ心温まることか。葛谷くんにもその事をちゃんと知ってほしい。


 でもだからこそ、辛さも計り知れない。信じていた友達に肝心な場面で裏切られ、孤立する。そんなの誰のことも信じられなくなって人間不信になるきっかけとしては、充分過ぎる。


 まずは話をしなければ始まらない。それにもしかしたら…私なら解決してあげれるやも、しれない────。


 そう心に決め、それから毎日話しかけたが結果は惨敗だった。

 そもそもまともに会話する所まで辿り着けなかったのだ。明らかに避けられている。その事に気づくまで時間はかからなかった。




 ◆




 1人は楽だ。

 1人の寂しさなんてもうとっくのとうに慣れてしまったし、誰に対しても期待しないと言う事は誰に対しても失望しないという事で、心の安寧が約束されていると言ってもいい。

 そりゃあ、俺だって最初の頃は1人でいることに人並み程度寂しさや恥ずかしさを感じていたが、1ヶ月もすればそれは気に留めるまでもない日常になってるってもんだ。


 高校に入ってから最近までは凄く順調に事が進んでいた。

 友達と遊びに行くだとか、青春だなんて物にはまるで興味がなかったし羨ましいという感情もなかった。


 本当の意味で1人だったのであれば俺も心を病んでいたかもしれない。

 だが、俺にはネットの世界があったのだ。

 ネットの世界での自分は、その有り余った時間を費やしたゲームで友達と呼べる存在が、現実では考えられない程に沢山出来ていたので、毎日退屈する事はなかった。


 現実では1人だなんて関係ない。俺はネットの世界で生きていく。こんな生活を卒業するまで続けると、信じて疑わなかった。

 ────だから最近の俺は本当に、どうかしていた。


 授業の終わりを知らせる鐘が鳴り、それを待ち侘びていたかのようにパタパタと足音が近寄ってくる。


「ねぇ、葛谷くん。ちょっと話したい事があるんだけど」


 川崎。あんな話をしたというのに、それでも懲りずに毎日話しかけてくれるのは、きっと感謝すべきなんだろうが、今の俺にはその気遣いですら重い。


 俺は、無言で鞄を持ち上げ、教室を後にする。


 ────関わらないで放っておいてくれ。


 心の読める川崎ならきっとこの気持ちが伝わっているだろう。

 いずれは諦めてくれる。ここ最近のことは全部幻。さっさと帰って、全部忘れよう。


 そう思い、階段を降ろうと足を踏み出そうとした時。行手を阻まれ足が止まる。どうして────。


「今日は何としても私に付き合ってもらうから。悪いけど拒否権はなしね?」


 階段に両手を広げ、通す気はないと強い意志を示す川崎が立ち塞がっていた。

 無視して、横を通り抜けようとするが、俺の動きに合わせスライドし正確に進路を阻む。フェイントを入れ、躱そうとするがその動きに惑わされる事なく完璧に俺に付いてくる。


 …勿論、体格差があるし、強引に押し通ろうと思えば通れはするだろう。

 だが、俺がその選択を取る事はないし、その事を分かっているからこそ、川崎はこんな強引な方法を取ったのだろう。

 そもそも読み合いで川崎に勝てるわけがなかった。そう気づき、大きくため息を漏らす。


「……なんの用」


 実に1週間ぶりの、川崎に発した言葉だった。

 川崎は、その言葉にぱっと表情を明るくさせニコニコと笑顔になる。


「やっと話してくれたね!」


 そんな嬉しそうな顔で言われると、なんだか照れ臭い。

 斜め下を向きながらぶっきらぼうに返す。


「そりゃ…言わないと通して貰えなそうだったから」


 階段の真ん中で立ち往生している俺達を一体どうしたのかと不思議に思ったのか、周りにザワザワと人が集まり始めていた。


「とりあえず、場所変えよっか」


 注目を浴びて恥ずかしそうにそう言った川崎の顔は、とても────。




 俺達は、落ち着ける場所として2人だけの秘密基地である屋上前の階段へとやってきていた。

 着くや否や、川崎は口を開いた。


「それじゃあ、まず葛谷くん。色々言いたい事はあるけど最初にこれかな。どうして私を避けてたの?」


 うっ、やっぱり聞かれるよな。

 そもそも俺はそこまで会話が得意な方じゃないって言うのに。


「なんでって…。こないだ話しただろ?俺はもう人を信用するのはやめたんだ。だから────本当は川崎とだってこんな風に話をするつもりもなくて」


 その俺の言葉を遮るように川崎が口を挟む。


「どうして?」


 その言葉には、疑問というよりもどこか怒りが込められているように感じた。


「どうしてって────。そんなことどうだっていいだろ」


 気持ちが昂り、思わず語気が強くなる。

 言いすぎたかと、一瞬我に帰るが川崎は気にせず言葉を続けた。


「裏切られるのが怖いから?」


 諭すように静かな口調の川崎の言葉に息が詰まって、空気が出てこない。

 何か否定しなければ。そう思うのに、言葉が出ない。


「傷つきたくないから?」


 やめろ。

 考えるより先に体が動き、耳を塞ぐ。俺の体が、この先の言葉を聞くのを拒否している。

 川崎に隠し事は出来ない。それがここまで恐ろしい事だとは。


「理不尽な悪意に触れたから?」


 これ以上聞くとまずい。

 聞きたくないと固く耳を閉ざしているのに、指の間から川崎の透き通るような声が流れ込んでくる。


 お願いだから……もうやめてくれ。


「1人だと言うのを認めたくなかったから?」


 きっと川崎は頭を抱えて蹲っている俺の姿を哀れな目で見ているのだろう。穴があったら入りたい、この場から消えてしまいたい。見ないで────。


 そうして川崎は一拍置いて、こう呟いた。


「私はここにいるよ」


 その意味が咀嚼できず、頭に入ってこない。


「私はいなくならないよ。君の気持ちは誰よりも理解してるし、裏切らないし、傷つけたりしない」


 ────川崎は一体、何を言い出したんだ?


「何を…」


 耳を塞いでいた手を解き、俯いた顔を上げる。そこには笑うでも見下すでもなく、ただ真剣な、真っ直ぐにこちらを見つめる川崎の顔があった。

 その大きな瞳は、俺の内を見透かしているようで…いや、実際見透かされているんだろう。でも、それなのに不思議と嫌な気持ちがしない。


「私を見て。不安なら私を頼って。周りの人、全てが敵な訳じゃないんだよ。私が保証するから。大丈夫だよっていつでも言ってあげる」


 まるで傷ついた子供をあやすような優しい口調。胸がきゅっと締め付けられるような痛みを感じる。

 心臓がうるさい。この熱に当てられたかのように必死に脈打っている。


「そんなの信じられない────俺は1人でも大丈夫だ」


 最初から期待しなければ裏切られない。もうそれでいいじゃないか、何がダメなんだ。俺は1人でも生きていける。


「私は…葛谷くんと一緒にいたいと思ってるよ。他の誰でもない────私を信じて」


 …なんだそれ。なんだよ、俺は1人でも大丈夫だと思っていたのに────。


 そんな事を言われると考えてしまう思い出してしまう。

 俺だって普通の学生生活を送りたいと考えた事があった、普通に恋愛して普通に友達と遊んで。普通普通普通。

 諦めた感情が溢れ出す。それは一度始まると、まるで決壊したダムのように止まらない。


「信じていいのか…?」


 絞り出すように言ったその声に、川崎はこくりと優しい笑顔で頷く。


「私を誰だと思ってるの?誰よりも人の心に詳しい超能力者なんだから」


 超能力者は関係ないだろとつっこみたくなるが、そんな事すら気にならない。閉ざされていた心が、再び川崎によって開かれる。


「そうか。そうだな、それなら安心だ」


 何が安心なのかは分からないが、何故だか笑みが溢れてくる。

 それに釣られたように川崎も笑い出し、2人してクスクスと笑い合っていた。

 しばらくそうして笑い合った後、川崎は一仕事終えたというようにふー、と深く息を吐き出した。


「良かった。今日はどうしても葛谷くんに伝えたい事があったんだ。聞いてくれる?」


 先程までと違って、至って真剣な表情。


「伝えたい事?」


 改まって伝えたいこと…?その表情からは見当もつかない。


 ────はっ!これはまさか、漫画やアニメなんかでよくある放課後話があるから、みたいな王道パターンか?青春学園物のど定番。その王道から考えた場合、話の内容は十中八九告白。

 まずい、俺は心の準備がまだ────。


「葛谷くんは私が心が読めるって事を忘れてるのかな…頭いいのに馬鹿だね。悪いけど違うよ。────今から、大村くんに会いに行こう」


 先程までの妄想で赤くなった顔が一瞬で冷める。

 大村?なぜ今その名前が川崎の口から出てくる。たった今、川崎のおかげで少し立ち直ったばかりだというのに、俺のトラウマの元凶に、どうしてまた会いに行くんだ。


 そのどうして、という疑問に答えるよう川崎が口を開く。


「この間、葛谷くん言ってたよね。大村くんは昔の事をすっかり忘れて、どんな気持ちだったかも考えずのうのうと暮らしてたって。本当にそうだったと思う?」


「どういう…意味だよ」


 何を言いたいのか要点が掴めない。


「気にしてなかったら名前なんて覚えてないし、私には────大村くんが何かを謝りたいと思ってるように見えたよ」


 謝りたいと思ってるように見えた?あの大村が?

 …いやいやそんな訳あるか?ありえない。だって昔と変わらぬ調子ではしゃいでいて────。

 頭の中で沢山のはてなが渦巻く。


「あの日、葛谷くんは大村くんの顔────ちゃんと見た?」


 そう言われて、はっとする。

 あの日の記憶に、大村の顔は、最初の驚いたような表情しかなかったことに。…でも信じられない。


「そんな訳…」


「私の言う事が信じられない?」


 言い淀む俺に被せるように川崎が言う。

 正直、これに関しては信じられないというのが率直な感想だ。そもそも俺からすれば、向こうが覚えているのかすらも怪しいレベルの話だ。

 今更川崎を疑っている訳ではないのだが、脳が受け入れるのを拒否しているような────。謝られるような心当たりなんてあれ以外ない。でも、そんな事あるのか?もう関わらない方がいいんじゃと心の中の自分が訴えてくる。

 人の心が読める川崎と俺の印象、その矛盾が俺の頭で渦巻く。


「だから、会いに行くんだよ。確かめないと本当の意味で葛谷くんが前に進めない」


 川崎の瞳には揺るがぬ意志が灯っていた。

 怖い。俺の体には、もうあの時の恐怖が刷り込まれている。考えただけで発汗し、指先から冷たくなっていくような錯覚に陥るのだ。


 ほんのさっき奮い立ったと思っていた心が、急速に萎んでいく。無理だ、行ける訳ない。あれは運の悪い事故だったんだ。もういいじゃないか、忘れて生きていけば。俺はもう1人じゃないのだから無理をしなくても────。


 思考が暗く落ちていきそうになった所で、右手が温かいものに触れ、びくっと体が跳ねて、現実世界に引きずり戻される。

 そうして、冷たくなっていた俺の手が川崎の両手に包まれていると理解した。


「川崎!?」


 冷え切って青くなりかけていた顔に、一気に熱が張り巡る。


「大丈夫、私も一緒にいくよ。一緒に言って確かめよ?そしたら心から笑えるようになるよ」


 その言葉が、手から伝わってくる熱とリンクするように俺の胸へとじんわりと染み込んでいく。

 どうして川崎の言葉はここまで俺の心に響くんだろう。不覚にも涙が溢れてきそうになるが、何とか流す事なく眼を潤わせるに留める。

 先程まで不安に感じていた事が、今はもう気にならなくなっていた。大丈夫、この今感じている熱は嘘じゃない。確かめに行こう。

川崎と一緒なら何も心配はない。


「…分かった、会いに行こう」


 それが川崎の願いだと言うのなら、俺はそれに従うだけだ。

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