第26話 山を登る公爵令嬢
ロメリィとの二人旅。リヒトはその大変さを、出発するまであまり理解していなかった。いや想像できていなかったというべきか。
普段は日中だけ授業を共に受け昼休みを過ごし、たまには放課後も魔法の練習などをすることがある。その時間が延長するようなものだと、そう思っていた。
(全然違った……)
一日中馬車で向かい合って言葉を交わす。外の景色について楽しそうに尋ねてくるロメリィに答えたり、時にはロメリィの発言に心臓の動きがおかしくなったりしながら明るい時間は休憩をはさみつつ馬車で移動して、日が沈む前に宿で休む。
宿はあらかじめグレゴリオが用意していて、勿論別室だ。ロメリィの部屋は最高級で、リヒトの部屋が同じ宿の中でも一番安い場所ではあったが、宿としてはその街で最も良い場所なのだから文句など出るはずもない。
ただリヒトだけ安宿を取って離そうとしなかったのはグレゴリオもロメリィの性格を理解し始めていたからだろう。リヒトの部屋が一番質素だと知ったロメリィは「私の部屋は二人で眠れそうなのだが、こちらの方がいいのではないか?」などと言い出すのだ。平民には充分すぎる場所だからとどうにか断ったけれど別の格安の宿だったら確実に同室に入れられていた気がする。
(どうもオーガっていうのは……こう、雑っていうかおおらかっていうか誠実っていうか……多分、皆正直で悪いことなんてしないんだろうな)
普通は男女を同じ部屋にしようなんて考えないし、そういう意図もないのに女性が男性を寝室に招くこともない。
ロメリィは人の善意を疑わないところがある。そもそも悪意を理解していないことが多い。それはきっと、オーガという種族が正直者の集まりだったからなのだろう。嘘を吐かない、人をたばからない、誰かを貶めようとしない、誠実で正直なのが当たり前。そうでなければロメリィがこのような性格に育つはずがない。
リヒトに対して何の疑心も持っていない、そんなロメリィの行動にちょっとした罪悪感を抱きながら、最初の旅は終わりを迎えようとしている。
「リヒト、もうすぐ到着だ。長旅だったが疲れていないか?」
「……ああ、直射日光でも浴び続けた気分だよ」
「確かにそちらの席は夕日が強く差し込んでいたからな。大丈夫か?」
日の光よりもはるかに眩しい相手と馬車の中で向かい合って殆ど一日を過ごしていたのだ。その相手がしかも、それはもう楽しそうに輝く笑顔を浮かべているものだから目がつぶれそうだっただけで、体の疲労はそこまでない。
さすが王族の用意した馬車なだけあって、揺れは殆どなく宿だってリヒトにすれば高級な場所だったのだから、体は元気だ。疲れているのは“良すぎて”ついていけない心の方である。
その後しばらくして馬車が止まる。外に出れば、眼前には急勾配で整備されていない坂道、というか山の入り口があった。ようやく目的のホロニャ山の麓まできたのだ。
「ようやくついたな。ここまでの運転、感謝する。また二週間後にこの場所で」
「……あいよ」
馬車は二週間後に再び迎えにくるのでそれまではお別れだ。ずっと無口だった御者がロメリィの言葉に応えている間に内装にのみ施してある幻覚魔法を解き、その後走り出した馬車を見送る。
この旅の間にロメリィの乗車の限界も分かった。乗り込む時だけ幻覚で猪車にすれば、そのあと中まで幻覚を解いても問題ない。しかし居心地の悪さは感じるので内装は獣風である方が気楽ではある。……まだ、外見がそのままの馬車に乗るのは難しいようだった。普通の馬車に乗れるようになるまで付き合うと約束したので、それまではリヒトが彼女と馬車に同乗する機会も多いだろう。
(さて、これからこの山を登る訳か……ほんとに人気がないな)
この辺りで人間が住んでいるのはここから反対側の山の麓の村くらいのものであったが、それもこの山にオーガの集落があると知られたことで、村人たちは疎開してしまい無人となっている。
まったく人気のない場所でロメリィと二人、山を見上げて立つ。激しい山おろしの風に吹かれたが、不安はそこまでなかった。オーガというモンスターに対する恐怖や疑心を全く持っていないからだろう。道中ロメリィはさんざんオーガの村でのことを語ってくれたし、ロメリィの人柄もあって会ったこともないモンスターたちへ謎の信頼感があるくらいだ。
「じゃあ、ロメリィ。さっそくのぼ……ッ!?」
視線を向けると何故かロメリィが服を緩めて今にも脱ぎだそうとしていた。顔に集まる熱を自覚しながら慌てて背を向け、その光景を見ないようにする。
外出用で、使用人の手伝いがなくても着替えられる服というものをロメリィは着ていた。普段は使用人に着せられなければならないが、これはどこでも自分で着替えられるので楽だと言って。だからといってこんなところで着替え始めるのは絶対に良くない。
「ああ、ちょっと待ってくれ。今、オーガの衣装に着替えるから」
「そういうのは……! 一言声かけるか! 見えないところでするものだ……!」
「大丈夫だ。中に着ているので裸になることもないぞ。ほら、もう着替え終わった」
どうやら貴族の服の中にオーガの服を着ていたらしい。それならそうと最初から言ってほしいものだ。一体何事かと本気で慌ててしまった。
そう思いながら振り返ると――胸と腰のあたりしか隠れていないロメリィがいた。リヒトは再び体ごと彼女から目を背けた。
「……待ってくれロメリィ……オーガの衣装ってそれなのか」
「そうだ。村の中では皆こうだぞ。男はこの上の布もない」
「………………そうか」
ならば二週間、ロメリィはこのままということだ。せめて筋肉隆々で女性らしい滑らかな線が感じられないくらい逞しければまだよかったのに、ロメリィの体は女性らしさの塊である。何故筋肉が余計に盛り上がらないのか不思議でならない。
「ロメリィの筋肉はどこに行ったんだ……」
「うむ、私は筋肉が表面に出ないらしいのだ。おそらく皮膚の内側が硬いんだろうな」
「……そういう問題なのか……?」
色々と諦めながらロメリィと向き合うが、やはり気恥ずかしくてまともに見られたものではない。すぐに山へと視線を向け、出来るだけ彼女が目に入らないようにする。
「……どうやって登るかな。魔法で浮いて進むにしても、ロメリィからすれば遅いだろうし。早く帰りたいだろ」
「そうだな……よし、ならリヒトは地面から浮いていてくれ。私が手を引いていこう」
「……え」
――それからいくつかの提案をしたが、結局リヒトが魔法で浮いたところをロメリィが手を引いて案内するというのが一番良いという話になった。彼女は「抱きかかえて走れば一番早い」と言っていたがそれだけは断固拒否して、こうなったのである。
(いやでも手……! っていうか体温高いなロメリィ……!)
押し込めたとはいえリヒトはロメリィにただならぬ感情を持っている。その感情を捨てられないからこそ、手の平に触れる感覚に落ち着かなくなるのも致し方ないことである。
リヒトの身体はとても熱くなっているはずだが、それよりもなおロメリィの手の温度の方が高い。彼女はオーガ村に居た時に大剣を得意な武器としていたと言っていたのに、やはり手の平は柔らかくて貴婦人のようだった。リヒトの硬くてささくれだった手が傷付けないか、痛くないのかと心配になる程である。
(いやロメリィは頑丈すぎて、傷一つつかないからこの手なんだろうな……それにしてもほんとはや……目が回りそう)
振り落とされないよう小さな手をしっかりと握り、彼女の歩みに合わせて上下するはずみで舌を噛まぬよう硬く唇を閉じている。とんでもない速度で風が吹き抜け、景色が流れていくので殆ど目の前の金色の髪くらいしか見えない。
その時間がどれくらい続いたのか分からないが、色々と必死だったのであっという間だったような気もするし、酷く長かったような気もする。
「さあ、ついたぞ。リヒト、あそこが私の村だ」
「……ああ……やっとついたのか……」
手を離されて魔法を解いたリヒトは地面に手を着いていつのまにか乱れた呼吸を整えていたが、声を掛けられて顔を上げた。そこには木で出来た柵に囲まれた、村があった。木々を切り開き、整地された土地に木で出来た家がいくつも建っている。人間の村と大して変わらない。
歩いているのが人間よりも随分と背の高いオーガで、彼らの大きさに合わせて建物も大きめだというくらいだ。
「ロメリィじゃないか! お帰り!」
その辺りを歩いていたオーガの一人が話しかけてきた。ロメリィと同じような服装の、顔に皺のある女性のオーガだ。しかし筋肉質で腹筋までしっかりと割れていてリヒトとは比べ物にならない鍛え抜かれた頑丈そうな体をしている。思わず最近ようやく腹筋らしきものが見えてくるようになったばかりの自分の腹を押さえた。
女性でこれなら、男性は一体どれだけ逞しい体なのか。……そしてロメリィはそれでも自分より弱いと言っている。彼女は一体どれだけ力強いのだろう。
「ああ、今帰った。この前言った通り、友人を連れてきたぞ」
「その子が噂の……ああなんてよく練られた気だろうね。とっても綺麗じゃないか。さあ早く家に連れていきなよ、
オーガは魔力のことを気、もしくは気功と呼ぶことは聞いていたが、まさか一目見てにっこりと笑いかけられ褒められるとは思っていなかったので少々面食らう。
そして今、彼女は「家で長が待っている」と言ったのだけれど、この集落のオーガ達の長がわざわざロメリィの家で自分たちの到着を待っているということだろうか。
「そうだな、まずは親父殿に挨拶だ。行こう、リヒト」
「……つかぬことを聞くがロメリィ。長っていうのは……」
「私を育ててくれたオーガのことだ。私にとっては父親だな」
オーガの長でロメリィの父親。……リヒトは急にとてつもない緊張に襲われながら、ロメリィと共に彼女の育った家へと向かった。
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