第11話 世界にたった一人の公爵令嬢
「おっと。……何を惚けているんだ、リヒト。ほら落としたぞ」
目の前の光景を上手く飲み込めず、力が抜けて手から零れ落ちていった料理をロメリィが素早くつかんだ。おかげで地面に落とすことはなかったが、今の機敏な動きはどう考えても高貴な令嬢のものではない。……いや、そもそも言葉遣いも所作も令嬢とは思えぬものなのだが。
「君の体は細いからな、しっかり食べた方がいい」
そう言いながら何の苦労も知らなさそうな柔らかく白い手でリヒトの手に触れ、落とした料理を再び持たせる。ふわりと漂う花のような香りも、そのささくれ一つない綺麗な指先も貴族らしいものなのに、今の彼女は容姿以外のすべてが貴人ではない。あまりにもちぐはぐなせいか、ロメリィの手が触れた瞬間から心臓がおかしな音を立てている。
「え、あ、いや……ロメリィ、急にどうしたんだ……?」
「どうしたって、平民にマナーは必要ないと君が言ったんだろう。……私は人間の中で暮らすようになって日が浅いのでな。マナーを着るのはそれなりに疲れるのだ」
何を言われているのか一瞬理解できなかった。そして彼女の噂を思い出し、まさかと思いながら尋ねてみる。
「……じゃあ、オーガに育てられたっていうのは……」
「事実だ。私は十年間、オーガに育てられて暮らしていた。この国には三か月ほど前に来たばかりでな。……君は誤解をしているようだったから、話さねばと思っていた。理解してもらえただろうか?」
理解した。今の彼女は貴婦人らしい恰好をしているだけで、その雰囲気は武術家のそれである。確かに元から妙な迫力のある人ではあったが、あれでもかなり抑えていたのだろう。今とは比べ物にならない。知能も戦闘力も高いとされるオーガの中で育ったという言葉には説得力があった。
(ああでも、こっちが本来のロメリィなんだな。……目が離せなくなりそうだ)
圧倒的な存在感とでも表現するべきなのか、そこに居るだけで目を引き寄せられるような不思議な力がある。貴族として振舞っている間も目を引く人ではあったが今はそれ以上だ。
おそらくこれは、彼女だけが持つ特別な雰囲気だ。この世界でオーガに育てられた貴族令嬢なんて、唯一無二だろうから。
「分かったよ、ロメリィ。……あんたは本当に、特殊な身の上なんだな」
「そうだな。だから私は人間たちの価値観がいまいち理解できんし、貴族と平民の民族的な違いも分からん」
「民族的な違い……」
どうやら平民と貴族を民族が違うものとして捉えているらしい。彼女の今までの言動を思い出して納得する。ロメリィには本当に、貴族も平民も同じ人間に見えるのだろう。
「貴族と平民は民族じゃない。……身分が違うんだ」
「身分?」
「えーと……貴族は尊い存在で、平民は貴族に管理されるものみたいな……牧場主と家畜に似てる」
不思議そうに首をかしげているロメリィに言葉を重ねて説明するが、彼女にはやはり分からないらしい。いや、どういう仕組みなのかは理解したが、感情的には納得していないという感じだ。
「どちらにせよ人間でしかない。文化に違いがあるという程度の差にしか見えん」
「でも貴族は金があるからとても綺麗に整えてて、平民とは違って見えると思うんだけど」
「私には君が綺麗に見える」
どっと血が沸いたような感覚に、手の中の料理を握りつぶしそうになった。生地に包まれた具材が零れないように慌てて口に運んで飲み込む。……何故か味がよく分からない。
(綺麗ってなんだよ……吃驚した)
ロメリィの目には一体、リヒトがどのように映っているのだろう。食事も睡眠も不規則で、不健康な生活を送っていたから貧相な体つきをしている。貴族の前に出るのだからと全身を洗うことは義務付けられているが、髪は伸びて目元が隠れるくらいだ。ぎりぎり不潔ではない程度で絶対に綺麗ではない。
「だからリヒト、私のことが嫌いではないなら一緒に居てくれ。私は君のことを知りたいんだ」
嫌いなはずがない。ロメリィを嫌いになる要素など何一つないのだから。一緒にいてほしいと望まれて、喜ばないはずもない。……けれど本当にいいのだろうかと思う気持ちもある。
「……ロメリィが貴族社会に馴染みたいなら、俺の存在は足枷にしかならない。それでも、いいのか……?」
「いい。私は貴族の生まれなだけで、貴族であることにこだわりはない。むしろオーガの同胞であることを誇りに思うので、それを侮辱に使おうとする貴族に馴染むことは一生なさそうだからな」
オーガに育てられた貴族の令嬢。彼女の居場所はどうやら貴族の世界どころか人間の世界でもないらしい。オーガたちの元へ帰れば同胞として大事にされるのだろうけれど、この人間の国ではただ一人の――仲間などいない、たった一人ぼっちの世界に生きる人だ。
(……ある意味、俺と同じなんだな……でも、帰る場所があるならよかった)
リヒトには帰る場所がない。魔力が発現して父親の書斎には入れてもらえなくなったから、読んだ魔導書の記憶を頼りに必死に魔法を練習して、また親に興味を持ってもらおうと必死になって、魔力がなくなる度に死にたくなるような苦しみを覚えても耐えた。それでも両親が、昔のようにリヒトを見ることはなかった。
そして学園への迎えが来た日。その日にリヒトは、魔力が発現して以来初めて両親の喜ぶ顔を見た。どうやら家も遠くに引っ越して、化け物を産んだ家というレッテルとリヒトの存在を捨てて、新しい生活を始めるらしいということだけは会話の断片から理解できた。
今は学園の寮に住んでいるが、外に出て実家を探してももぬけの殻なのだろう。名実ともにリヒトの帰る場所はなくなった。
しかし自分とは違って、彼女には寄る辺があるのだ。同じ世界に住む人間は誰も居なくても、寄り添う存在は持っている。だからきっとこんなにも、キラキラと強く輝いていられるのだろう。
「リヒトも貴族たちの中では生きづらそうに見える。卒業したらオーガの村に来ないか? 君のその強さならみな喜んで迎えてくれるだろうしな」
「はは……考えとくよ」
リヒトはひ弱だ。健康的な生活とは縁遠かったから、かなり不健康である。このひ弱な体を見ても屈強なオーガ達は強さなど感じないだろう。だからこれは、ロメリィの冗談なのだ。
話しているうちに彼女もリヒトが周囲からどのような扱いをされているかを理解して、元気づけようと気遣ってくれたに違いない。……ロメリィは、強くて優しいから。
(冗談でも嬉しいものなんだな。……一緒に来ないかって、誘われるの。無理だと分かってるけど)
平民の魔力持ちは学園を卒業したら貴族の持ち物になる。どこかの貴族に飼われるか、宮廷魔導士という名で縛られ戦争の気配のある国境へ送られるか、あるいは国のために魔力を捧げ続けることになるか。ロメリィはそれを知らないからそんな冗談を言ってくれたのだろうけれど、明るい気持ちになって久々に笑い声が出た。
(想像するくらい許されるよな。ロメリィとオーガの集落に……人間が居ない場所に、行くんだ)
人の目を一切気にしなくていい。ロメリィを見ていればオーガがどのような種族なのか、想像できる。きっと彼女のように強くて、強いからこそ優しい。そこであればリヒトは――人間として生きられるのかもしれない。……夢でしかないとわきまえているなら、希望にあふれた夢を見るくらい許されるだろう。
「……初めて笑ったな」
「ああ……うん。そうだな、久しぶりに楽しくて」
「そうか。君は笑った方がいいな。それに少し、目に光が戻った」
ロメリィが嬉しそうに笑った。微笑みではなく、はっきりと笑顔を見せた。それが日差しよりもまぶしくて、つい、目を細める。
(俺……あんたにだったら、使いつぶされてもいいのに)
そうであれば満足して死ねるだろう。どうせ貴族に命をささげることになるのなら、その相手は彼女がいい。
ロメリィはジリアーズ公爵令嬢で、高位貴族だ。魔導士を所有できる立場にある。しかし彼女は、学園を卒業したらきっと。オーガの世界に帰るつもりなのだ。
彼女と過ごせるのはおそらくこの一年だけ。ならばこの時間を胸に刻んで、その思い出に縋って生きていこうと決めた。
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