第10話 意志の強い公爵令嬢
リヒトは人気のない場所を探して学園の中を歩き、やがで目立たぬ場所にぽつりと建つ図書館へとたどり着いた。中に入ってみても人がいない。魔法で管理されているのだろう。
(ここなら静かに過ごせそうだな……)
古語で書かれた魔導書を手に取り、読んだことのない物であることを確認して窓際のテーブルまで持っていく。
平民で古語が読める者はほぼいない。貴族でも余程の教養がない限り読めないだろう。それなのにリヒトがこれを読めるのは、幼少期の知識が役に立っているからだ。
魔法が発現するまではリヒトも普通に親に愛される子供――いや、神童ともてはやされる子供だった。古語を研究する父親の書斎に出入りして、六歳になる頃には古語が読めるようになっていたからだ。優秀だと将来を期待され、周囲から愛されていた。友人もたくさんいた。それが魔力の発現と共に、全て反転してしまったのである。
平民の世界にリヒトの居場所はない。かといって貴族でもないのだから、そちらに交じれる訳でもない。
『公爵令嬢と平民が並ぶことが周囲にどのような印象を与えるか、考えろ。君といるとロメリィ嬢が侮られると分からないか? ただでさえ彼女は特殊な身の上なんだ。分をわきまえたまえ』
先ほどドロマリアの第三王子に話しかけられ、そう忠告された。その言葉は何も間違っていない。本来なら、ロメリィに何を言われてもリヒトが身を引くべきだった。
(久々に……人として扱われて嬉しかったからっていうのは、理由にならない)
ロメリィはオーガに育てられたなどという、とんでもない噂を立てられている。しかしあれだけ気品にあふれた人がモンスターに育てられたはずがない。ただこの国の貴族とは随分違うので、やはり異国の貴人に育てられていたのではないかと思う。
(たとえばバルナムーンなんかは王族と平民が語り合うような、陽気な国だっていうし……ドロマリアはバルナムーンを蛮族だって蔑むから、ありえそうだ)
最初から住む世界が違う人間だ。ロメリィが居るべきなのは貴族の世界で、リヒトの住む世界には誰もない。
平民には魔力持ちの化け物と恐れられ、貴族には平民の癖に魔力を持って分不相応だと蔑まれる。そんなリヒトがあのように酷い噂を立てられているロメリィの傍にいれば、貴族たちは「やはりオーガに育てられたから常識を知らず平民を連れているのだ」と囁くだろう。それが事実であるかは関係なく。
(なら俺は、ロメリィから離れなきゃな。あの人の迷惑には……なれない)
ほんの少しの間だけ、夢を見たようなもの。人間として扱われたのが嬉しかった。交わした言葉の数は少なくても、人間的に好ましい人だと思う。だからこそ彼女の足を引っ張る存在にはなりたくない。
……いや、本当は。本音を言えば、それでも傍に居させてほしいと縋りたい。もしかしたら唯一、リヒトを人間として扱ってくれるかもしれない人だから。でもそれを抑えられる理性を、自分は持っている。
(駄目だな、本の内容が頭に入らない。今の状態で読書は無理か。……昼飯、は……)
まるで心配するように、食事を摂るようにと注意をしてくれた桃色の瞳の彼女を思い出しながらふと窓の外を見遣ったら、特徴的な桃色の瞳と目が合った。
「は……?」
瞬きをしたら消えてしまったが、今一瞬、窓の外に見える大木の太い枝にロメリィが居たように見えた。彼女のことを考えすぎて幻覚でも見たのだろうか。
一応、確認のために窓を覗き込んで地面まで確認したが目立つはずの金色の髪は見えない。やっぱり幻覚だったらしい。さすがにこれは酷い症状だ。
(ちょっと休んだ方がいいな。鐘が鳴るまでどこかで昼寝でもしよう)
本を元の位置に戻して図書館を出る。すると今度は目の前にロメリィが立っていて、二度目の幻覚に固まった。だが、今度のロメリィは瞬きをしても消えることはない。
「リヒト、探しましてよ。食堂にも来ていないから昼食を食べていないのでしょう? 用意して頂いたから、こちらを召し上がって」
淑女の微笑みを浮かべ、高貴な姿に似合わぬバスケットを持ち上げる。所作は美しいのに、自分でこうして誰かに届け物をしようとするところがなんとも貴族らしくない。
彼女はリヒトを思ってわざわざ昼食を届けに来てくれたのだ。それが嬉しくてたまらない、喜んでしまう。けれど喜んではいけないのだ。
「……俺と一緒にいたらロメリィに迷惑がかかる。俺のことは放っておいてくれ」
本心でない言葉を口にすると胸が痛くて苦しくなる。本当は礼を言いたい。けれど生きる世界が違いすぎる。彼女は貴族として生きていくのだから、平民の存在は決して傍にあるべきではないのだと自分に言い聞かせて俯いた。
「迷惑かどうかは私の心が決めることではなくて? 私、一度も貴方を迷惑だなんて思っていないわ」
「……ロメリィは知らないかもしれないけど、平民の俺と一緒に居たらロメリィは他の貴族たちに悪く言われるんだ。貴族は名誉社会なんだから、そういうのは致命的に……」
「そんなことはどうでもよろしくてよ」
名誉を傷付けられる流言がどうでもいいと言い切ったことに驚いて顔を上げる。相変わらず、彼女の独特の瞳は真っ直ぐ射抜くようにリヒトを見つめていた。
本当に、彼女は迷惑だなんて微塵も思っていないのだろう。悪評も何もかも、気にならないのだろう。輝く桃色の瞳には強い意志が宿っている。リヒトがどれほど本心にない言葉を並べても、彼女を納得させることはできなさそうだった。
「さあ、昼食を摂ってくださるかしら。私が監督いたしますわ」
「……分かったよ、ロメリィ」
喜んではいけないはずなのに、喜んでしまう。迷惑になると分かっているのに喜ぶなんてと自責しながらも、ロメリィの言葉に従って彼女と歩いてしまう。
今の彼女の望みはリヒトと離れることではないのだ。リヒトが離れようとしても追いかけてきてしまうのだろう。伸ばされた手を二度も振り払えるほど、強くはなかった。
ならば、せめて彼女が離れることを望んだ時は速やかに距離を置こうと決意する。……今以上に、離れがたくなるだろうけれど。
「……ごめんな。ありがとう」
不利になると分かっていて離れられなくてごめん。探しに来てくれてありがとう。そんな思いを込めた小さなリヒトのつぶやきを聞き取ったらしいロメリィが、嬉しそうに微笑む。その美しい表情に、不自然に心臓が動いた気がした。
ロメリィに連れられて歩くと図書館の裏に東屋があった。屋根の下にテーブルと椅子まで設置されているので、天気のいい日なら外でも読書を楽しめるようにという配慮なのかもしれない。
「よくこんなところ見つけたな……」
「ええ、先程偶然目に入ったの。それよりもリヒト、早く食事にするべきよ。昼休憩の時間が終わってしまうわ」
彼女は手際よくテーブルにバスケットの中身を広げ、リヒトに食事を勧めてくる。平民の食事の準備を貴族の令嬢がやっているという現実感のない光景に、もしかして自分は夢でも見ているのではないかと思い始めた。
「俺、マナーなんて知らないけどほんとに見てるつもりなのか……? 不快になるんじゃ?」
「監督すると言ったでしょう。……ところで気になってはいたのだけれど、平民には本当にマナーが必要ないのかしら?」
「マナーは貴族のものだから、平民には関係ない」
そんなことも知らないのかと驚きながら手づかみで食べられるように作られた軽食に手を伸ばす。雑多な具材を生地に包んで焼いたものだ。おそらくこれは、この学園で作られる食事の中で最も安くて手間の少ない料理なのだろうが、それでも平民からすればご馳走と言える。
ロメリィは広げた扇の奥で悩むように一度視線を下げ、そして決心したように扇を閉じる。そのまま扇をテーブルへと置いたのだが、何故か見た目からは想像できないような重たそうな音がした。
「よし、ならば君の前でマナーを着る必要はないということだな」
「……は……?」
高貴な血筋であるはずの公爵令嬢から随分と古めかしい口調が飛び出してきて固まった。先程まで気品しか感じられなかった姿勢もいまは崩され、腕を組みながら背もたれに体を預けている。
先程までは確かに気品にあふれる貴婦人だった。それが今や、武人のような気迫をみなぎらせている。同じ容姿で同じ服を着ているのに、あまりにも別人だ。……一体全体何があった。
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