分身 -antiquities-
福山直木
一部 目覚めと自覚
1-1
眠りから覚めるようにまぶたをひらく。
肌に当たる風が生ぬるい。
寝ぼけ
すると、突然、何かが頬を撫でる。
指で摘まむと、それはさらさらとした黒髪だった。
えっ…なにこれ…
普通はそれを自分の髪と認識するのだが。
自分にはこんな長い髪は……。
はっ、まさか…おばけ!?
素早く上を見るが、新緑の緑と枝葉から射し込む木漏れ日が目に飛び込んでくるだけだった。
なんだ……自分の髪か……。
そう胸を撫で下ろした数秒後、その違和感に気付く。
自分の髪!?
驚いてくしゃくしゃと髪を触りながら、辺りも見渡す。
そこは草原だ。
どこまでも続く原っぱだ。
どこ!?
焦って立ち上がろうとするが、足がもつれてその場でバタンと派手に倒れた。
なんだか自分の体ではないような感覚だ。
あぁ、これは夢か…
と納得し、元の体勢に戻る。
木に寄り掛かっていると、ゴツゴツしたものが当たっている。
その肌感覚は私が知っているものとは異なり、やけに痛く感じられた。
ん?夢じゃない…?
今まで眠っていたから、感覚が鈍かっただけなのか…。
冷静に今の状況を再確認してみる。
視界の隅から見えてくるのは、長い黒髪と華奢な足や腕。色白で透き通るようだ。
私は私……そう認識するが、違和感がある。
ふと視線を遠くに移すと、すぐそばに黄土色の土が敷かれた道があり、馬車や荷物を持つ村人たちがゆったりとした速度で行き交っている様子が見える。
平凡な景色。
見慣れているはずなのに、初めてそれに触れるみたいに新鮮で、私の目には色鮮やかに映った。
ここで何をしていたんだっけ……
考えても考えても、何も思い出せそうにはなかった。
そんなことはあり得ないはずなのに、どこかそれが当たり前のことにも思えて、なんとも不思議な感覚に思わず首を傾げてしまった。
とにもかくにも…。
そう思った私は華奢な手を支えにしながら立ち上がる。
二度寝でもしてやろうかと思うほどの気だるさを振り払い、ゆっくりと深呼吸をする。
んっ、んーっ……と両腕を真上に伸ばして
自然と発せられたその声は綺麗で可愛らしかった。
間違いなく自分のもののはずだが、引っ掛かるものを感じる。
身体を動かすと、とても軽く、なめらかに動く。
私が知っている自分の体はもっと重くて、鈍かったはず…だと思うのだが、
それは自分ではない他の人のことだったかもしれないし、さっき見ていたであろう夢の中の話かもしれない。
色々考えていると視線を感じる。
キョロキョロと周りを見ると、道から一人の少女が不思議そうに見つめている。
私の格好がおかしいのか、それとも動作か。よくわからないが、少女の視線は私に釘付けだ。
互いが互いを見ているということは、必然的に目が合うということになる。
不意に目が合って、気まずかったのか、「はっ」と実際に声に出し、文字通りはっとした彼女。
そして、なにも見ていなかったかのように足早にその場を立ち去ってしまった。
彼女が進む先を見てみると街のようなものがあることに気づいた。
周囲は草原が広がるばかり。建物はそこにしかない。
そこで初めて、自分が存在している世界を認識する。
青々とした山やゴツゴツした岩山に囲まれている。それを見渡せるほどに遠くまで、ほとんど手つかずの自然が広がっている。
これだけ確認すれば、目的の一つくらいは思い出しそうなのに。
なにも…思い出せない…
どこ…なの…
あまりに見覚えの無い景色に、急に不安になる。
きっと私を知っている人がいるはずだ。まずはその人に会わなければ…。
まず、どうしたら……
焦りを感じた私は咄嗟に持ち物を探るが、驚くほど何も持っていない。所持金すらも持っていないようだ。
自分の正体を知るための手がかりになりそうな物はない。
かといって、近くに知人がいるような雰囲気もない。
お金もないとなれば、出来ることは限られてくる。
どうしたらいいんだろう……
自分の姿は見えないものの、自分の着ているものや手足の肌の見た目からして、若い少女らしいが、路頭に迷う子供には見えそうにない。
道行く人々は誰も、挙動不審な私に気にも留めない。おそらく私のことを知っている人は居ないのだろう。
右も左も分からない私だが、少なくともこのまま夜を迎えたくはないと思った。
となると屋根のある場所に行きたい。
頼りになるのは目の前にある街だけ。
あそこなら私を知っている人もいるかもしれない…。
私はためらうことなく歩き始める。
身なりが綺麗で路頭に迷う子供のようには見えない。この街の人間なのだろうか……。
そんなことを考えながら街の入口までたどり着く。
「ここどこ…?」
街に入り、開口一番出た言葉である。
その声は妙に可愛らしく聞こえた。十五六の多感な少女。なぜかそんな感じがした。
「どうしたんだい?嬢ちゃん、そこに立ってると邪魔だぞ」
振り返るとそこには若い青年が立っている。
馬を連れていて、その馬が引く車には多くの荷物が積まれている。
「えっ、あっ、ごめんなさい」
と反射的に道を譲る。
「待ち人なら集会所で待ちなよ。盗賊たちは街中でも平気で人さらいする。この街は奴らの
忠告に頷き、私は宛もなく歩き始める。
集会所?
盗賊?
浮浪者?
知らない単語がたくさん出てくるのだが、自然とイメージできてしまう自分がいた。
私が歩く道はメインストリートのようだ。
「どうですかー!」
「そこの兄さん、見ていかないかい?」
「美味しいパン、あっりまっすよ~!食べていきませんか~!!」
通りに沿って、ところ狭しと店が並ぶ。店といっても大半は建物を持たず、家屋の軒先に敷物を敷いて、そこに無造作に商品を並べただけの簡易的なもの。
か細い木の棒と薄い板で屋根をこさえてはいるが、日除けくらいにしかならないだろう。
とはいえ、とても活気がある。人も多いため、辺境というわけでは無さそうだ。
少なくともここに居れば、人さらいの危険は無さそうだ。
それどころか、何の違和感も持たれず、街に溶け込んでいる。
ただ、私には行く宛が無く、何も持っていないから、ろくに買い物もできない。
怪しまれるのは時間の問題だ。
目立たないようにと思った矢先、話しかけられてしまった。
「ん?そこの嬢ちゃん、見かけない顔だな」
その人はいかつい見た目通り、売り物もいかつい。
刃の反対側にもギザギザが付けられた短剣や、大人の背丈くらいありそうな大剣に槍。そして、一見しただけでは使い方がわからないものもある。
見とれてしまっていたようで、
「武器に興味あんのか?」なんて訊かれてしまった。
「あっ、いえ!何でもないですっ」
「そうか…しかし、この辺りの子供は全員知ってるんだが、嬢ちゃんは見たことが無い。どっから来た?」
「それは…その…」
「家出か?それとも、最近話題の浮浪者か?」
「…その、浮浪者とは、どんな人なんですか?」
「知らないのか?自分が誰かさえわからないような人間が最近、どこからともなく現れるようになった。人によっては言葉さえ通じないらしい」
「そうなんですか…」
「まさか、嬢ちゃんも…」
「い、いえ!違います。あっ、行かなきゃいけないところがあるので…」と言って、私はその場から離れた。
急いで路地に入り、くねくねとした道を思い付くまま走る。
私は彼の言う浮浪者の一人なのだろうか?
そう思うと急に不安になってきた。
そろそろ、大丈夫か……。
振り替えるが、彼が追ってくるような姿は見えず一安心…と我に返った時だった。
あれ……ここ……どこ……?
逃げるようにして来てしまったから、通りを逸れ、路地に迷い込んでしまった。背の高い建物の間を縫うように路地が広がっていて方角も分からない。
石造りの頑丈そうな建物がいくつも並ぶというのに驚くほど生活感が感じられず、無気味だった。
路地の隅に無造作に置かれた木箱はほこり被ったようなものもある。
考えたくはないのだが、不吉な予感が頭をよぎる。
盗賊……
人さらい…
先ほどの青年の言葉が不安を煽る。
よく考えれば、そんなよからぬ人々が居着いてそうな雰囲気である。
薄暗く、
たまにすれ違う人間は顔を合わせないようにしていて、どこか怪しげな雰囲気がある。
面倒なことになる前に出ようと小走りで離れようとした矢先だった。
「ねぇ、君」
突然後ろから話しかけられる。
「えっ、私…?」
一応、確認してみる。
しかし、周りには誰も居ない。
そんなこと気にもせず、私と同世代くらいの子は話を続ける。
「君って、例の
まるで気の知れた人間に語りかけるように尋ねてくる。
「迷い人?」
「そう。浮浪者とも言うね。この世界に迷い込んだ、この世界の住人ではない誰か…」
心当たりしかないが、これはおそらく厄介事に巻き込まれるだろうと思った。
「人違いですっ。私はこの世界の人ですっ」
「ふーん。まぁ、いいや」
と、私の言葉など聞く耳を持たず。
「とりあえず、僕に着いてきてよ。迷子なんでしょ?」
と手を差しのべられ、捕まれそうになる。
それを聞いて、「ふふふ…」と不気味に笑う。
「じゃ、君って盗賊団の人?」
「へ?」
予想外の言葉に拍子抜けする。
「だって、この辺はずっと昔から盗賊団の縄張りなんだよ~。村人はみんな知ってる。だから、誰もここには近づかない。警備兵でさえも。ここに用事があるのって、盗賊団員しか居ないんだよねぇ~」と知りたくない情報を丁寧に教えてくれる。
「し、知らずに迷い込んだんだよっ」とダメ元で言ってみる。
「え~君って、文字読めないの?書いてあるのに」
失笑しながら、指し示すのは張り紙。
「この辺り、悪党あり、すぐ立ち去れ」
「盗賊団による窃盗、誘拐に注意」
「騎士団より通告。これより先、監視警戒区域につき、市民の立ち入りを禁ずる」
などなど、見るからに危ない張り紙のオンパレードだ。
先ほどは何を書いてあるのか分からなかったというのに、今は読めてしまう。
幻覚か何かを見せられてているのだろうか?
「ちょっと急いでて、見えなかっただけよっ。早く行かなきゃいけないから、それじゃ!」
隙を見て逃げようとした矢先に、男が物陰から出てきてぶつかってしまう。
「ごめんなさ――」と謝ろうとするが、どう見ても先程の人間の仲間で。
「嬢ちゃん、新入りかぁ?こりゃ、挨拶しねぇとなぁ…」
不適な笑みを浮かべながら、覗き込んだかと思いきや、すぐさま首から掛けた笛を手にする。
「な、仲間なんかになりたく――」
ピュュー!ピュュー!ピュュー!
私の言葉など聞く耳を持たず、彼は笛を三回鳴らす。
それを合図にぞろぞろと柄の悪い人たちが出てきて、瞬く間に逃げ道を塞がれてしまった。
数人ではない。十数人が連なるように立ちふさがってしまっている。逃げるのは不可能だ。
「へへ、嬢ちゃん可愛いじゃねぇか。お洋服も立派だ。こりゃ、良いとこの女だぜ」
「なんか持ってるかもな~。剥いてやろうぜ~」
なんとも下衆な会話に、嫌悪感で体が震え始める。
「なにこの人たち…」
「言ったでしょ?縄張りだって」と先程の少年が勝利を確信したように晴れやかな顔をして言うのだった。
逃げたいのに逃げられない。
こんなやつ、どうってことない…なのに…
私の心は揺らいでいる。
反抗心を抱いている一方で、弱気な心が支配する。
なぜ、反抗心を抱くのか。
それなのになぜ、何もできずにいるのか。
そのわからないが、私がこの世界の人間ではないことの証明なのかもしれない。
そもそも、ここがどこなのかも、自分が誰なのかも、未だに思い出せない。
下手に動いて、話をややこしくするようなことはしたくないが、このまま言いなりになるのは御免だ。
どうしたら……
そうこうしている間に、両脇に下っ端を従える、いかにも
「嬢ちゃん、素直に言うこと聞けば、悪いようにはしないさ」
へへと笑いながら言う。
まるで説得力がない。
「嫌っ!」
腕を捕まれそうになるのを振り払って距離を取る。
しかし、引くも進むも盗賊団の人垣が立ちはだかり、私の居場所は徐々に狭められていく。
万事休すか…
そう思っていた時だった。
「そこまでだ!」
勇ましい声は狭い路地に反響した。
そこに居た誰もが、反射的に彼の方を向く。
「なんで、騎士団がこんなところに…」
「やっぱ、あいつただ者じゃねぇってことかもな。この機を逃しちゃいられねぇ」
「やめとけ、相手は騎士団だ。その気になりゃ、組織ごと潰されるぞ」
そんな話し声が聞こえてくる。
ざわめく群衆には目もくれず、鎧を身に纏った男は、組織の頭とみられる人物を見つめている。
「ここで何をしている?そこに居るのはどうみても罪なき市民であろう?」
その言葉に動じず、団員の中でも一際大きな身体をした男が私の肩を掴んだ。
「何言ってんだよ。こいつは俺たちの仲間になるって、今さっき宣言したんだ」と言い放って、なぁ?と圧をかけてくる。
「やめておけ」団員たちはそう彼に語りかけるのだが。
「なぁに、騎士団だろうが数では俺たちが優勢だ」と言って、私を人質に取り、目にも留まらぬ所作で取り出したナイフを私の喉元に当てる。
「ひっ」思わず変な声が出てしまった。
今の自分がいかに無力かを悟る。
「動いたら…分かるよな?」
私にだけ聴こえる声量で脅しをかけてくる。
自分が優位だと悟ると、彼は騎士団の男に向かって意気揚々と話し始める。
「おい!お前!こいつの命が惜しければ、さっさと退く――」
しかし、その言葉は最後まで発せられることはなく途切れた。
その刹那、喉元のナイフが足元に落ちると共に、乾いた金属音が響く。
その瞬間、その空間の時が止まった。
金属音が耳に響くだけで、それ以外の音はぱったりとしなくなった。
ふと周りを見ると、その場の誰もが金属音のした方向……つまり、私のほうを見ていた。
え……?
戸惑いの声を上げた私を、誰もが青白い顔で見つめる。
なぜ?
何が起きたの?
それを確認しようとした瞬間、時が再び動き出す。
その狭い路地は一瞬にして混乱に陥った。
「う、うわぁ…」
腰を抜かしながらも後退りをする者。
「うぁぁぁ!」
我先にと大男を押し退けて逃げていく者。
「どけ!オレが先だ!」
冷静に逃亡を図ろうとする者。
取り巻いていた盗賊団たちが
「え……」
何が起きたのかわからない私がゆっくりと後ろを振り返る。
背後に立っていたはずの大男は、時が止まったかのように絶命していた。
なぜこうなったのか目を凝らしても分からない。
血の一滴も流すことなく、彼は眠るように動かない。
その時、狭い路地に吹き込んだ強い風に煽られる。
私は思わず、なびく髪を手で抑えたが、彼はただ風に吹かれるまま。
すぅっと後ろ向きに傾いたと思ったら、ドサッと大きな音を立てて地面に叩きつけられた。
それを気に留める者はもう居ない。
すっかり人の気配が無くなってしまった路地の真ん中で私は膝をついた。
目の前で繰り広げられた一連の出来事に頭が混乱している。
私が誰で、ここがどこなのか、そして、彼が一体誰なのかも分からない。
「ひっ…うっ…」
恐怖か、安堵か、それとも絶望か、あらゆる感情が渦巻いた私は嗚咽を漏らす。
そんな私を優しく包んだのは、騎士団と呼ばれていた彼の腕だった。
「大丈夫か…怖かっただろ。すまない…私が目を離したばかりに…」
彼は少し動揺した様子だったが、すぐに彼は唇を噛み締めた。
彼の反応の意図を私は知ることができない。なのに、自分も責任のようなものを感じてしまい心が痛くなる。
触れ合うところから伝わる温もりは、彼が自分の味方であることを教えてくれているようだった。
声に、匂いに、温もりに、我が家のような安心感を抱き、私は静かに目を閉じる。
「おいっ!」
焦る彼の声が暗転した世界に響くが、瞬く間に私の意識は遠退いていった。
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