第36話 何者ですか、あなた

「いけないいけない、目先の驚きに捕らわれてしまうところでした」


 ハッとして、安永季あんえいきは髪をぐしゃぐしゃに乱していた手を頭から離した。

 彼のことをよくは知らないが、この短時間で紅林は、安永季が飾らない性格の人間だと理解できた。

 宰相といえば皇帝に次ぐ権力を持っているといわれる重臣じゅうしん。時には皇帝の権力を凌駕りょうがする者もおり、大抵の者は腹に一物いちもつを抱えて感情の起伏が薄いというのに。

 それなのに、彼は実に感情表現が豊かだ。

 きっと皇帝の前でも同じような感じなのだろう。

 腹芸をしなくていい関係性なのがうかがえる。


 ――そりゃ、名を聞かれて咄嗟とっさに彼の名が出るはずよね。


 最初、宰相が自己紹介で名乗った名を聞いて、噴き出しそうになったものだ。のあまりの安直さに。


 ――って、思い出さない!


 思い出しかけた彼との記憶を、紅林は頭を振って急いで追い出す。


「先ほど言ったとおり、この双蛇壺そうだこは特定の使われ方しかしません」

「暗殺ですね」


 そう。紅林が双蛇壺の存在を知っていたのも、見たことがあったからだ。

 母の宮で使用されたのを。

 その時の犯人は、他の妃が送り込んだ女官の仕業だった。いつもと違う女官が酒を持ってきたことに気付いた侍女頭が、毒味をさせようとして自白したため未遂で済んだが。以降、危険物として封印されていたはずなのだが。


「このような物が一般の市に出回るでしょうか。普通に過ごしていて、自ら手にできる代物と思いますか」

「思いませんね」


 きっぱりとした口調で安永季は即答した。


「朱貴妃に渡して、しかも使い方まで教えた者がいる――そう仰りたいのですね、紅林殿は」


 さすが腹芸はなくても一国の宰相。頭の回転の速さに助かる。


「そういえば……朱貴妃の父親がよく彼女を訪ねてきていましたね。彼の店は王都でも屈指のおおだな。手に入れようと思えば、もしかしてこのような道具も……すぐに調べさせ――」

「いやはや、そのような物が存在するなど知りませんでしたよ。口の中を見るなど、思いつきもしませんでした」


 最初に驚いて以降、今まで沈黙を保っていた円仁えんにんが、割り込むようにして口を開いた。


「この件は、不幸中の幸いで被害がでなかったことですし。大げさに調査して、後宮の秩序を乱す必要はないかと思いますが……安宰相」

「後宮では既に、毒が酒に盛られていたことは伝わっているかと思います。四夫人の他に近くにいた侍女など目撃者も多かったですし」

「ですから、下手にこちらが取り上げず、あとはこのまま触らず噂が風化するのを待てば……」


 何か言葉を挟もうとする円仁より早く、安永季は指示で彼の発言を遮る。


「後宮へは混乱を避けるため、もっともらしい理由を流します。ただ、真実は見極めなければなりませんから、調査は水面下で進めますよ。いいですね、円仁殿」


 円仁は、かしこまりましたと腰を折ると、先に部屋から出て行った。

 早足で慌てるように出て行った円仁を見送ると、紅林は安永季に不安げな顔を向ける。


「あの、これで尚食局しょうしょくきょく全体へのお咎めはなくなりましたよね? 彼女達は無関係だったわけですし」


 一瞬、安永季は首を傾げたが、すぐにああ、と手を打った。


「その件ですね。もちろんですよ」


 良かった、と紅林はほっと息を吐く。


「元より陛下はそのような罰の下し方はしませんからね。あの時は何故かムキになっていたようですが」


「まったく、あの方は」と安永季は肩をすくめる。


「あの、今日は陛下は……」


 気にしていた朱貴妃の毒杯の件だ。もしや関玿も来るのではと思っていたが、実際に来たのは宰相のみ。


「陛下もこの件は気にしていましたが、自ら調査に関われるほど、時間のある方ではありませんからね。報告は私からしておきますので、安心してください」


 安心したような、残念なような、変な感じだ。

 彼と関わってはいけない。でも、関わりたくて仕方ない。


 ――自分から拒んでおいて、なんて都合の良いこと……。


 忘れてくれと願いつつ、忘れないでくれと祈っている。

 そんな矛盾した存在になりつつある自分が嫌だった。


「というか、あなたに対する陛下の態度……なんだか距離が近いように思えたんですけど。昨日も牢屋で突然二人きりにしろと言い出すし……そういえば、最近急に狐憑きがどうとかと……陛下と何か関係が?」


 紅林の口端が引きつった。

 しかし、それもほんの一瞬のことで、安永季が気付くことはなかった。


「いいえ。きっと、お優しい陛下のことです。昨日は、私のこの髪が、なるべく他の方々の目に映らないように配慮してくださったのでしょう。一対一の方が緊張せずに話せるだろうと」


 敬意を込めるように胸に手を添え微笑んだ紅林に、安永季は「そうだったんですね」と、それほど深掘りせずに納得してくれた。

 ほっとしたのも束の間、安永季からの視線を感じ確認すれば、彼は眉をしかめてじっと紅林を見ていた。


「あの、何か……」

「陛下も言っていましたが、冶葛やかつを知っていることといい、双蛇壺の知識といい……いったい何者なんですか、あなた」


 安永季の目がスッと細められる。

 剥離した鉄片のような鋭さの視線に、初めて紅林は彼の宰相らしい貫禄をみた。嘘を吐けば、舌ぐらいその鋭さで切り落とされそうな緊張感が漂う。


「ただの宮女ですよ」


 しかし、やはり紅林はそう答えるのであった。




        ◆




「まずいまずいまずいまずいまずいまずい――」


 円仁は神経質そうに親指の爪を噛みながら、早足でとある部屋を目指していた。

 ブツブツと呟きながら到着した部屋の前で、安永季が近くにいないか確認すると、入室に戸を叩くこともなく、素早く内側へと入った。


「まずいですよ、順安じゅんあん殿!」


 戸を後ろ手に閉めるなり、円仁は部屋で待っていた面体めんていの内侍官――順安に向かって叫んだ。


「それでは私にはわけが分からんよ。確か、宮女が朱貴妃の毒杯について話があるってことの呼び出しだったか?」

「そうだ! あの狐憑きが余計なことをしてくれた……クソッタレが! 私達に不幸を運びやがった! 何故、宮女如きが双蛇壺を知っていたんだ!?」


 円仁が激高しているのに対し、順安は向かいの椅子に乱暴に座った円仁を、愉快だとばかりに口端をつり上げて眺めている。


「まあ、落ち着け。何があったか私に一から話してみよ」


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