第34話 やめて、お願い関玿!
足音は一人分しかないというのに、先ほどのバタバタと去って行った足音よりも、遙かに煩く感じる。いや、もしかするとこの音は足音ではなく、自分の心臓の音かもしれない。彼が近づいてくるにつれ、胸が痛いほどに跳ねるのだから。
「……っ陛下」
「違う、紅林。名で呼んでくれ」
「しかし、陛下は
傷ついたように目を
「関玿だ、紅林。関玿と呼んでくれ」
王宮に掲げられている旗の文字は『関』であり、かつての反乱軍大将の名は『関玿』である。
紅林はああ、と強く瞼を閉じた。
彼がそれだとは分かってはいたが、もしかして、と心のどこかでは甘い希望を抱いていたのも否めない。目の前まで来た関玿は、片膝をついて紅林と視線を合わせようとするが、紅林は顔を背けあからさまに拒む。
「騙していて悪かったと思う。だが、決して悪意があったわけではない。名が違うだけで、俺は永季であった俺となんら変わりないつもりだ」
「そんなはず……ありません」
紅林にとっては、衛兵の永季と、皇帝の関玿とでは天と地ほどの差がある。
「あの
「…………っ」
紅林は胸の前でぎゅっと拳を握った。
不意に頬に温かさを感じ、顔を正面へと向ければ、関玿の手が頬を包んでいた。
「もう一寸たりとも、紅林をこのような場所に置いておきたくない。紅林には、花が咲き誇る妃嬪宮で、お前を害そうとする全ての悪意から遠ざけ、暖かな陽射しの下で俺の長袍に刺繍を入れながら、俺が訪ねるのを待つような生活をしてほしいんだ」
それはきっと、後宮の女達全員が憧れてやまない夢のような生活。
しかし、やはりそれは紅林にとって『夢』でしかないのだ。
皇帝の寵は、必ずしも全てから守る盾にはならないということを、紅林は身をもって知っている。
「なあ、紅林。一言……ただ助けてと言うだけでいい。そうすれば、俺はすぐにでも紅林をここから出してやれる」
「そのようなこと、言うわけがありません」
それでは本当に、自分も狐憑きになってしまう。
皇帝の寵を笠に着て、思い通りに全てをねじ曲げた
「罰をお与えください。酒宴を乱したのは
それ以前に、彼は後宮を燃やした張本人なのだ。
恨みこそすれ、頼るはずがない。
ハハッ、と関玿は顔をくしゃっとして笑った。
それは『仕方がないな』と言っているようにも見える表情で、紅林は分かってもらえたかと気を緩めたのだが。
「強いな、紅林は。俺の正体を知っても、そこに
だが、それも一瞬だった。
「あう――っ!!」
肩にかつてないほどの衝撃を受け、紅林はそのまま
倒れた紅林に
「ここで、お前に俺の
空気を震わせるような低い声が、紅林の
赤い瞳に見下ろされ、紅林はゾクリと全身を
最初に出会った時のような冷たさを感じる瞳なのに、その奥には
「俺を拒んで罰をと請うお前には、
色気を
「以前、紅林は宮女も皇帝のものだと言って俺を拒んだが、俺が皇帝なのだから問題はないはずだろう?」
クスと微笑した関玿の指先が、紅林の下腹部を柔らかく押した。
「ふ、ぁ……っ」
ゾワリと背筋を這い上がった未知の感覚に、紅林の口からは、自分でも聞いたことがないような甘ったるい声が漏れる。
思わずカッと顔を熱くする紅林。
「やっ……!? やめ……っ、おやめください、陛下!!」
紅林は関玿の胸を両手で懸命に押し返し抵抗するものの、関玿は意に介した様子もなく、
「俺には、お前を無理矢理にでも妃にできるだけの力がある」
紐の端をゆっくりと引っ張られ、結び目がゆるゆると解かれていく。
「――嫌っ! お願い関玿! やめてっ、そんなことしないで……お願いだから……関玿……っお願い……」
恐怖と緊張と羞恥と仄かな高揚とで感情が追いつかず、紅林の目からは熱い雫があふれて目尻を濡らした。
しゃくりあげながら何度も「お願い」と「やめて」を繰り返す紅林を前に、関玿の手もついには腰紐から離れる。しかし離された手はそのまま拳となって、ドッと紅林の顔の横に落ちた。
「――っどうしてそこまで俺を拒絶するんだ!」
覆い被さり、自分を真上から見下ろしているというのに、彼は今にも泣き出してしまいそうだなと、紅林は思った。
顔の横に置かれた彼の拳は震えている。
「どうしてなんだ、紅林……っ」
切に訴える関玿の声に、紅林は
閉じてもあふれる雫はこめかみを濡らし、白い髪をも湿らせていく。
どうして、ここまで想ってくれるのが彼だったのだろうか。
なぜ、彼とこのような出会い方しかできなかったのだろうか。
――私が狐憑きだから?
不幸を呼ぶと言われる白い髪を持ってしまったからか。
彼が衛兵として後宮に来なければ。
自分が宮女でなければ。
後宮で花など供えなければ。
どれか一つでも欠ければ、彼とは一生言葉を交わすことすらなかったはずだ。なのに、全てが揃ってしまった。
まるで紅林と関玿を出会わせるためのような、綱渡りのような細い
「あなたが……」
紅林は瞼を開け、濡れた瞳で関玿を見つめ返す。
「あなたが、私を殺したからよ」
息を呑む声が聞こえた。
赤い瞳がきゅうと小さくなる。
紅林が胸を押し返すと、関玿の身体は簡単に離れた。上体を起こせば、今度は関玿のほうが離れるように身を引いて立ち上がる。
関玿は困惑の表情で『分からない』と紅林に問いかけていた。
しかし、紅林は答えない。答えられない。
涙で濡れた目で、ただ何も言わず見つめるだけ。
分からなくていい。
知らなくていい。
この身に、彼が絶やさなければならない血が流れていることなど……。
今以上の苦しみを彼に与えたくない。
「この身は法に従います」
紅林が
「どうか……私のことは忘れて……」
錠が下げられた音は、開けられときよりも重々しく、全てから断絶されたように聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます