第33話 皇帝と咎人の宮女

 紅林は酒宴を乱したということで、処罰が決まるまで冷宮の一画にある獄に身を置くこととなった。

 することもなく、が敷かれたの縁に腰掛ける。


「なあ、聞いたかい。新しく獄に入った女……どうやら陛下の不興をかったようだよ」

「この間の侍女は盗みだって聞いたけど、今度の女はどんなのだい?」

「それがさあ、噂じゃ白い髪をしてる女だってさ」

「白い髪!? 狐憑きってことかい……ああ、そりゃあ陛下の不興をかうはずだよ。自分の治世に狐憑きなんか現れたら嫌なもんさ。ましてやそれが後宮にいただなんてね」

「また前の侍女みたいに、気が狂わないといいんだけどねえ」

「ああ……あれは煩かった。ま、狐は洞穴ほらあなに住むっていうし、獄も穴も変わりないさね!」


 あははと、遠くに聞こえる冷宮の下女達の笑いも耳に入らないといった様子で、紅林は牢屋の中で膝を抱えていた。

 嗤われるのには慣れている。だから、気にすることもない。


「ただ……」


 紅林が今気にしていることは、外がどのような状況になっているかだった。

 朱香しゅきょうが紅林に助けを求めた時、彼女は朱貴妃が間違いを犯そうとしていると言った。普通の者ならば、唐突すぎて意味が分からない言葉だろう。しかし、紅林は間違いが何をを瞬時に察することができた。

 朱香が預かった酒壺しゅこが、どういうものかを知っている紅林なら。

 だからこそ朱香は、紅林に助けを求めたのだろうし。


「あの酒壺……朱香は朱貴妃様から預かったって言ってたわ。じゃあ、朱貴妃様はいったいどうやってを手に入れたのかしら」


そう』など。

 あれは普通に生きていて手に入るものではない。

 ましてや、前王朝時代に城下で暮らしていた者が持っているはずがないのだ。

 双蛇壺そうだこ――それはかつての後宮にあり、一切の使用を禁じられ倉に封印されていた酒壺なのだから。

 どうりで見覚えがあったはずだ。かつては乳白色の酒壺だったが、黒く変色していたのは、きっと火に巻かれたのだろう。


「あのあとすぐに牢屋に入れられたもんだから、皆がどうなったのか全然分からないわ。ここの衛兵に聞いても、きっと後宮内部のことなんて分からないでしょうし……」


 何気なく言った言葉だったが、『衛兵』という響きに、紅林の意識は宴殿でのあの瞬間に引き戻される。


「――っだめ!」


 しかし、彼の顔が思い浮かぶよりも早く、紅林は首を振って記憶を追い出した。


「最悪……本当……どうしてよ……」


 彼は、どうしてあの場にいたのか。

 どうして禁色きんじきである紫の長袍を纏っていたのか。

 もしかしたら、彼に似ている全くの別人かもしれない。


『…………っ紅林』


 しかし、彼は確かに自分の名を呼んだ。何度も何度も呼ばれた同じ声で。

 いい加減、認めなければならない。

 彼は――永季えいきは、皇帝・関玿かんしょうだったのだと。

 彼が何故、衛兵として後宮をうろついていたのかは分からない。


「いえ……分からなくていいのよ。どうせ、二度と会うこともないんだから」


 紅林は後頭部にそっと手をやった。指が触れればシャランとか細い音が鳴る。


「どういうつもりで、こんな物を渡したのよ……っ」


 彼の瞳の色と同じ貴石きせきのはまった歩揺をそっと引き抜き、隠すようにして紅林は握りしめた。




        ◆




 抱えた膝の上に顔をうずめ、どれくらいが経っただろうか。

 コツン、コツンと近づいてくる足音で、紅林は意識を現実に引き戻した。

 石作りの牢屋の中では、足音一つでもよく響く。それがいくつか。複数人でやってきたということは、食事というわけではなさそうだ。

 足音が止まったことで紅林が顔を上げれば、鉄格子の向こうにいたのは、もう会うことはないと思っていた男。


「永――っ」


 思わず永季と呼びかけて、すぐに口をつぐむ。


「……陛下に拝謁はいえついたします」


 地面に額をついた紅林に、関玿は顔を苦しそうに歪めた。


「やめてくれ、紅林。顔を上げてくれ」

「仰せのままに」


 身体は起こしたが、依然として紅林の視線は足元に向けられている。


「聞きたいことがある」

「なんなりと」


 紅林が他人行儀に喋るたび、関玿の表情は苦々しいものとなっていく。


「何故、配膳などしていた。女官によれば、紅林は洗い場が担当だったという話だが」

「配膳係となっていた同僚の宮女が、突然体調を崩しまして。それで私が代わりました」


 そうか、と関玿は頷き、奥にいる藍色髪の男が紙に何かを書き付けていく。


「では、もう一つ。紅林は朱貴妃の杯に毒酒が入っていたのを知っていたのか」


 弾かれたように紅林の視線が上がった。

 宴殿でのあの瞬間以来、初めてまともに二人の視線は交わった。互いに、瞳に多少なりの驚きを宿し見つめ合う。


「……そのようなことは。あの、毒は朱貴妃様の杯だけだったのでしょうか」


 関玿が頷けば、紅林の視線は何かを探るように右へ左へと揺れた後、また足元へと落とされた。口元に当てられた指は、彼女が思索しさくしていることを表わしている。


「何か気付いたことでもあるのか、紅林」

「いえ……ただの宮女如きが分かるはずもありません」


 紅林は謙虚に首を横に振る。


「ちなみに使用された毒は冶葛やかつだったようだ」

「冶葛……! それはまた随分と殺意の強い……」

「どうやら紅林は冶葛を充分に知っているようだな。ただの宮女であるというのに」


 わざとらしい関玿の言い方に、紅林はばつの悪い顔になり、すぐに背けた。


「朱貴妃の杯にだけ毒が入っていた。これは、彼女を害しようとした者が存在するという証拠であり、何事もなかったから良かったと捨て置ける問題ではない。しかし、犯人は未だ分からないときている」


 紅林ははいと頷いてみせたものの、彼女には毒を盛った犯人の見当は付いていた。ただ、なぜ彼女がそんなことをしたのか、理由が分からないのだ。

 またここで言うことで、誰かにとがが及ぶ可能性もある。ならば、現時点では何も言わないほうが良いと口をつぐんでいたのだが。

 しかし、関玿の次の言葉は、紅林をひどく困惑させた。


「だから、当日尚食局しょうしょくきょくで調理配膳に関わっていた者たち全員に、罰を与えなければならない」

「――っそれはやり過ぎでは!?」


 思わず声を荒げてしまった。

 当日尚食局の調理配膳に関わっていた者となれば、朱香しゅきょうまで含まれる。


「全員冷宮送りとするのが妥当と思うのだが……なあ、安宰相あんさいしょう


 どうやら、書付けをしながら奥に控えていた男は宰相だったらしい。

 安宰相と呼ばれた男は、筆を止めることなく「左様さようで」と同意している。


「そんな……っ」


 紅林の顔は俯き、唇は震えていた。

 朱香達を守るためにやったのに、これでは本末転倒だ。


「安宰相、席を外せ。他の者達も」


 唐突に、関玿が連れの者たちに向けた言葉が耳に入ってきて、紅林は「え」と顔を上げた。


「私が出て来るまで外で待て。決して誰も入れるな」


 短い返事のあと、複数の足音がバタバタと遠ざかっていく。

 音を反響させながらも小さくなっていく足音に、紅林は心の中で「待って!」と引き留めた。しかし、当然ながら足音が戻ってくることはない。

 やって来たのは、耳に痛い静寂だけ。


 今この場に残るのは、男達が去って行った方を眺める表情の見えない関玿と、牢屋に捕らわれた紅林のみ。

 次の瞬間、カチャンと存外に軽い音を立てて錠は外れ、牢屋の扉が軋みながら開けられた。

 関玿がその大きな身体を折り曲げ、中へと入ってくる。

 ドッと背中に汗が滲んだ。


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