四章 王朝の黒幕と冷帝の想い

第32話 ◆宴の後に残るわだかまり



 宴殿での騒ぎの処理を終え、円仁えんにん順安じゅんあんは長牀にどっしりと腰を下ろした。


「まさか、こんなことになるとは」

「多少の問題は想定していたが、宮女が突っ込んで酒宴を台無しにするとは、完全なる想定外だったわ」


 宙に放った溜息には疲れが色濃く滲んでいる。


「その宮女が狐憑きとは……」

「狐憑きに問題を起こされるとは思ってもなんだわ」

「しかも、今回は少々ややこしくなってしまいました」


 円仁は足に肘を突き、前髪を掻き上げるようにして額を押さえた。


「まさか、朱貴妃の杯に毒が入っていただなんて」


 紅林が衛兵に連れて行かれた後、場を片付けるために宴殿の中にいたもの達は一度外へと出たのだが。その時、こぼれた料理の匂いに誘われてねずみが入り込んでしまった。鼠は卓の下に落ちた料理を食べながらあちらこちらへと走り回り、そして同じく床にこぼれた朱貴妃の酒をチロッと舐めたのだ。


 途端に鼠は痙攣を起こした。

 首を絞められたような呻きを漏らしたあと、酒の中に倒れて動かなくなってしまった。それを見ていた皇帝や宰相は、片付けの宮女ではなく内侍省を呼び、四夫人は悲鳴を上げて顔を蒼くしていた。

 そうして、乞巧奠きこうでんはそのまま急遽終わってしまった。


「しかし大丈夫でしょうか、順安殿。せっかく失せ物の件を陛下が我々に一任してくれたというのに、今回の件で大理寺だいりじを引っ張ってこられたら」

「なぁに、大丈夫さ。酒壺しゅこの回収もこちらでやったんだ。しっかりと・・・・・調査して、結果を報告すれば問題ない。我らが黒と言えば黒だし、白と言えば白なのだから」


 確かに、と円仁はほっと息を吐いた。


「それにしても、本当に順安殿は不思議なお方ですね。頭の回転も速く、機転も利く。今までどうして世に出なかったのか。臥龍とはまさしく順安殿をいうのでしょうね」


 はは、と順安は嬉しそうに膝を叩いて笑った。


「嬉しいことを言ってくれる。だが……そうだな、私は龍のように天へ昇るより、蛇のように地べたを密かに這っているほうが好きなのだよ」

「変わった御仁だ」


 順安の卑屈な例えに、円仁は首を傾げたが、往々にして頭の良い者は他者と異なるのもだと納得した。


「円仁殿、砂山を作ったことは?」

「は? あーまあ、ありますが。幼少の頃などよく庭で」

「では、砂山を崩したことは」

「まあ、そりゃあ。山を作ったままだと親に叱られましたからね。邪魔だと」

「ならば、他人の砂山を崩したことは?」


 何を聞かれているのだろうか、と思いつつも円仁は、大人しく順安の質問に「ないですが」と答える。

 すると、順安は嬉しそうに目を細めて頷いた。


「一度、他人の作った砂山を踏み潰してみるといい。作るよりも楽しいことに気付く」


 やはりこの部下は普通とは何か違う、と円仁は面体めんていで顔の半分をくした男を、少々不気味に思ってしまった。




        ◆




 乞巧奠の騒ぎは、ただの宮女の粗相――で話は終わらなかった。


「全て調べたか、永季えいき

「はい。出された料理から酒まで全て。その中で毒物が出たのは、朱貴妃の酒からだけでした」

「なんの毒だ」

かつだと」

「殺す気満々だったというわけか」


 関玿かんしょうは執務机を指で叩く。一定間隔を保って奏でられる音は、彼の黙考の深さを表わしている。


「全員、確かに同じ酒壺から酒は注がれていた。全て朱貴妃が同じように注いでいた。その間、一度たりとも酒壺に酒が追加されることもなかったし、誰かが杯に触っていたということもない……なのに、毒は朱貴妃の酒からとは」

「杯に直接毒物が塗られていたのでは」


 一つの可能性を提示した安永季だったが、しかしすぐに関玿が否定する。


「いや、その前も同じ杯で彼女は酒を飲んでいた。もし、杯に毒が塗られていたのなら、彼女は既に倒れていないとおかしいことになる」


 眉間に大河を彫った男二人は顔をつきあわせ、うーんとうなり声を漏らす。


「そうだ、あの黒い酒壺は?」


 思い出したと声を出した関玿に、安永季は手にした調査報告の紙束を素早く捲っていく。


「えっと、それでしたら内侍省が回収して、既に調査が終わっているようです」

「結果は」

「酒壺の中に酒は残っておらず、酒の中に毒が含まれていたかは分からないが、少なくとも、酒壺の内側から毒物の反応はなかったということです。ああ、あと毒味役の女官も体調に変化はないそうです」


 さらに関玿の眉間が狭まった。


「つまりは、本当に朱貴妃の杯にしか毒は入っていなかったということか」


 関玿と安永季の思いは同じだった――『いったいどうやって』。

 同じ酒壺から同じ酒を注いで、一つだけ毒入りにできるものだろうか。

 少なくとも二人は、そのような神仙しんせんが使う方術ほうじゅつのごとき技を知らない。


「毒の件は、誰にも被害がなかったから良かったものの。やはり、犯人を特定しないことには、今後は食事ひとつまともにとれなくなるな」

「急ぎ、内侍省に最優先で調査するように指示します」

「頼む」


 毒の件の報告はこれで一段落したが、関玿にはもう一つ気がかりなことがあった。


「その……あの・・宮女はどうだ」


 あの宮女と言われ、すぐに安永季は誰か思い至る。

 乞巧奠の日から、ずっと彼は一人の宮女の様子を気にしているのだから。


「紅林という宮女でしたら、まだ獄に入れられております」


 そこまで言うと、安永季は「そうだ」と報告書を捲った。


「追加報告がありました。尚食局しょうしょくきょくの女官のげんなのですが……彼女、実は配膳係ではなかったそうです。当日は人手が足りず、宮女も配膳係として駆り出されていたようですが、彼女はやはりその髪色から、裏方の洗い場を任せられていたようでして」


「そうなのか」と、関玿は目を僅かに見開いて驚きを露わにした。

 紅林は、本来の役目ではない配膳係をやっていた。

 どうしてなのか。

 普通に考えれば、人手が足りなくなって駆り出されただけの偶然だと思うだろう。


 ――それとも、わざと配膳係に? そのような意味のないことをする者など、普通に考えればあり得な……。


 いや、彼女ならあり得る。

 彼女は普通ではないのだから。

 今までの紅林の奇妙な勘の良さ。博識ぶり。落ち着き払った態度をかんがみれば、彼女が無意味なことをするとは思えなかった。

 今回の行動にもなんらかの意味があったのでは、と思える。


 ――もしかして、彼女は朱貴妃の杯に毒が入っていると気付いていたのではないのか。


 まず、紅林があのような場で粗相をするとは考えにくい。

 一挙手一投足に気品がある者だ。

 そんな彼女が、今更襦裙じゅくんに足を取られたりするだろうか。

 脳裏に、当時の情景が思い起こされる。

 小さくなって震える宮女。

 上げた顔は、自分が見間違えるはずがない彼女のもの。

 目が合えば、彼女はまなじりが裂けそうなほど目を見開いていた。


「彼女……俺のことを何か言ってはなかったか……」

「いえ、特に衛兵からそのような報告は」

「そうか……」


 関玿は席を立ち、長い足を大きく動かし部屋を出て行こうとする。


「陛下、どちらへ!?」

「なぜ宮女が配膳することになったか、直接聞いた方が早いだろ」


 安永季の返事も聞かず、関玿は冷宮へと向かった。



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