第31話 どうして……
宴席の中央に皇帝を置き、彼の両側に貴妃、徳妃、淑妃、賢妃が並ぶ。
夜になり酒も入れば、厳かだった空気も散漫なものとなっていた。
「賢妃の
緩み始めた空気をいち早く察した宋賢妃が、我先にと皇帝へ言葉を掛ける。
「後宮の奥でずっと陛下をお待ちしておりましたのに……陛下ったら、一度もお顔を見せてくださらないんですもの」
綺麗に紅が引かれた口に緩やかな弧を描く宋賢妃は、四夫人に相応しい色香を漂わせていた。しかし、皇帝はふと鼻で軽く笑っただけで、他の宮廷官たちと違い彼女の美貌に鼻の下を伸ばしたりしない。
「それはすまなかった。やるべき用というものが朝夕問わず来るものでな。私に仕事を持ってくる安宰相が文句なら受け付けてくれるだろうさ」
「まあ、文句など……ただあたくしは、不安で寂しくて心がちぎれそうな日々を過ごしていたということを知っていただきたかっただけですわ」
甘えた声を出す宋賢妃に、
「しかし、こうして陛下に
「噂……ああ、冷帝というあれか。女子供も無情に焼き払った冷血漢という」
四夫人の間に緊張が走った。
対して皇帝は、意に介した様子もなく杯をあおる。杯を口につけたまま、皇帝の瞳だけが流れるように宋賢妃に向けられれば、彼女はハッとして慌てて否定の言葉を口にする。
「ま、まさか! そのような意味はございませんわ。……ただ、後宮では陛下が女人にご興味がないのかと憶測がひろがっておりまして……」
皇帝は鼻で嗤った。
「女人に興味がないわけではない。ただ、後宮に興味がないだけだ」
「し、しかし、この栄名なる関王朝の繁栄にはお世継ぎは必要かと」
「確かに、それもそうだ」
宋賢妃の顔色がぱあっと晴れやかなものになる。
しかし、それも一瞬。
「だが、相手は後宮内とは限らないがな」
この言葉には、宋賢妃だけでなく李徳妃も顔を引きつらせていた。杯を握った手が震え、口から出そうになった言葉を飲み込むように、残りの酒を一気にあおっていた。
皇帝が置いた杯がコンと虚しい音を立てる。
「陛下、杯が空に……」
隣にいた朱貴妃が真っ先に気づき、近くにいた女官に次の酒を早く持ってくるようにと言う。皇帝の杯が空いたことで、他の四夫人達もまだ残っていた酒を空にした。
そうして次に運ばれてきた酒を、朱貴妃が手を伸ばして受け取る。
運ばれてきた
「まるで夜の叢雲がかかった素月のようだな。取っ手も龍……いや、蛇か? 珍しいものだな」
白地の酒壺は黒いもやが全体的にかかっており、歪な照りを発している。皇帝は朱貴妃の手の中にある酒壺を、まじまじと興味深そうに眺める。
「では、こちらはわたくしが……」
クスと微笑し、朱貴妃はまず皇帝の杯に酒を満たす。席を立ち、次々と四夫人達の杯にも注いでいく。
「あらぁ、申し訳ないですわぁ。貴妃様にお酌をしていただけるだなんて、きっとこちらのお酒は格別に美味なことでしょう」
「まあ、わたくしが注いだことでお酒が美味しくなるのであれば光栄ですわ」
嫌みったらしく言う宋賢妃に対し、朱貴妃は笑顔でさらりとかわす。
そうして最後、朱貴妃自身の杯に酒を満たせば、ちょうど酒壺は空になった。
卓に酒壺が置かれ、朱貴妃が杯を手にすれば、皇帝が「では」と杯を上げる。合わせるように四夫人達も小さく杯を上げ、そのまま口に運ぼうとした。
「きゃあッ!」
が、突如、悲鳴と共に場にけたたましい音が鳴り響いた。
皆驚きに目を
配膳の宮女が、酒宴の卓にしがみつくようにして突っ伏していた。
卓の上に乗っていた料理や酒壺は床に転がり、それぞれの衣を汚している。
「陛下! ご無事でしょうか!?」
宰相席にいた安永季が疾風の如く皇帝の身を庇う。
「――っな、何をしているのだ! 陛下のおわす席を乱すなど、無礼千万であるぞ!」
「申し訳ありません、申し訳ありません」
勢いよく立ち上がった李徳妃が怒声を落とせば、宮女は急いで卓から身体をおろし、そのまま床に額ずいた。頬かぶりをした宮女は、身体を震わせ何度も「申し訳ありません」と繰り返している。
「あ、足がもつれてしまいまして……」
宮女は裾を踏んづけて転んだようだ。
偶然目の前にいた朱貴妃も巻き込まれ、酒杯を落とし、後方へと倒れ込んでいた。隣の皇帝が手を差し出し、朱貴妃の身体を起こす。
「大事ないか、朱貴妃」
「はい、驚いて体勢を崩しただけですから。ありがとうございます。ただ、食膳が……」
卓の上も床の上も、とうてい酒宴を続けられる状態ではなかった。
「片付けを呼べ。それと妃達に怪我はないか確認を」
宴殿でけたたましい音が上がり、宰相が慌てて出て行ったことで、宴殿の外にいた者達も何かしらの問題が起こったことを把握する。
乞巧奠に集まっていた全ての者が今、宴殿内部で跪いている宮女に注目していた。
皇帝は未だに顔を伏せている宮女に視線を向け、平坦な声で告げる。
「もう良い。わざとではあるまいし、そなたも顔をあげよ」
「感謝いたします、陛…………」
恐る恐る顔を上げた宮女――紅林は、自分が陛下と呼んでいた男の顔を見て言葉を失った。
美しい黒髪が背に流されているわけではない。
着ているものも短袍ではなく、武具を纏っているわけでもない。
しかし、紅林を見つめる瞳は、
「永季……さ、ま……」
震えた唇から発せられた声は、やはり同じく震えていた。
そして、それは皇帝――関玿も同じこと。
「…………っ紅林」
悲しそうに顔を歪めた関玿の声は、やはり哀感に掠れていた。
紅林の耳の奥では、ずっと同じ言葉が繰り返し鳴り響いていた。
『彼は、私がこの世で一番憎んでいる人です』
紅林の片方の目から、ツーと落ちた雫が頬をつたう。
濡れた頬を拭う間もなく、紅林は駆けつけた衛兵に引きずられて宴殿から出された。
拍子に、はらりと落ちた頭の手ぬぐい。
誰かが背後で「狐憑きだ」と呟いていた。
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