第26話 どうして来ちゃうんですか

 乞巧奠きこうでんが近づくにつれ、後宮は慌ただしく、女達の気は段々と鋭敏になっていった。化粧に余念がなくなり、頭上で揺れる歩揺や帯飾りが日に日に派手になっていく。

 なんといっても、初めて皇帝を間近に見ることができるのだ。

 万が一、ここで皇帝に見初められでもすれば、冊封さっぽうもあり得る。

 現在、四夫人の席はすべて埋まっているが、その一つ下の九嬪きゅうひんや、もう一つ下の世婦せいふの席は空いているのだから、女達が我こそはと競争心をたぎらせるには充分だった。


 普段使われてない祭祀用の倉庫が開かれ、祭祀道具の点検やら品出しに尚儀局しょうぎきょく尚服局しょうふくきょくの女官達が走り回り、皇帝や妃嬪達が口にするものには最高の食材を、と尚食局しょうしょくきょくの女官達も大わらわ。

 倉庫から出された道具はどれも新品で、やはり後宮は全て燃えたのだと実感してしまう。

 紅林の仕事はいつもの北庭の掃除に加え、乞巧奠準備の雑用が増えた。女官にアレはアッチに、コレをソッチに、ソレはドッチに……と、こき使われまくっている。


 広い後宮内を荷物を持って、大して肌触りの良くない襦裙じゅくんであちらこちらへと走り回る紅林。すっかりていの良い使い走りにされてしまった紅林は、荷物を抱えて後宮門近くの内侍省へと急ぐ。

 ここら辺は衛兵も宮女や女官も多く、それをよけて走るのがまた大変なのだ。


 ――い……いい加減、疲れるわよ……っ!


 焼け出されてから五年の流浪でつちかった体力でも、さすがに限度がある。ぜぇぜぇと息を荒くしながら体力の限界を嘆いていたら、とうとうやってしまった。


「――ぁあっ!?」


 おぼつかなくなった足がよろけ、紅林は近くで雑談していた女官達にぶつかってしまった。


「あ……っぶないわねえ!? どこ見てんのよ!」

「し、失礼……しました……」

「って……げっ、狐憑き!? やだー触っちゃった、不幸になったらどうしようー」


 荷物は落とさずにすんだが、女官からの雷が落ちる。


「あんた、なんでこんな後宮門近くをうろついてんのよ。確か北庭が掃除場だって聞いてるわよ」

「あーさぼりだぁ。ただでさえ掃除しかできることないくせに生意気ぃ。ちゃんと働けよ!」


 二人の女官は、俯く紅林に膝を折って謝れとばかりに、上から雑言を浴びせ続ける。


 ――ちょ……今は勘弁してほしいんだけど……。


 正直、何を言われているのか、疲れすぎて脳が理解できていない。ただ、猿のように騒がしい奇声が耳に入るだけ。

 そんなだから、紅林が女官達の言葉に反応を返せるはずもなく。

 無反応の紅林を見て、無視されていると思ったのか、女官達の怒りが加速した。


「……へえ? いい歩揺してるじゃない。狐憑きの分際で、なに色気づいてんのよ! 気色悪い!」


 次の瞬間、紅林の俯けていた後頭部に鋭い痛みが走った。


「痛――っ!」


 力任せに髪ごと歩揺を鷲づかまれ、無理に引き抜こうと引っ張られる。髪を押さえる紅林の手を払おうと、女官が髪を握ったまま左右に振るたびに、頭皮に針が刺すような痛みが走る。


「や、ぁ……っ痛い……っ!」

「何が痛いよ。大体、失せ物も全部あんたのせいでしょ? あんたが来てから始まったんだもの。侍女一人を冷宮に入れて殺した奴が……どの口で痛いって言ってんのよ」

「この歩揺は似合わないから、もらってあげるわ。あんたは、そこらへんの木の枝でも挿してな」


 疲れていたこともあり、また、やはり二人がかりの拘束には敵わず。


「いや――っ!」


 紅林の抵抗虚しく、手で庇っていた隙間からするりと歩揺が引き抜かれる。


「やったぁ、もーらい!」


 女官は奪い取った歩揺を、嬉しそうに高く掲げた。


「何をしている!」

「ひゃっ!?」


 しかし、落雷のような突然の怒号に女官は悲鳴を上げ、手にした歩揺を地面に落としてしまう。

 場にそぐわぬシャランと華奢な音が足元で響く。

 同時に紅林は、突然女官達からの圧力が消えたことにより、力の均衡が崩れ、ぐらりと体勢を崩した。


 ――あ、駄目だわ……。


 手には荷物。消耗した身体では踏ん張りもきかない。

 紅林は早々に諦めて、きたる痛みを受け入れようとしていた。が、紅林を襲ったのは痛みではなく、力強くも優しい抱擁。


「……え」


 驚きに顔を上げてみれば、焦った表情の赤い瞳がこちらを見ていた。


「……永季えいき……様?」


「紅林」とかすれた声で呟いた永季は表情を緩める。しかし、次に目の前の女官達に視線を向けるときにはもう、柳眉を逆立て静かな怒気を全身にほとばしらせていた。


「彼女に用があるのなら、俺が代わりに聞こう」

「っ何よ! 衛兵の分際で口出してんじゃないのよ!」


 威勢良く食ってかかってはいるが、彼女の足はジリジリと後退している。


「これは後宮内の問題だから、衛兵には関係ないでしょ!」

「関係はある。彼女は俺の大切な人だ。傷つけられれば、当然怒るさ」


 紅林の肩を抱いていた永季の腕の力が増す。

 一方、彼の言葉に女官達はもちろんのこと、紅林すらも瞠目して息を止めていた。

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