第27話 唇に残る熱

 しばし、三人の時は止まり、「は……ははっ」と女官の引きつった笑いで、やっと呼吸することを思い出す。


「馬っ鹿じゃないの。後宮の女に手を付けていいって思ってるの? 内侍省に訴えたら、あんた、どうなるかしらねえ?」


 勝ち誇った顔で永季えいきをあざ笑う女官。

 しかし、永季は失言したことにすら気付いていない様子で、平然としている。


「言いたいなら言えばいいさ。その場合俺も、仕事もせず後宮門で衛兵との逢瀬を楽しんでいる女官がいる、ということをうっかり喋ってしまいそうだがな」


 カッ、と女官達の顔を赤くなった。

 そういった疑似恋愛を楽しむ者がいるのは知っていたが、まさか、目の前の二人がそうだとは。予想以上に多いのかもしれない。

 女官達は悔しそうに唇を噛んでいたが、どう転んでもうまみはないと理解すると、ふんと鼻を鳴らしてバタバタと去って行った。


「随分と食い下がったな、よっぽど暇なのか……それより大丈夫か、紅林。怪我したところはないか」


 永季は遠ざかる女官の背中を、目の上に手をかざして呑気に見送ったあと、腕の中にすっぽりと収まっている紅林に目を向けた。


「――っ大丈夫です!」


 向けられた永季の表情に、思わず彼の胸を押し飛ばすようにして突き放す紅林。

 しかし、思いきり力を込めたはずなのに、永季は半歩足を下げただけで、距離は思ったより開かない。それがまた無性にしゃくに障って、紅林は今度は永季の胸を拳で叩いた。


「そんなことより、あの女官達の言うとおりですよ! どうするんですか、本当に告げ口されたら!?」

「それは大丈夫だ」

「何を根拠に……っ」


 後宮に女は数多いる。しかし、ここは『関玿かんしょう』の後宮であり、そこに住まう女達は皆彼のもの・・・・なのだ。妃嬪だけだではない。たとえ皇帝からのお手つきがない女でも、どれだけ身分が低くとも、全て彼の女。

 だから、それに誰かが手を出そうものならば、それは皇帝のものの略奪に等しい。


「どうするんですか……永季様にとががあったら……っ」

「へえ、俺の身をそんなに心配してくれるのか」

揶揄からかわないでください」


 顔を覗き込もうとしてくる永季から逃げるように、紅林はふいと顔を背けた。

 なぜ、こんなにも不安になるのか分からなかった。もし彼に何らかの罰が下されたらと思うと、喉の奥が苦しくなる。

 紅林が横を向いたことにより、ぐしゃぐしゃにになった後ろ髪が永季の目に留まり、たちまち、永季の顔が渋くなった。


「すまない……俺の歩揺のせいだな。そこまで・・・・考えられなかった」


 からまった髪を解くように、柔い手つきで髪をいていく永季。妙なくすぐったさが後ろ首にまとわりつく。


そこまで・・・・起きないのが普通ですから」

「迷惑なものを渡してしまったな」


 背けた紅林の視線の先、地面の上で寂しそうに金歩揺が転がっていた。

 紅林は歩揺を拾い上げ、柔らかな手つきで砂をはらう。そして、そのまま歩揺を自分の髪に――ではなく、永季へと差し出した。

 髪を梳いていた永季の手は止まり、瞼を見開いて歩揺と紅林とを交互に見やる。


「……挿して……くださいますか……」


 彼は一瞬息を止めると、歩揺を受け取り、案外器用に髪を纏め挿してくれた。

 礼を言えば、永季は微笑して小さく頷いた。

 どうして、彼は髪を纏めるのが上手いのだろうか。

 もしかすると、髪を結う間柄の女人がいるのかもしれない。

 胸の奥が石を飲んだように重くなった。


 ――よく考えたら、私……彼のことを何も知らないわ。


 彼はこの歩揺を、どんなつもりで渡したのだろうか。

 大切な人とはどういう意味なのか。

 彼はあまりにも自分のことを話さないから。


「紅林、あまり後宮門こちらには来るな」


 焦れるような沈黙が続く中、先に口を開いたのは永季だった。


「え……でも、内侍省は後宮門の傍にありますから」


 突然そのようなことを言われても困る。乞巧奠関係で内侍省の判断を仰ぐことが多く、今もこの荷物を内侍省へ持っていく途中だったのだから。


「……嫌なんだ、俺が」

「どうして、そこで永季様が出て来るんです」


 市の時は何も言われなかったと思うが。

 いぶかしげに首を傾けていく紅林の視線から、永季は逃げるように顔を背ける。


「……他の男達に……紅林を見られたくない」

「ぇ……へ……っ」


 無愛想に呟かれた言葉に、紅林の目がみるみる見開かれていく。

 大切な人とは、もしかしてそういう意味なのか。

 本当に、そう受け取ってもいいのだろうか。

 もしそうであれば……と、紅林の中でほんの少しの加虐心が顔を出す。


「……っどうして……見られたくないんですか……」


 次の瞬間、彼に落とされたのは言葉ではなく影。


「――――」


 視界に影が落ちたと認識したときには、彼の顔は離れていた。

 それは風がかすめるような、勘違いかと思うほど一瞬だけの唇の触れ合い。


「……そんな顔で見てくれるな」

「どんな顔です……」


 吐息の交わる距離で囁かれる言葉は、唇が重なっているわけでもないのに胸を締め付け、指先に緊張を走らせた。

 それは、癖になるほど痺れる官能的な甘さ。


「悪い。今日は俺も用事があって、内侍省までは送ってやれん」

「平気です。すぐそこですから」


 永季は、フッと仄かな笑みを浮かべた。


「また明日、北庭を訪ねる。失せ物の件もその時に」


 失せ物の件も、ということは、他にも何か聞くつもりだろうか。

 遠ざかる背中を見送りながら、紅林は自分の唇に触れた。




        ◆



 

 頼まれた荷物も内侍省に届け終わり、紅林は省内をのんびりと歩いていた。

 早く戻るとまた別の頼み事をされそうで、わざと時間を潰す。今日は朝から、それこそ文字通り走り回っていたのだし、多少休憩してもばちは当たらないだろう。

 執務のためだけに建てられた内侍省内部は植物が少なく、その代わりたくさんの柱廊ちゅうろうが、あちらこちらへと伸びていた。同じがらした扉の部屋も多く、うっかりしたら迷子になってしまいそうで、紅林は細心の注意を払いながら歩き回る。

 しかし、紅林が注意していても事故は起こるもので。角の右側から来た内侍官と、派手にぶつかってしまった。


 ――今日はよく人とぶつかるわあ……。


 運良くぶつかった内侍官が抱き留めてくれたおかげで、大事にはいたらなかったが。


「ああ、これはすまない。私の不注意で……何ぶん、左側が見えないもので」


 まったく紅林など目に入っていない勢いだったなと思っていたが、内侍官は本当に片目が見えていなかった。顔の半分には黒い面体めんていが巻いてある。

 紅林はまじまじと彼の顔を見つめた。

 抱き留めてくれた内侍官は、老齢さが額と目尻に滲んだ男だった。


「いえ、こちらこそ、内侍官様のお仕事場をウロウロしていた私が悪いんですもの。お気になさらず」


 面体の内侍官は、構わないと皺の刻まれた手を上げ、立ち去ろうとする。

 しかし、紅林が呼び止めた。


「あの、少し伺いたいのですが」

「なんだ」

易葉えきようという侍女が盗んだ品と、被害報告の品にずれがあると聞いたのですが。他の犯人は捕まったのでしょうか?」

「捕まえられるわけがないだろう。とうに商人に売り払ってしまって、証拠など残っておらんさ。易葉は運が悪かったというわけだ」


 確かに、盗んだものをずっと手元に置いておく意味はない。


「では、侍女の易葉は、どのように亡くなったのでしょうか」


 深入りはしないと決めていたが、しかし、彼女の突然な死には違和感があった。


「確か、内侍官様は彼女を捕らえる場にいましたよね。何か知りませんか」


 どこかで見たことがあるなと思えば、彼は侍女を捕らえていた内侍官であった。面体の内侍官など二人も居まい。

 面体の内侍官は、ああ、と白いものが混じる髭を指で撫でた。


「病死だよ」

「噂だと自殺だと」

「ものは言いようだな。冷宮の食事が気に食わないと、自ら断食していたのだ。それで体力が落ちたところに病をね。あんなところで弱ればどうなるか、少し考えれば分かりそうなものだが。自殺と言えば確かに自殺だろう」

「そう……ですか」

「元侍女という矜持きょうじが貧食を許さなかったのだろうな。たかだか四夫人の侍女に、いかほどの価値があったというのだろうか……可哀想に」


 面体の内侍官は眉を下げ、確かに侍女をいたんでいるような表情であったが、しかし、紅林には彼の言葉が嘲弄にも聞こえた。

 彼のしおらしい態度が、紅林には取り繕ったものにしか見えなかった。

 そういえば、過去にも同じような思いを抱いたことがある。その男はとうに死んだが。


「お引き留めして申し訳ありませんでした」


 紅林はこの内侍官とはあまり関わりたくなくて、内侍省での休憩を予定より早く切り上げた。



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