三章 伝えられない想い

第24話 ああ…雑草になりたい

「紅林、お願い助けて! 宋賢妃そうけんひ様に殺される!」


 いつものごとく紅林が北庭を掃除していると、小走りで徐瓔じょえいがやってくるではないか。何事かと見ていれば、彼女は到着するなり、パンと合わせた両手より低く頭を下げた。


「まあ。殺されるだなんて、また随分と穏やかではありませんね」


 しかも、宋賢妃に、というところがなんとも現実味あふれる。


「それで、どのようなご用件でしょうか、徐瓔さん」

「あんた頭良いし、ちょっと知恵を貸してほしいの!」

「あ、あの、私からもお願いするわ」


 ひょこっと徐瓔の背中から現れたのは、涙目になった女官だった。





 女官は尚服局しょうふくきょく司衣しいだった。

 来週に迫った乞巧奠きこうでんに合わせて、宋賢妃から新たな帯の依頼を受け図面通りに作り上げたのだが、保管していたその帯がなくなったらしい。

 出来上がった帯を徐瓔が受け取りにやってきて、そこで初めて気付いたのだとか。


「誰かが間違えて持っていったんじゃありません?」

「それはあり得ないわ。図案は宋賢妃様作成のものだし、金糸の鳳凰ほうおうと銀糸の麒麟きりんでとっても派手な帯なの。誰かがしていたら間違いなくばれてしまうわよ」


 女官の説明に、紅林と徐瓔は顔を見合わせた。


「この間の飾り物盗難と同じ感じね。ねえ、あん司衣、いつ失くなったのか分かる?」

「それが……十日くらい前に出来上がって、それからずっと置いていたので正確には……」

「十日……だと、この前の市で売られた可能性もありますね。もしかすると、それだけ派手な帯なら、もう一度商人が後宮で売るということも考えられますが」

「そんな待ってられないわ! 次回の市は乞巧奠の後だもの」


 それに現実問題、それほど派手な帯なら、女官や侍女の俸禄ほうろくではとても買い戻せない。なにより、あの騒ぎがあった後で、商人が市に買い取ったものを出す可能性も低い。

 八方塞がりというわけか。

 しかし、金の鳳凰と銀の麒麟の注文とは。宋賢妃の乞巧奠に対する気合いの入り方が窺い知れる。それを失くしたとあっては……。


「なるほど。宋賢妃様なら毒を飲んで詫びろくらい言いそうですね」

「そんな他人事みたいに言わないでちょうだいよぉ……本当にやりそうなんだからぁ」


 絶望に打ちひしがれ、グスグスと鼻をすすりはじめた女官の隣で、徐瓔が力強く頷いていた。

 自分の主人に対し、実に容赦ない認識をしている徐瓔。よくそんな主人から、いくら弟のためとはいえ歩揺ほようを盗めたなと、むしろ感心を覚えてしまう。


「もう狐憑きだなんて言わないから、助けてよぉ」


 もはや呼ばれ慣れすぎて、それは交渉材料にならないのだが。

 しかし、足元で鼻先を赤くして見上げてくる女官を見れば、紅林の心にも同情心が芽生えるというもの。


 ――なるべく、問題事には関わりたくないんだけども……!


 紅林はぐぐっと唇を尖らせ、しかし、ついには捨てられた子犬のような眼差しに負け、はあと息を吐いた。


「……ちなみに今、他に残っている帯とかあります?」

「う、うん、あるある! あるわよ! 一応持ってきたわ」


 女官は手にしていた包みを開いて紅林に見せた。


「この時期、やっぱり他の宮や侍女とかからも依頼が殺到していて。局に残っていた帯では、これが一番ましだったのよ」


 包みの中から現れたのは、青地に、赤と白と黄で牡丹の花が刺繍されている帯。

 色彩豊かで充分に美しい帯なのだが、宋賢妃が依頼したものと比べれば格段に見劣りするだろう。


「ねえ、紅林。どうにかできないかしら。今からまた作ってたんじゃ間に合わないし……なんとか、この帯で満足してもらう方法ってない?」

「結構な無茶を言いますね」


 人をなんだと思っているのか。

 これが朱貴妃であれば、ここまで女官は顔を蒼くしなくて済んだだろうに。よりによって、宋賢妃の帯とは。

 紅林は、ほうきに顎を乗せ「うーん」と空を眺める。

 徐瓔と女官は、紅林の口から解決策が出てくるのを、眉間に力を入れて祈りながら待つ。

 晴天続きのからっと爽やかな風が、三人の首筋をかすめていく。

 このままいけば、乞巧奠の夜は満点の天の川が見られるだろう。


「……まあ、このままってわけにはいきませんが、この帯で宋賢妃様を満足させることはできますよ」


「本当っ!?」と二人は噛みつかんばかりに身を乗り出した。


「牡丹の葉の緑は青と同じなので……これに、あと黒の糸で刺繍を入れてください。柄はなんでもいいです」

「え、それだけでいいの?」

「重要なのは、帯を渡すときの宋賢妃様への口上こうじょうですから」


 乞巧奠は織姫星が空に輝く時期に、彼女にあやかって針仕事の技巧上達を願う宮中行事である。そのため、神への捧げ物として、五色の糸が用意されるのだが。


「青、赤、白、黄、黒の五色はその祭祀を象徴する色です。なので、この帯に足りない黒色を刺したら、堂々といかにもこれが最善ですという顔でこう言ってください――『金銀きらびやかなのも大変めでたくはありますが、鳳凰は天を、麒麟は地を表わすもの。つまり国体を示します。陛下がおわす行事の場でそれを纏えば、自らをも陛下と同格と言っているに等しく、不敬とされるやもしれません。それに対し五色の刺繍帯であれば、本来の乞巧奠の意味に即したものであり、心より儀式に挑む姿勢と配慮に、陛下はいたく関心を示されるでしょう』と」


 へえ、と徐瓔が口を縦に開いて、感嘆の声を漏らしていた。


「乞巧奠って、ただの月見酒の行事じゃなかったのね。宮女なのが嘘みたいに、紅林って本当に物知りだわ。何者よ」

「ただの宮女です」


 というか、乞巧奠を月見酒と認識していたのか。


 ――きっと、後宮用の教則本きょうそくぼんも全部燃えちゃったのね。


 皇帝が関わる宮中行事ならば、表側での資料保管があるが、後宮内にしか関わらない――女官や侍女の教則本などは、内侍省にしかない。

 その内侍省も先の大火で燃えてしまった。


「確かにこれなら、宋賢妃様も納得してくれそうだわ。私が聞いても、なるほどって思ったもの。良かったわね、安司衣」

「な……っ」


 手を叩いて喜ぶ徐瓔に対し、女官は目を瞬かせている。


「長いわ」

「……命が惜しければ覚えてください」


 それで毒薬回避ができるならば易いものだろう。


「助かったわ、紅林」

「ありがとう、紅林さん! 周りにもあなたの博識ぶりをしっかりと宣伝しておくわね!」

「結構です」


 隅の方でひっそりと過ごさせてほしい。

 二人は来たときとは表情を一変させ、早速帯を仕上げないとと言って尚局へと走って帰っていった。

 ヒラヒラと手を振り二人を見送ると、紅林はまた箒の柄に顎を乗せる。


「ふぅん……帯がなくなるねえ……」


 金糸銀糸の刺繍帯であれば、さぞ絢爛豪華な上等品だったのだろう。

 だが、この間市で騒ぎがあったばかりで、また同じ手法を使うつもりか。商人の方もしばらくは警戒すると思うが。

 それに、誰がそんな大金を必要としているのか。

 紅林は箒の柄を支えにして、しばらく身体を揺らしながら思案していたが、余計なことには首を突っ込まないと考えを追い出す。


永季えいき様から犯人捜しを頼まれているけど、あまり深入りしない方が良さそうね」


 易葉えきようの死は、さすがに詳しいことは伏せられており、冷宮での生活を苦と思っての自殺だろう、と女人達は噂していた。

 ここは後宮。


『公主様、お気を付けください。ここは虚実が表裏一体となる場所です。どうか自分を助ける術を習得なさってください』


 それは母の侍女であるりんれいが、ことあるごとに紅林に言って聞かせていた言葉。


 後宮という特殊な環境下では、常識というものが一切通用しない。まことに見せかけた嘘が当たり前に横行し、妃嬪同士のただの雑談ですら気が抜けないのが常だった。特に、世情が不安定だった林王朝末期は皆が皆、自分以外を蹴落とそうと必死だった。

 だからこそ、母の弱点になり得る紅林は、ずっと隠されていたのだから。

 思い出した記憶に、クスと紅林はわびしそうな笑みを浮かべる。


「何が起こっても不思議じゃないもの」

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