第22話 皇帝はいずこに
肺腑の隅々に溜まっていたものまで残らず出し切ったような、細く長い息からは彼の心労を
「
円仁は、李徳妃の
「いくら四夫人といえど、皇帝の寵で決められたものではないというのに。朱貴妃や
宋賢妃は、何かあるとすぐに内侍省へ文句を言ってきて煩いことこの上ない。
李徳妃は、地方で強権を持つ一族の姫ということもあり、根っからの支配者気質が染みついている。誰に対してもいつも取り澄ました態度をとり、あまり心証がよろしくない。
今はどの妃嬪も皇帝のお手つきがないからいいが、もしこれで寵争いが始まれば、もっと面倒なことになるのは目に見えていた。
思いやられる未来を想像し、また円仁の溜息は濃くなる。
その溜息に重なって、向かい側から、
「……笑い事ではないですよ、
「すまんな。いつの世も、後宮の女は面倒なものだと思ってな」
円仁と順安の口調は、二人きりの時だけ、まるで主従が逆転したかのようにガラリと変わる。
顔の左半分を黒い
「はぁ……内侍官など、楽しみがないとやってられないですよ」
「では、充分に楽しめておるだろう?」
ニヤリと口角を深く切り上げた順安に、円仁は同じく深い弧を口元に描いた。
「いや、本当に順安殿と知り合えてよかったです。でなければ今頃、妻を身請けすることもできなかっただろうし。官吏の俸禄が高いだなんてまやかしですよ」
最近まで後宮に女人はおらず、名ばかりの役職だったのだから。他の官吏と同じだけの俸禄がないのは仕方なかった。
「だが、これからはどんどんと女も増えるぞ、円仁殿。欲にまみれた女達がな……ハハッ!」
「先が楽しみですね」
◆
詳しい判決が伝わってきたわけではないが、おそらくは冷宮に連れて行かれたのだろうというのが、後宮の女人達の見立てだった。
冷宮は内朝の一画にある、下女や罪を犯した女人が懲役を行う場所である。
下女の仕事――屎尿処理や残飯の処理など――を主とし、そこだけは内朝の中にあって、まるで流民街のような雰囲気が漂う場所であった。
内侍省の判決でも、四夫人であればその権力で多少の温情を請うこともできるのだが、李徳妃は「当然の報いだ」と、侍女の減刑を望まなかった。一緒に連れて行かれた商人は、翌日の市にはケロリとした顔でまた店を開いていたと聞くから、やはり全面的に侍女が悪いとされたようだ。
二日間あった市も、この騒ぎ以外には大きな問題も起こらず、盛況の内に幕を閉じた。
北庭の掃除を終え、紅林は一人、宿房へと戻っていた。
後宮にはもう商人達の雄々しく野太い声はなく、今はキャラキャラとヒヨドリのような可憐な声だけが賑わしている。
彼女達の話はもっぱら、市で買った新しい飾り物の話題で始まり、「そういえば」と、市で出会った格好いい商人や衛兵の話へと向かう。
そこに皇帝の話題が影も形もないのはやはり、そういった気配が微塵もないからだろう。
「本当に皇帝って後宮に興味がないのね」
確かに問題をおこしたのは妃嬪ではなく侍女であるが、一応、四夫人の品が盗まれていたという事件である。李徳妃の様子伺いくらいあるかもと思ったが、やはり皇帝はチラッとも姿を現さなかった。
「よっぽど情に薄い人なのね……まあ、後宮を焼いた奴だもの。情なんかあるわけないわね」
それにもし、本当に皇帝が李徳妃の宮を訪ねていたら、今頃、嫉妬で憤慨した宋賢妃が当たりどころを探して、後宮内をうろうろしていたかもしれない。そして、おそらくは自分に当たりに来ていたはずだ。
「皇帝が来ないほうが、私は平穏無事に過ごせるからいいけど」
――どうか、私が後宮を出るまで皇帝が来ませんように。
などと、北庭からの帰り路で手を合わせて祈った紅林。
「あ、しまった。祈るんだったら、母様に祈ってくればよかったわ」
北壁の際への供花はまだ続けていた。
今日の供花は
ところが、
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