第19話 紅林、あなたはいったい何者なの?

 紅林達は壁の影から顔を覗かせ、今し方、後宮門前で行われていた騒動に目を瞬かせていた。


「ねえねえねえっ、今のなんだったの!? 黒呂宮こくろきゅうの侍女が連れていかれたんだけど!?」


 あわあわとおののいた徐瓔が、朱香の肩を遠慮なく叩く。


「イタタタタ! 痛いですって、徐瓔じょえいさん。落ち着いてください」

「ご、ごめんなさい。予想外すぎる衝撃的な光景でつい……」


 紅林にも徐瓔の気持ちは分かった。


「李徳妃様って、あんな大声を出す方だったんですね」


 あまり宮から出てこない李徳妃については、知らないことのほうが多い。

 宮女になってから数回見かけた程度で、物静かな威厳を纏った人だなという印象があった。宋賢妃が言葉で他者を従わせる質ならば、李徳妃は黙ることで周囲を動かす質だろうと勝手ながら思っていたのだが。


「李徳妃様は怒らせたら駄目ってことがよく分かりました」


 紅林の言葉に朱香しゅきょう徐瓔じょえいは、水飲み鳥のように何度も力強く頷いていた。


「紅林、お前がもしかしたら見られるって言ったものは、これのことか?」

「ええ、そうですね」


 肩を叩かれ、振り向けば永季えいきが顔を覗き込んでくる。

 拍子に、彼の長い黒髪が紅林の肩に垂れる。まるで自分の髪が黒くなったようで、紅玉時代の記憶が脳裏をかすめた。


 ――あの時代も、ああやって何人の女達が連れて行かれたか。


 王朝が変わろうと、後宮の中身が丸っと入れ替わろうと、人とは変わらないものだなと紅林は小さく口端をつり上げた。

 いつでも人は愚かだ。


「ねえ、紅林。李徳妃様と店主の会話を聞いても状況が掴めなかったんだけど、つまりあれって何が起こって、結局誰が悪かったの?」


 朱香は片眉をへこませて、尖らせた唇で分からないよと呟いた。

 確かに、あの場面だけでは何がなんだかだろう。

 恐らく、周囲で息を殺して成り行きを見守っていた者たちの大半も、よく分からず眺めていたに違いない。


「後宮で失せ物が頻発してるって話だったじゃない。犯人が何人いるかとか、誰の物が盗まれたかは分からないけど。少なくとも李徳妃の玉環は、あの侍女が盗んだみたいね」

「商人がそう叫んでたもんね。にしたって、自分の仕える妃の物を盗むなんて、恥知らずも良いとこだよ」


 横から、「ぐっ!」という徐瓔の呻きが聞こえた。


「それで、なんで商人が怒られてたの? 盗んだのはあの侍女でしょ」

「その侍女が商人に玉環を売ったのよ。きっとお金が欲しかったのね」


 盗んだものを後宮内で付けることは、当然できない。もちろん手元に置いておくなども論外。

 ならば、どうするかというと。


「売って得たお金で、別の品を買うのよ。懐の痛まない錬金術ね。今回は商人が買った品を売りに出したから、李徳妃様に見つかったの。きっとあの商人だけじゃないわ。他の盗品も色んな商人に売られてて、それらは城外でさばかれたんだと思う」


 後宮からの品というだけで高く売れる。

 町娘達はやはり才色兼備の代名詞でもある妃嬪達に憧れるものだし、彼女達の装いを真似て流行させることもある。

 後宮という単語がつくだけで、同じ品でも価値がまったく変わってくるのだ。


「恐らく、玉環だけ後宮内で売られたのは、李翠玉って言ってたし、街で売るには高すぎたんでしょうね」


 李翠玉の正式名をろうかんという。

 純度の高い最高品質の翡翠のことをそう呼ぶのだが、それが一番多く採掘されるのが、李一族が持つ鉱山ということで、別名、李翠玉とも呼ばれている。

 しかし、多く出るといってもやはり知れた量であり、李翠玉の希少価値は高い。あの玉環の太さを考えると、とても地方貴族や王都の豪商程度では手が出せないだろう。私財をなげうって……という自己犠牲を強いられる代物だ。その分、後宮ならば買い手が付きやすい。大貴族の娘や妃嬪もいるのだから。


「侍女も自分が売った物が、まさか後宮で売られるなんて思わなかったでしょうね――って、あら……?」


 一通り話し終えたところで、紅林は朱香達の反応がまったくないことに気付いた。


「ど、どうしたの?」


 目を向ければ、朱香や徐瓔だけでなく、永季までもが目を点にして紅林を凝視していた。


「すごいよ、紅林。でも……なんでそんなこと知ってるの」

「てっきり草花に詳しいだけかと思ってたけど……あんた、もしかして元は貴族の出だったりする?」

「え……」


 しばらく、紅林は何を言われているか分からなかった。


「私、李翠玉りすいぎょくっての、初めて聞いたもん」


 朱香の言葉で、紅林はハッと自分の過ちに気付く。宮女になる程度の者が、一部にしか出回らない李翠玉など知っているはずがないのだ。後宮ならではの錬金術に思い至るわけがない。


「――っああ……これね。ほら、私花楼で下女をしていたでしょ。だから妓女の姉さん方から色々聞いていて。良い花楼だったし姉さん方への贈り物に翡翠もよくあって、李翠玉だわって喜んでるのも見てたから」


 紅林は、慌てて飛び出そうになる言葉をぐっと堪え、意識して平調に話す。


「貴族の出なんて、そんな。各地を転々としてきて、無駄に色んな場所で働いてきたから、知識だけは多いのよ。今回のことが予想できたのも、以前花楼で似たようなことがあったからなの」


 だから偶然なのよ、とばかりに紅林は微笑んでみせた。

 嘘は言っていない。

 各地を流浪してきたし、花楼で下女として働いていた。妓女に届けられる貴石を見ることもあり、その中に翡翠があったのも事実。

 ただ、全てを言っていないだけ。

 もし、流浪する前は、などと突っ込まれると面倒だと思ったが……。


「ああ、そういえばそうだったね。花楼の下女だったって言ってたもんね、紅林」


 朱香がポンと手を打った。


「上級花楼って名のあるお役人様も上がるって聞くし、確かに李翠玉が飛び交っていても不思議じゃないわね」


 さすがに飛び交いはしないが。

 どうやら、朱香の様子を見て、徐瓔も「なるほどね」と納得してくれたようだ。


「じゃあ……もし、あのまま私も歩揺ほようを売ってたら、私があの侍女みたいになってたかもしれないのよね」

「そうですよ。商人は利へ食いつくのは早いけど、その分、自分の不利になるような場合は簡単に裏切ります。きっとあの易葉えきようという侍女も、売る時は店主と箝口かんこうを約束したはずなのに……ああして、あっけなく名を出されちゃうんですから」

「商人を信用しすぎるなって、こういうことだったのね」


 徐瓔は己の身体を抱きしめ、唇を噛んだ。


 ――そういえば、彼女はどうやって、この後宮ならではの錬金術を知ったのかしら。口伝にしても、口伝元はいないはずなのに。


 紅林は徐瓔の耳元に口を寄せ、声音を落とす。


「……徐瓔さんは、誰から商人が買い取りをしてくれるって話を聞いたんですか?」

「同じ侍女仲間だけど」

「他の方達にも広がっていたんですか?」


 徐瓔は首を横に振る。


「一応、声を掛ける人を選んでいたみたいよ。私みたいにお金が欲しい人に絞って。お金を得る方法が知りたければ、教える方法で手に入れたお金の幾分かを渡すのが条件で。多分、窃盗を黙っていてやる口止め料ってことじゃないかしら。聞いたときは、家でも買うことばかりだったから、商人に売るだなんて衝撃的だったけど」

「なのに、どうしてお金が?」


 侍女ということは、それなりの家の出のはずだ。

 徐瓔は苦笑した。


「弟がね、ちょうど私が後宮入りするのと入れ替わりに病気になっちゃって……珍しいものらしく薬が高くてね、その治療費よ」


 紅林は、良かったと安堵した。

『盗みなんてしたくなかった』と言った彼女の言葉は本物だった。自分の為に他人のものを盗むような者を助けたとあっては、後悔も残るというもの。


「優しいお姉さんですね」

「危うく方法を間違えかけたけど」


 自分の行いを間違えたと言える彼女は、本当に良い人なのだと思う。

 その清廉さがあったからこそ、徐瓔は狐憑きと言われる紅林の言葉にでも耳を傾けることができ、身を滅ぼさずに済んだのだから。


「徐瓔さん、ありがとうございます」

「え? お礼を言うのは私の方でしょ。どうしたの?」


「いえいえ」と目を細めて笑う紅林に、徐瓔は首を傾げていた。

 きっと言っても、彼女には分からないだろう。自分を愛してくれる人を全て失った世界で、自分の言葉を信じてくれる人がいたことが、どれほどに嬉しいことか。どれだけの充足感を与えてくれたか。


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