第12話 手を掴まれた相手は……男?

 よく晴れた青空の下、紅林は箒片手に気持ちよさそうに「ん~」と伸びをした。


「気遣う人がいないって楽なものねえ」


 朱香の交渉のおかげで、紅林の掃除場所は北庭へ変更になった。

 北庭は後宮の一番北奥――皇后の宮よりもさらに奥にあり、宿舎から結構な距離がある。おかげで北庭掃除は、宮女達からははずれ職と言われている。


「私にとったら全然はずれじゃないわ」


 後宮の北壁に沿って広がる北庭には、真ん中に池泉が置かれ、その周囲を埋め尽くすように多種多様の草花が咲き誇る絶景地でもある。なのにひとがまるでないのは、見る者がいないからだった。

 妃嬪達は慣れない後宮という場では、まだお互い様子伺いの状況らしく、外にはあまり姿を表わさない。それに彼女達は宮の中に自分好みにしつらえた庭を持っており、わざわざ遠い北庭まで足を運ぶ必要がないのだろう。


「王都の花屋でも、ここまでの種類と数をそろえることはできないでしょうに」


 それなりに気合いを入れて造った後宮ということか。


「残念ながら、全くその役目を果たせてないみたいだけど」


 ふっ、と紅林の珊瑚色の唇が歪につり上がる。


「まさか、皇帝が一度も後宮を訪ねてこないだなんて……」


 後宮があつらえられてから、既に三ヶ月が過ぎているというのに、皇帝は一度も姿を見せていなかった。


「私にしたらありがたい状況だけど、妃嬪達は気が気じゃないわよね」


 もしかすると、宋賢妃の癇癪は、皇帝が訪ねてこないことの焦りからなのかもしれない。

 このままずっと皇帝が来なければ、後宮の女達は無駄に年を重ねていくだけなのだから。美しさも位階の基準とされる妃嬪達にとって、これほど恐ろしいことはないだろう。


「宮女の私には関係ない話だわ」


 宮女でも皇帝に見初められれば一足飛びに妃嬪に冊封されることもあるが、紅林は元からそのような希望も期待もない。

 できれば一生会いたくない相手である。


「さて、掃除も終えたし。今日はなんの花にしようかしら」


 紅林は池のほとりに咲いた花を見渡し、その中から真っ赤に咲いたひなをぷちんぷちんと摘み取っていく。充分な束になったところで北壁の際――木々に囲まれた閑静な草地の一角へと向かった。

 そこには昨日供えた白詰草が、少しくたびれた様子で置かれている。


「まさか本当にこうして、かつて暮らした場所に花を供えられるようになるなんて」


 紅林は王都で日課としていた母へのきょうを、宮女になってからも続けていた。


「私にとったら誰にも会わずにすむし、お花にも困らないし、仕事にかこつけていつでも供花できるし、最高の仕事場だわ。まあ……一人で掃除するには、ちょっと広すぎる感は否めないけど……」


 北庭の掃除係が紅林一人しかいない理由は、ちょっとばかし意地悪な宮女長が紅林だけを配したのか。それとも他の掃除係が、紅林と一緒なのを嫌がって勝手にさぼっているかだ。

 だが、掃除を一人ですることよりも、その他の環境が良すぎてまったく問題ではない。


「災い転じて福となすって言うのかしらね」


 思わぬ展開に喜びを口元に浮かべながら、紅林が雛芥子を置こうとした時だった。


「おい、そこの宮女。そこで何をしている」

「――ッ!?」


 背後から不意にかけられた重低声に、紅林は心臓が口から飛び出しそうになった。

 まさか誰かいるとは思わず、しかも、聞こえた声が男のものだったから。


 ――待って。男……って、まさかそんな……!


 後宮にいる男といえば――最悪の答えが脳裏に浮かぶ。

 紅林は振り向くこともできず、身を強張らせ、次第に早くなっていく己の心臓の音を耳の奥で聞いていた。


「そこに毎日花を置いていたのはお前か」


 男の腹に響くような低い声音は、先ほどよりも近い場所から聞こえた。

 草を踏むサクサクとした足音が次第に近くなる。


 ――どうして、こんな後宮の端に……っ!?


「だんまりか……なんとか答えたらどうなんだ」


 まったく反応を返さない紅林に、男の声も苛立ちはじめる。

 近づく足音が紅林の真後ろで止まった次の瞬間、「おい」と、紅林の腕は乱暴に引っ張られた。


「痛……っ!」


 腕を強引に引かれた反動で、手にしていた雛芥子の花が二人の間に舞い散る。

 赤い花弁がひらひらと羽のように落ちる中、向こう側には花と同じ色の目をした青年がいた。


 ――火……みたい。


 青年の赤い瞳に、掴まれた腕の痛みも忘れ、どうしてかそんな呑気な感想を抱いてしまった。もしかすると、赤い花が舞い散る幻想的な光景に呑まれたのかもしれない。

 しかし、その感想も一瞬。


「女、何者だ」


 本当、後宮ここは思わぬ展開が続く場所だ、と紅林は背中が冷たくなるのを感じた。


 ――最悪……っ。


 母を、自分を殺した男になど絶対に会いたくなかったのに――と、歯痒い気持ちで奥歯を噛もうとしたが、紅林は彼の出で立ちに違和感を覚えた。

 よく見れば、青年は武具を纏っている。それだけではない。身に纏う衣は絹ではないし、足元も衛兵などが履く長靴だ。冠も被っていない頭は、髪を高い位置で簡素に結われ背中に垂らされている。


 ――……あら?



「もしかして、衛兵……の方でしょうか」

「それ以外に何がある」


 密かに紅林は安堵の息を吐いた。


 ――そうよね。皇帝がこんな真っ昼間から後宮にいるはずないじゃない。


 しかも、妃嬪の宮もない後宮最北。こんな花と草と水しかないところに、皇帝の用事などあるはずがない。


「それよりも、まず俺の質問に答えろ」

「……っ!」


 しかし、一難去ってまた一難。

 紅林の腕を締め上げていた男の手の力が増した。


「見回りに来るたび、そこに置かれている花が変わっていた。それは何を意味するものだ」

「意味って……別にそれは……っ」


 赤い瞳の奥で焰が揺れた。

 チリ、と肌を焼くような緊張感が二人の間を満たしていく。



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