第11話 後宮入りの謎

「ごっめんねえええ、紅林!」

「うっ!」


 仕事を終えて宿舎に帰ってくれば、入った瞬間、身体に予期せぬ衝撃を受けた。

 衝撃の重さに、自分でも驚くほど低い呻きが漏れた。


「っそんなに慌てて、一体何事なのよ……しゅきょう?」


 腹部に巻き付いた、自分よりも頭一つ分小さい同僚――朱香を見下ろせば、彼女は目を潤ませて見上げてくる。


「ごめんね、紅林。昼間、また宋賢妃様に絡まれたんでしょ。私のせいで宋賢妃様に目を付けられたからだよね!? 本当なんて言ったらいいか……うぅっ」

「もうっ、そんなはずないじゃない」


 申し訳なさそうに眉尻を下げる朱香の頭を撫でながら、紅林は肩をすくめた。


「元々、私自身が彼女には嫌われているんだから。朱香の件は関係ないわよ」


 紅林は嫌われている原因を示すように、軽く頭を振ってみせる。一切の濁りない純粋な白が朱香の目の前で揺れた。

 宋賢妃は、貴族家門の出ということを鼻に掛けたところがあり、そのため身分が下の者をいたく雑に扱うところがある。もしかすると、朱貴妃に突っかかるのも性格が違うからだけでなく、朱貴妃の出が宋賢妃よりも低い豪商の出というのが関係しているのかもしれない。


「でも、前よりずっと、紅林に言いがかりを付ける回数は増えたよね」

「そ、それは……」


 以前、朱香が何か粗相をしてしまって、宋賢妃にこっぴどくどやされているのを通りがかった紅林が助けたことがあった。確かに、そこから宋賢妃の嫌みを聞く日は増えたと思う。


「別にいいのよ、私は。この髪色に向けられる悪意には慣れたし。それに、この程度の嫌みなんて可愛いものよ」


 昔の後宮のほうがもっと陰湿で、もっと汚かった。宋賢妃の口だけの嫌みなど、痛くも痒くもない。そう言っても、朱香の表情は晴れない。唇を尖らせ、伺うようにじぃっと見上げてくる。


 ふわふわとした朱香の赤茶けた猫っ毛が、首筋で揺れてくすぐったかった。朱香は同い年だというのに、どこか幼い雰囲気が残る宮女だった。頬の淡いそばかすがそう見せているだけかもしれないが、こういう感情のままに涙ぐむ姿を見れば、幼いというよりも純粋なのかもしれない。首筋のくすぐったさに我慢できず、紅林はそれに、と笑みを漏らす。


「朱香とこうして友人になれたんだし、私にとってあれは、感謝すべき出来事だったのよ」


 だから気にしないで、と言えば、朱香は一度眉を大きく上げ、すぐに眉宇を垂らし照れくさそうにしていた。もう口元も尖ってはいない。


「私も紅林みたいな友人ができて嬉しいよ」

「ありがとう、朱香」


 まさか、自分に友人などというものができるは思ってもみなかった。

 後宮に入ったことは誤算だったが、これは紅林にとって嬉しい誤算であった。というより、紅林の後宮入りは、予想以上に暮らしやすいものだった。宮女達の間での紅林の扱いは、王宮の外のものとそう変わらない。それでも、外での生活よりも随分といい。


 後宮は、一度入ると自らの意思で出ることはできない。厳密に言えば、罪を犯したり、皇帝が代替わりしたりすれば出ることもできるのだが、ちょっとやそっとのことで役目を解かれることはない。つまり、誰にも衣食住を脅かされず暮らせるということだ。おかげで随分と気持ちが楽になったものだ。心の余裕が違う。


 髪色を必要以上に気にすることもしなくて良くなったし、こうして、髪色を気にせず優しい言葉をかけてくれる朱香や、分け隔てなく扱ってくれる朱貴妃もいる。もしかすると、過去一番の生活環境の良さなのかもしれない。


「それにしても、宋賢妃様に会うたびに小言言われたんじゃ堪ったもんじゃないよね! ネチネチ小言が多いし長いし」

「ふふ、そうね。彼女の小言はどうでもいいけど、近くにいた他の宮女たちが巻き添えになるのはちょっとね……」


 宋賢妃に絡まれるたびに、自分への鬱憤が溜まっていくのなら勘弁したい。


 ――騒ぎとか、本当ごめんだわ。


 すると、紅林から離れた朱香は、腕組みして「んー」と唸る。


「じゃあ、掃除場所を変えてもらったらいいかも。宋賢妃様が来ないような……あっ、北庭とか良さそう! 私、宮女長に変えられないか掛け合ってくるね!」

「えっ、それなら私が自分で行くわよ」

「大丈夫大丈夫! 紅林は先に食堂に行ってて」


 紅林に手を振ると、朱香はあっという間に宿舎を飛び出ていってしまった。


「まったく、あの子ったら……」


 ふっ、と紅林は目元を和らげた。

 恐らく気を遣ってくれたのだろう。宮女長も他の宮女同様、紅林に忌避の目を向ける者だから。

 紅林は、肩口に流れる自分の髪をつまんだ。

 老人の白さとも違う、雪に染まったような色。

 この国では不吉の象徴である狐憑きの証。

 狐憑きは不幸を呼ぶと言われている。


『ここ後宮にいるということは、内侍省が許可をしたということ。それはつまり、陛下がお許しあそばれたも同じこと』


 そう、朱貴妃は言った。

 しかしそのとき、紅林は伏せた顔の下で自嘲していた。

 宮女というものは、募集の公示がなされ適性試験が行われた上で、合格した者だけがなれるものである。

 そこから先はまた、家柄や身分などで女官や宮女と割り振られていったりと色々あるが、ひとまず後宮に入るには、何よりも適性試験を突破しなければならない。

 だが、紅林は花楼を出る時点で既に入宮が決定していた。




 楼主に『お前は宮女になるんだ』と告げられた時、紅林は間髪容れずに『無理です』と返した。同じ民にすら気味悪がられる狐憑きなど、治安と品格が重要な後宮に誰が入れたがるのか。もしかすると、宮女募集の噂を聞いて支度金欲しさに思いついたのかもしれないが、前提が無理な話だ。

 しかしそう言うも、楼主と女将は自信満々に『大丈夫だから』と笑うばかりだった。


『王宮のとある高官様が、お前を宮女にしてくださるんだと』


 話を聞けば、そのとある高官は花楼の妓女の身請けを望んでいたらしい。

 妓女の身請け金をぽんと出せる財力のある高官。今後の付き合いを考えても、楼主に断るという選択肢はなかった。

 しかし、高官の方が身請けに際し条件をつけてきた。


『私の可愛いにゃんにゃんが、例の狐憑きの娘を店から追い出してくれないと嫁がないと言っているのだよ』と。


 身請け金がほしければ、紅林をクビにしろということだった。

 妓女達から疎まれているのは知っていたが、店を出て行く最後まで嫌がらせをするのか、と美しくとも心も同じとはいかないのだなと紅林は思った。

 そしてこの時、高官は条件と一緒に、紅林を宮女にしてはどうかと提案していたらしい。

 紅林をただクビにするだけではもったいなく、近々行われる宮女募集で出せば支度金ももらえるから得しかない、とでも楼主に吹き込んだのだのだろう。しかし、白い髪の紅林は普通に行ったところで弾かれる可能性がある。そこを楼主が心配すれば、高官は自分の地位ならどうとでもできる、と言ってのけたということだった。

 常日頃、紅林を追い出したくて堪らなかった女将は喜んで話に食いつき、楼主も妓女の身請け金だけでなく、宮女の支度金まで手に入ると知り、躊躇わず高官の話しにのった。

 


 

 そうして晴れて妓女と高官は結ばれ、紅林は後宮へと半ば身売りのようなかたちで宮女となったのだが。


 ――それにしても不思議な話だわ。宮女の採否をどうとでもできるだなんて。結構上の官吏だろうし、普通ならそんな人が不幸を呼ぶって言われてる者を、なんの見返りもなく後宮に入れるかしら……。


 腕を抱え、一人思案に没頭する紅林。

 しかし、高官が誰かも分からない状況では、いくら考えようと相手の思考など読めるはずもなく。


「ま、どうでもいいわね」


 それよりも夕食の献立のほうが気になるなと、紅林は早々と考えるのを諦めた。


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