第10話 後宮の失せ物の犯人は?



 顔を上げることが許されておらず姿は確認できないが、皆にはその声だけで誰なのか分かった。

 宮女達の間に安堵の空気が流れる。


「あらぁ、これはこれはしゅ様じゃありませんか。こんな南側まで足を運ばれるとは、さぞお疲れでしょう? どうぞ足を止められず通り過ぎてくださって結構ですよ」


 宋賢妃の反対側からやって来たのは、彼女と同じ四夫人の位にいる朱貴妃であった。

 宋賢妃は手を横に大きく差し出し、「さあ」と朱貴妃に進路を譲ろうとする。

 しかし、それは決して敬いや親切心からではなく、邪魔をするなという意味だと誰もが気づいていた。

 後宮に配置される宮は、北側に行くほど高位とされる。

 当然、中央一番北奥に置かれているのは皇后の宮だが、今は空となっている。

 その次に北側に位置するのが四夫人の宮だが、四夫人内でも暗黙の序列があり、貴妃と賢妃では貴妃宮の方がより北に置かれる。

 宋賢妃は常々それを良くは思っておらず、何かと朱貴妃に噛みつくところがあった。

 安堵の空気も束の間、再び緊張を帯びたものになる。


「宋賢妃様、宮女が後宮内を掃除するのは当然のこととは思いません?」


 どうやら宋賢妃の怒声は、遠くまで響き渡っていたらしい。


「な、何よ急に」

「わたくし達が心地よく過ごせているのは彼女達のおかげでは。それを、宮に近づくなとは……宋賢妃様は、ご自分の宮の周りが汚れているほうが落ち着くのでしょうか?」

「はあ!? そんなわけないでしょ!」

「では、今回の件は誰も悪くありませんね。皆、自分の仕事をしていただけですから」

「だからぁ! 普通の宮女じゃなくて、あたしが言ってるのはその狐憑き――」

「宋賢妃様」


 ぴしゃりと朱貴妃の声が遮った。

 静かだが有無を言わせぬ重みがある。


「彼女がここ後宮にいるということは、内侍省が許可したということ。それはつまり、陛下がお許しあそばされたも同じこと」


 朱貴妃の言わんとしていることが分かったのか、宋賢妃はぐっと声を詰まらせていた。


「陛下が後宮に入れると決められた宮女を愚弄するのは、それすなわち陛下への愚弄も同じことでは?」

「……っ!」


 分が悪いのは、どこからどう見ても宋賢妃であった。


「も、もういいわよ!」


 宋賢妃は癇癪的な叫びを上げると、踵を返し自分の宮へと戻って行ってしまった。

 侍女達がバタバタと後を追いかける足音が聞こえなくなれば、ようやく場に完全なる安堵が訪れる。


「さあ、皆さん。もう仕事に戻って大丈夫ですよ」


 鳶色の緩い巻き髪と蜜色の瞳。常に薄ら微笑まれている口元と、朱貴妃は声だけでなくその姿まで宋賢妃とは対照的であった。

 もちろん、性格も容姿を模したように穏やかそのもの。

 宮女達は皆、裏で宋賢妃の悪口は言っても、朱貴妃のことは決して軽んじない。

 だから宮女達は、本当はここで紅林に一言くらい文句を言いたかったのだろうが、朱貴妃の手前、睥睨するだけで仕事へと戻っていった。


「朱貴妃様、誠にありがとうございます」


 紅林は今度は謝罪ではなく感謝に頭を下げた。

 もし彼女が通りかかってくれなかったら、腰を痛めてしまうところだった。

 朱貴妃は「気にしないで」とふわりと笑うと、しとやかな歩みで貴妃の宮――紅緋宮へと去って行ってしまった。

 皆が去ってしまった場所で一人、紅林は宋賢妃の言葉を思い出していた。



「失せ物……ねえ」


 まさか、歩揺が足をはやして勝手に家出するわけもない。

 失せ物――というより窃盗は、後宮では昔から特に珍しいものではない。


「彼女達は、犯人が巣穴にため込んでるって思ってるようだけど、そんなはずないじゃない」


 林王朝の後宮でも失せ物の話は欲ある類いで、その行方もたいていの場合は同じだった。


「私が入った頃からっていうと、一ヶ月以上も盗みが続いているのね。なのに、内侍省は動いてもないだなんて……」


 内侍省は後宮を管理する部省であり、宮廷の官吏がその任にあたっている。彼らには後宮の綱紀を正す役目があるはずなのだが。

 王朝最盛期の緩んだ空気があるわけでもなく、末期の退廃した気勢でもない、できたばかりの後宮だというのに、窃盗がはびこるとは実にお粗末な仕事具合だ。


「内侍省まで報告がいってないのか、内侍省も取るに足らないことと思って放置してるのか、どちらかってとこかしら」


 林王朝の後宮を知る者が一人でも残っていれば、このような雑事はすぐに解決しただろうに。

 しかし、あいにく林王朝の後宮は、中の者たちもろとも全て燃えてしまった。

 この件は、経験者が全くいないことの弊害なのかもしれない。


「だからって、私がどうこうしてあげる義理はないわね」


 下手に口出しして、内侍省に目を付けられたくはない。

 それに、と紅林は宋賢妃たちが消えた方へ顔を向けた。


「あの調子じゃ、ばれるのも時間の問題だもの」


 紅林は疲れを溜息と共に吐き出し、仕事に戻った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る