第9話 ◆冷帝関玿

以前のは取り下げ、ここからが新エピソードになります。

――――――――――――――


 王宮の内朝に位置する、執務室を兼ねた皇帝の私的空間であるしょうしん殿でん

 翔心殿のすぐ近くには女の園が広がっているのだが、未だかつて皇帝がその花園へ夜伽を受けに行った試しはない。


「冷帝関玿」

「あ?」

「――と、最近では後宮でも呼ばれていることをご存じでしょうか」

「知らん」


 自分のことなのに無関心にそう言い切る皇帝に、宰相は額を抑えた。


「知らんですってぇ!? 後宮を再建するまで一年。女人を入れるまで五年。まさか夜伽まで十年……なんて言いませんよね! もう妃嬪入宮から三ヶ月が経つのに、一度も後宮を訪ねてませんよね!?」

「そうか」

「そうかぁ!? このままでしたら、妃嬪方のほうから愛想を尽かされてしまいますよ!」

「構わんな」

「構わんんん!?」


 関玿は興味はないとばかりにとことん無関心な態度をとり、こちらには目もくれず、持ってきた書類にばかり意識を向けている。

 おざなりな返答が「うるさい」の意思表示だということを、宰相は長い付き合いからしっかりと把握していた。

 本当は気づかぬふりして責め立てたいところだが。

 しかし、責めたところで、恐らく彼の後宮に対する意欲は微々とも増さない。

 むしろ余計に冷めていくだろう。


「陛下でしたら、どの妃嬪も喜んで宮の戸を開くでしょうに……羨ましい」


 このくらいのぼやきは許されて然るべきだろう。

 どれだけ自分が、後宮に女人を集めるために駆けずり回ったか。

 書類の文字を追う目は止めず、目の前の美男は鼻から薄い溜息を吐く。

 掻き上げた真っ黒な髪の下から現れた顔貌は、かつて馬を駆って剣を振り回していたとは思えないほどの繊細な美しさがある。

 北部特有の赤い瞳に、濡れ羽色の髪。薄い唇から吐かれる溜息にすら色香を纏っているのだから、正直もう嫉妬すら覚えない。


「今でこそ俺は皇帝なんて呼ばれているが、元はただの地方兵で一介の民に過ぎないんだ。お家柄の良い妃嬪達のほうが俺を拒むだろうさ」

「家柄には恵まれなくとも、顔は恵まれたんですから。使えるものは使ってください」

「断る」


「もうっ!」と、宰相は後頭部を乱暴に掻いた。

 せっかく纏めていた藍色髪もあっという間にボサボサだ。彼と話すといつもこうなる。いっそのこと、短く切るべきなのか。


「後宮が頼みの綱だったのにぃっ!」

えい、うるさいぞ」

「誰のせいですか!」


 巷では冷血漢という意味で呼ばれている冷帝という渾名だが、後宮の女人達の間では、『女に冷めている』という意味で使われている。まったく、彼自身の妃嬪にすらそう思われているとは頭が痛くなってくる。


「俺は……まだあの日のことが忘れられないんだよ。行けばもっと忘れられなくなる」


 彼の顔が見ることができなかった。声音から、見てはならない気がした。


「あれから五年ですよ!? 過去でなくて今を見てください。もう、あそこには何も残っていないのですよ」


 目の縁を滑って、彼の瞳だけがこちらを向いた。

 彼の厳格さを表したような澄んだ瞳は、時として雪解けの水よりも冷たさを孕むことがある。

 宰相の背に雪解けの雫が流れる。


「へ、陛下は気にしすぎなんですよ。もう、義務だと割り切って行かれればよろしいではありませんか」


 ハッと鼻で笑う声が聞こえた。


「それができたら苦労しない」

「……陛下は優しすぎます」

「一つの椅子を手に入れるために、多くの犠牲を強いてきた俺が優しいはずないだろ」


 正直、これには言葉が見つからなかった。

 言葉で表わすのなら、間違いなくそうでしかないのだから。

 しかし、だからといって大人しく引き下がれはしない。


「国政も落ち着きましたし、その犠牲に報いるため……つまり関王朝を繋ぐためにも、陛下がまずやるべきことは後継者作りだと思いませんか?」

「ああ、確かに。それもそうだな」


 やっとことの重大さを分かってもらえたか、と安堵したのも束の間。


「だが断る」

「もうっ!」


 埒があかない。


「どうせ皆、俺ではなく、俺の肩書きが好きなだけさ。権力に目を輝かせる者と子をもうけることの危うさは、前王朝でたっぷり学んだだろう?」

「そんなこと言っても、もう皇帝の後宮にいる時点で彼女達は全員権力が好きなんですよ! 無茶言うな、このこじらせ野郎!」

「こ、こじ……!?」


 のれんに腕押し糠に釘状態に嫌気がさし、つい軍時代の言葉遣いが出てしまった。


「とりあえず百聞は一見に如かず。少なくとも二ヶ月後のこうでんまでには、夜伽とまでは言いませんが、必ず一度は行かれてくださいね。さもないと私は宰相を辞めます」


 彼は口をはくはくさせ、最後には、ばつの悪そうな顔で舌打ちをしていた。

 ここまで言えば大丈夫だろう。


「信じていますよ、陛下」



 

       ◆



 後宮があつらえられて三ヶ月。

 紅林が宮女として勤めだして、早ひと月が経っていた。


「ちょっと! そこの狐憑きの宮女は、あたしの宮の近くには配さないでちょうだい! 気味悪いったらありゃしないわ!」

「も、申し訳ございません、そうけん様……っ!」


 宋賢妃の怒鳴り声に、その場にいた宮女達は一斉に掃除の手を止め頭を下げた。

 彼女の言う狐憑きが誰を指すのか、その場にいた誰もが理解しており、皆、伏せた顔の下で巻き込まれた苛立ちをあらわにしている。

 ピリピリとした皆の視線が一人の宮女――紅林へと向けられていた。

 紅林が掃除していたら、間の悪いことに、ちょうど宮から出てきた宋賢妃の不興を買ってしまったのだ。


「まったく、なんでこんな不吉な女が宮女になれたのかしら。その可愛いらしい顔で、どこかの高官にでもおねだりしたのかしらねえ?」


 嘲弄が含まれた声音に、宋賢妃に付き従っていた侍女達も追従してクスクスと笑みを漏らす。

 しかし、紅林は悲しむことも申し訳なさに涙ぐむこともなく、密かに嘆息した。

 こういった手合いはまともに取り合わない方が良い。

 四夫人という、妃嬪の中でも最上位に位置する妃である。

 かつて紅林が紅玉であった時分にも、この手の妃はいた。


 彼女たちの矜持は総じて空よりも高いものである。たとえ謝罪の言葉でも、いったん口を開いたが最後。被せるようにして矢継ぎ早に口撃してくる。

 彼女達のような者は、得てして相手を黙らせられる権力を持っている、という自負に快楽を覚えるらしい。だから、頭を下げ謝罪の意は表しつつも、無言を貫き通すのが一番であった。


「あなた、翠月国の民よね。だったら一度くらいは狐憑きの話は聞いたことあるでしょう。それなのに、よくも平然と陛下のいらっしゃる後宮に入ろうだなんて思えたものね」


 しかし、一度上った血は中々下がらないのか、宋賢妃は紅林への叱責をやめようとはしない。

 紅林は、チラと目だけで宋賢妃の様子を窺った。

 きっちりと結い上げられた墨色の髪。前髪から覗く紫の瞳は妖艶で、尖った目尻と相性が良い。一言で言えば宋賢妃は美人なのだが、どうにも性格にも尖ったところがあり、癇癪的な物言いが多い彼女は、宮女からの評判はよろしくない。


「そういえば、近頃後宮で失せ物が頻発しているんだとか。とうとうこの間、うちのせいらんきゅうでもあたしの歩揺がくなったのよねえ。この騒ぎ、ちょうどあなたが来たひと月くらい前からだけど……何か知らないかしら?」


 実に白々しい言い方をする。はっきりと疑っていると言えばいいのに。


「申し訳ありませんが、私には存じ上げぬことです」


 あらそう、と意外にも宋賢妃はあっさりと引き下がったが、クスクスと聞こえる侍女たちの笑い声を聞けば、彼女がどのような表情で言ったのか予想もつく。


「賢妃様。きっと、後宮に忍びこんだ悪い狐が盗んでいったのでしょう」

「あらあら、じゃあきっと今頃、巣穴にたっぷりとため込んでいるのかも。内侍省に言って捕まえてもらわないとねえ」


 これは長くなりそうだ、と周囲にもうんざりとした空気が満ち始めた時。

 宋賢妃の尖った声とは対照的な、真綿のようにふわりと耳に心地良い声が場に落とされた。


「まあまあ、そのくらいでよろしいではありませんか。宋賢妃様」


 顔を上げることが許されておらず姿は確認できないが、皆にはその声だけで誰なのか分かった。

 宮女達の間に安堵の空気が流れる。


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