第三話 横山圭

 今日の道徳の授業では、とても良い話を聞いた。現実の価値を見つける、みたいな話だったと思う。

 経験機械と呼ばれる機械のことを完全に理解できたわけではないけど、校長先生はそれを分かっていたと思う。僕たちが完全に理解できるとは思ってなくて、それでも伝えたい事があったから、あの話をしたんだと思う。

 授業が終わった後、内緒話をするように、校長先生は僕に言った。

「放課後、校長室に来てくれませんか? 貴方のことをもっと教えて欲しいです」

 この先生は、不思議な人だ。教えてもらうのは僕の方だと思った。でも、僕も先生ともっと話したかったから、放課後は校長室に行くことにした。

 放課後、校長室の前まで来ると、急に緊張してきた。初めて入る部屋だったし、僕は凛以外と二人きりで話すことに慣れていない。でも、大切な事を教えてもらえる気がしたから、勇気を出して扉をノックした。


 その部屋では、本当に多くの事を教えてもらった。でも、校長先生はほとんど喋らなかった。短い質問をして、僕がそれに答える。その繰り返しだった。だから僕が知ったのは、自分の事だった。例えば彼は、僕の将来の夢について聞いた。僕は柔らかい一人掛けのソファに浅く座りながら答えた。

「僕は、バスの運転手になりたいんです」

「バスが好きなのですか?」

「ええ。多分」

「バスのどの部分が好きなのですか?」

 そんなこと考えた事もなかった。僕の家の近くには電車の駅がなく、バスをよく使っていた。だから、バスが好きなんだと思った。でも、よく考えてみると、そうじゃないのかもしれない。僕は、ゆっくりと考えながら言った。

「バスは、色んな人間を乗せてるんですよ。子供がいたり大人がいたり、男性がいたり女性がいたり。それで、やってることもバラバラなんですよ。携帯を見てる人もいれば、景色を見てる人もいる。そんな、バラバラな人間が、それでも同じバスに乗ってるんですよ。別々の所で乗って、別々の所で降りていく。それなのに、皆で同じ道を同じバスに乗って走っていく。それって、なんだか素敵だと思うんですよ」

 校長先生は僕の目を見ながら、適度に相槌を打って話を聞いてくれた。だから、とても話しやすかった。僕の言いたい事が、僕にもよく分からなかったのに、彼には全て分かっているような気がした。

 先生はたくさん質問をしたけど、少しだけ自分からも話をしてくれた。

「現実の価値は、やるせなさにあると私は思っています。そうでなければ、私たちは経験機械の問題を解決できない」

「どういう意味ですか?」

「私たちは、快楽ばかりを求めている訳ではないのですよ。人間は皆、実は心の奥では苦しみを求めている」

 なんとなく思い当たったことを聞いてみる。

「それは、悲しいことがあるからこそ、その反対の嬉しいことがより嬉しくなる、みたいなことですか?」

「そうかもしれません。でも、人間はもっと内在的に悲しみたがっているのではないかと私は思ってます」

 そんなことってあるのか?

 僕は出来る事なら、毎日楽しく生きていたいと思う。でも、僕はこの人の言う事を信じてみたいと思って、質問を続けた。先生は僕の事を根掘り葉掘り聞いてくるのだから、こちらも聞かなければ不公平だ。

「何故ですか?」

「毎日が天国のように甘ったるく、あまりに楽しすぎる世界を想像してみてください。私は、そんな世界に生きていたくはない。多分、あなたも同じだと思いますよ」

 それは、確かにそうかもしれない。

 でも、なんでだ? 僕がいつも悲しんでいるのは、昨日の夢に出てきたようなことだ。凛以外の人間には話が上手く通じない。使ってる言葉が違うのではないかと、何度も思ってしまう。僕は愛の話をしているのに皆はそれを茶化すし、道徳の授業では彼らは居眠りをしている。

 僕にとってその例外は、凛だけだ。凛は、凛だけは僕の言葉を理解して、それを世界と繋げようとしてくれる。

 凛だけは。彼女だけは――

 その瞬間。そこまで考えて。僕は、気がついた。自分に雷が落ちたような気分だ。見える景色が、変わった気がする。僕と、僕にとっての凛の事に、気がついた。心臓が、破裂しそうなくらい興奮している。だから、そのことが正しいのか確かめたくて、この動悸の正体をもっと知りたくて、先生の目を見て聞いてみた。

「それは、人が理由ですか? 僕には、とても大切な人がいます。彼女は僕の恩人なんです。きっと、その甘ったるい天国に彼女はいない。僕の弱さが、僕の欠点が、彼女との出会いをくれたんですよ」

 先生の表情は変わらない。真剣にこちらの話を聞いてくれていることは分かる。だから自信を持って僕は続ける。

「だから、悲しみたいっていうのは、人と繋がりたいってことなんですよね? 自分が弱ければ、彼女と繋がれる。何もかも自分の思い通りになる世界なら、彼女はいない。だって、いる必要が無い。でも、現実はそうじゃないんだ。僕はとても弱くて、不器用で、だからこそ彼女と繋がれている。そういう事なんですよね?」

「それは貴方が決めることですよ。私は君の言っていることが好きです。よく分かります。私たちは息継ぎを求めている。プールサイドで座りっぱなしなら息は苦しくないけど、それだと味気ない。水の中にいるからこそ、息継ぎの快感を知る事が出来るのです。そして、その方法を教えてくれるのが、自分以外の大切な人間だとなお良い。でも、この話には続きがあります。君は、今度はその人の事を助けてあげないといけない。助けてもらったら、助け返す。そしてまた助けてもらう。そうやって、人間は生きていくのですよ」


 こんな風に、僕は、僕自身について話し、僕自身と、凛の事を知った。

 僕自身の事を考えて、言葉にすると、その度に凛の事を考えた。彼女と出会った日の事も、その時僕が何を言ったのかも、よく思い出した。だから、彼女と話をしようと思った。

 校長先生にお礼を言って学校を後にすると、僕はすぐに、いつもの河川敷へ駆け出した。

 僕は、凛の内面を知らないはずがなかった。知らないはずがなかったのに、今まで考えてもいなかったんだ。彼女に救われてばっかりで、僕が彼女のために何かできるなんて、思いもよらなかった。

 だから、凛に、言わなきゃいけないことがあると思った。上手く伝えられるかわからないけれど、凛に、何か、言わなきゃいけない事があると、心から思った。

 いつも僕はホームルームが終わるとすぐに学校を出るから、僕の方が彼女よりも先に河川敷にいることが多い。今日はいつもより遅いから、凛はいないかもしれない。幸い今は六月で、日は長い。まだ明るいから、僕を待っているかもしれない。どっちか分からない。できることなら、彼女に会いたかった。彼女と本質的な会話をしたいと、僕は息を切らしながら思った。

 河川敷に着くと、すぐに凛を見つけた。



 彼女は、うずくまって泣いていた。だから、声の掛け方に迷った。凛が泣いているのを見るのは、二回目だった。一回目は入学式の日だ。彼女はめったに泣かない。もちろん彼女の生活の全てを知っているわけではないから、僕の知る限りでは、だけど。でも、今はそれが不思議な事だとは思わなかった。凛の事が、少しだけ前より分かった気がするから。

 彼女の涙を、止めたいと思った。だから、まずは彼女に声を掛けるところから始めた。僕は凛の隣に座る。

「泣いて、いるの?」

 凛はこちらに気づいていなかったようで、驚いたようにこちらを見た。でも、すぐに体勢を戻して、顔を隠した。そして、泣きながらくぐもった声で答えた。

「見たら分かるでしょ」

「どうして、泣いているの?」

 凛は一息に答えた。

「上手くいかないんだよ。圭が、君が教えてくれた事を守っていたつもりなのに、上手くできないんだよ。私は君にはなれないんだ。ねえ圭、私はどうすればいいのかな?」

 僕がしたかった話も、同じ事だった。だから迷わず、僕は答えた。

「あの日の話には、続きがあったんだよ」

「続き?」

「僕も、知らなかった。最近になってできた続きなんだ。君がいたから出来た続きなんだ」

「よく分からない」

 僕が言う事は、もう決まっていた。凛の涙を止めたかったから、僕は話し続けた。

「僕はあの日、弱さを認めて人に頼る、みたいな話をしたんだと思う。でも、最近までそれを忘れていたんだ」

「なんで忘れてたの? 私はそれを信じてたのに」

「君だったんだよ。僕にとっては、君こそが、その相手だったんだ。でも、だから忘れていたんだ。僕にとっては君がいることなんて当たり前で、君の大切さを忘れていたんだ。君が僕を繋いでくれていたことを、忘れていたんだ。でも、今思い出したんだよ。僕はずっと、君に救われていたんだ」

 凛は何も答えない。顔も見えないから、何を考えているのか分からない。でも、きっと僕の伝えたい事が、ほとんど愛みたいなものが、彼女にだけは伝わると信じて、僕は続ける。

「だから、あの話の続きは、僕と君が助け合うことなんだよ。僕に、君を助けさせて欲しい。君の事をもっと教えて欲しい。君の涙のわけも、君の弱さも、全部知りたいんだよ。そして、迷惑じゃなければ、これからも僕の隣に居て欲しい。いままでそれを言わなくてごめん。もっと、君の話を聞きたい。僕に、君を救わせて欲しい。僕の事を、頼って欲しい。僕は、君の前ならこんなにも堂々としていられるんだよ。僕には、君が必要なんだよ。君にとって、僕がそうならとても嬉しいんだ」

 ここで、言葉に詰まった。これ以上言葉が紡げなくなったから、隣に座っている、凛に聞いてみることにする。

「凛は、僕のこと、どう思ってるの?」

 僕らはこうやって、支え合っていたいんだよ。凛に支えてもらいたいんだよ。言葉が出てこないから、凛を頼る事にした。

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