第二話 笠井凛
横山圭は、背が低い。猫背でもあるから、かなり小さく見える。声も小さいから、存在感が無い。ちなみに眼光は鋭い。
彼は学ランがよく似合う。もう二年生になったのに、まだブカブカのままの学ランが。彼の真っ直ぐさを表しているみたいだ。圭は、見た目なんかに気をつかうやつは馬鹿だと思っているのかもしれない。真っ直ぐひねくれている。
私は彼の内面をよく知っているつもりだ。彼はとても不器用で、自転車にも乗れない。でも、凄く多くの事を考えている。彼が考えているのは、変だけどとても大切な事なんだと思う。でもそれを他人に上手く伝えられないから、クラスでは浮いている。クラスというか、世界から浮いている感じがする。家ではどんな感じなんだろうか。
圭は私以外に友達がいないけど、それを気にしていないらしい。本人がそう言っていた。でも、私は嘘だと思っている。彼は孤独に溺れている、と私は思っている。勘違いかもしれないけど。
学校ではいつも息を殺している圭だが、彼は国語と道徳の成績が良い。道徳の成績、なんて言い回しは不自然だけど、他に言いようもない。
中学校の道徳の授業というのは、とても退屈だ。そもそも先生にやる気が無い。もちろん生徒にもやる気が無い。誰のための何の時間なのだろう、と私はよく思う。でも、圭だけは違う。多分彼は、道徳の授業のために学校に来ている。笑っちゃうような話だけど、本当に。思いやりの大切さみたいな歯が浮く話を、彼だけは目を輝かせて読んでいる。
さらに、これはとても意外な話なのだが、彼は道徳の授業では手を上げて発表をする。道徳の授業というのは、誰も手を上げない中で、なんとなく薄い正義感のある子が発言する、みたいな場だと思っていた。
でも彼は、本気で思いやりのことを考えている。思いやりについて誰より真剣に考えている彼に、私以外の友達がいないのは一体どういうことなんだろう。かく言う私も、圭と一緒にいて思いやりを感じたことは無い。彼は本質的に不器用なのでしょうがない、という事にしておこう。
私は友達が多いが、親友と呼べるような人間は圭しかいない。例えば、声優礼賛への違和感、みたいな話は圭にしかできない。
入学式の日に圭に救われたから、私には友達が多い。その圭には友達がいないし、彼は多分入学式で私と何を話したかなんて覚えていない。
だから、私は圭に憧れている。彼はよく分からない人間だけど、多分すごく真っ直ぐなんだと思う。その真っ直ぐさに近づきたいけど、私にそれが出来る気はしない。なんとなく。
その日の道徳の授業のテーマは、いつもより難解だった。担任が風邪をひいて、代わりに校長先生が授業をしに来たのだ。校長先生は久しぶりに生徒に授業をするらしく、とても張り切っていた。
校長先生は、深いしわが刻まれた笑顔とピンとはった背筋が印象的な黒髪の男性だ。ジェルでぴっちり固められたオールバックが清潔感を演出している。
先生は、小さな声で、でも確かな自信をもって話した。胸を張って話すのだから、声は大きいのかと思った。予想外の展開だ。
「経験機械、と呼ばれる機械があります。実際には無いけど、あると仮定します。その機械は、私たちにあらゆる快楽を与えてくれます。私たちの理想の生活を送らせてくれます。でも、実際の私たちは脳に電極を付けられて、タンクの中で漂っているだけです。現実ではない世界で、夢の生活を送ることができるなら、皆さんはそれを望みますか?」
圭の好きそうな話題だ。結局その授業では、校長先生と圭だけが50分間話し合っていた。圭は何度も手を上げて発言した。他の誰も話さないので、授業の後半は手を上げることなく立ったままだった。意外と度胸がある。夢中になっているだけか。
圭は何度も言葉に詰まっていたが、校長先生は彼の言葉を優しい相槌で待ち続けた。圭も校長先生も声が小さいので、クラスのほとんどは船を漕いでいた。私は、二人の話を耳を澄ませて聞いていたが、二人の言う事は半分ほどしか理解できなかった。
チャイムが鳴って授業が終わっても、二人は話していた。授業中は、発表している生徒と先生だったので声が私にも聞こえていたが、授業が終わると二人は黒板の近くで内緒話をするみたいに話をした。私にはその内容は聞こえない。
そのとき、クラスメイトの莉子が後ろから話しかけてきた。
「凛、次音楽だよ。移動」
「ああ、うん。行こ」
圭にずっと気を取られていたので、急に現実に戻ってきた気分だ。莉子は切れ長の目をこすりながら言った。
「校長が来るっていうからビックリしたけど、寝れてラッキーだったわ~」
「そうかな。面白い話だったよ」
「え、マジ? キモい話してるなあぐらいにしか思ってなかった」
私は少し眉をひそめた。移動教室の準備をしながら言う。
「莉子も圭を見習いなよ」
「凛って横山君のこと好きなの? いっつもあの子の話してない?」
「好きとかじゃないよ。尊敬してるんじゃない?」
莉子は私の言葉に面白そうに笑った。失礼な子だ。リコーダーが見つからない。
「横山君も変わってるよね。あんなに浮いてるのに、道徳と国語だけ発表するってどういうことなの。道徳とか罰ゲームでしか発表したことないよ」
私は眉をひそめた。これ以上、莉子と圭の話をしたくなかった。私は強引に話を変えた。
「そういえば、莉子って数学の課題終わったの? もう写させてあげないって約束したよね?」
「うわ。話変えないでよ。多分終わると思うよ~」
多分ってなんだ多分って。絶対終わんないじゃんこの子。ようやくリコーダーを見つけた私は、莉子と教室を出た。
圭は、まだ校長先生と話をしていた。彼は、今までに見たことのないような笑顔を先生に見せていた。世界の秘密でも解き明かしたような笑顔だった。
私の心には、棘が刺さっていた。
どうしてだろう。
その日の昼休みの事は、思い出したくない。とても嫌な事があった。廊下を歩いていると、聞き慣れた声がした。
「凛ってさあ、なんか無理して私たちについてきてる感じしない?」
「うわ分かるわ~。空気読めてないのバレバレなんだよね」
一人の声は莉子のものだった。私は酷い眩暈に襲われた。
「あの子いると会話の内容なんかずれるよね。黙って聞いてりゃいいのにいちいち口はさんでくるし」
「まあ、あの子の家片親らしいから、優しくしてあげよーよ」
「あ、そうだったんだ。全然知らなかった」
「らしいよ。私も最近知った。重大発表みたいな感じで話してきたんだけど、いやそんなん興味ねえっつーの」
二人はケタケタと笑う。私の眩暈は加速し、立っていられなくなった。
この世のものとは思えない嫌な笑い声は、私の中の大切なものを踏み潰していった。私はそれを必死に守ろうとしたけど、だめだった。
その放課後、河川敷に行くと、圭はいなかった。それは珍しい事ではない。私たちは約束して会っているわけではないし、私だってここに毎日来ているわけではない。この河川敷は私にとっても圭にとっても通学路ではないため、来れば必ず会えるというわけでもない。
でも、今日は彼と話をしたかった。
自分が本当に大切にしていたものが、壊れてしまいそうなんだ。君にあの日貰ったものを、壊してしまいそうなんだよ。
だから、今日は彼と話をしたかった。圭の真っ直ぐさと、あの小さくてもよく通る声に触れたかった。自分が本当に大切にしているものを、彼に守って欲しかった。
なんだか泣いてしまいそうな気がして、嫌になる。私は、何に悩んでいるんだろう。
私は、本当は友達付き合いなんて得意じゃないんだ。でも、圭からあの日大切なものを貰ったから、なんとかやってこれた。それなのに、なんでこんなに上手くいかないんだろう。
あの日、入学式の日、彼が教えてくれたのは、とても大切なことだった。
圭がここにいないから、私は自傷のようにあの日のことを思い出す。
*
入学式の朝、初めての中学校についた私は、とても不安だった。体育館の席でほとんど泣きそうにしていたと思う。この中学校は地元の二つの小学校から生徒が集まっているらしく、そのどちらにも通っていなかった私には、友達なんて誰もいない。私の周りの子は、すでに楽しそうに話している。入学式なんてものは、皆で様子を探り合う儀式じゃないのかよ、と私は心の中で毒づいていた。
私はその不安に耐えられなくて、家に帰りたかった。頭が痛い、とか適当な嘘をついて、今すぐこの不安から逃れたかった。でも、家には知らないおばさんがいる。私の母親らしいが、その時は実感がなかった。ちなみに、二年生になった今はその人は母親ではない。
体育館の中に居場所がなく、かといって仮病を使って家に帰る訳にもいかない私は、わずかな待ち時間をぬって、息継ぎをするように体育館の外に出た。もう体育館には戻りたくなかった。光り輝く太陽も青空も桜も、見たくなかった。私以外の全てが楽しそうにしているのが、嫌だった。
私は、体育館の裏に座り込み、一人で涙を流していた。
そこに現れたのが、圭だった。彼は私と同じように、苦しそうに体育館の外に出てきた。そして泣いている私に気が付き、迷わず声を掛けた。
「泣いているの?」
私は驚いた。誰とも関わりたくなくてここに来たのに、まさか初対面の子に声を掛けられると思わなかった。それも、私と同じく入学式から逃げ出してきたであろう子に。
「泣いてないよ」
私は、男の子に涙を見られた恥ずかしさで、顔をそむけた。
圭はそんなこと気にもせず私の隣に座り、小さな声で言った。
「大丈夫だよ。君の事はよく知らないけど、きっと大丈夫。人が人を惹きつけるのは、何かができるからじゃないんだ。何かができないからこそ、人は輝くんだよ。何もできない人間が、誰かに助けを求めるときに、人と人は繋がる事ができるんだ。だから、今泣いている君は、きっと誰かと繋がれる。君が誰かを頼れば、きっと君の周りの人は喜ぶよ。だから、大丈夫。安心して」
圭はゆっくりとそう言うと、こちらを向いて苦しそうに笑った。笑った理由はなんとなく分かるけど、苦しそうな理由はよく分からない。
でも、彼の言ったことは私にとって衝撃的だった。自分の弱さをそんな風に開き直って肯定するなんて、初めて知る考えだった。
というか、長尺でそんなことを喋った事が今思えば衝撃だ。圭には常識が無いのかもしれない。初対面の女の子にいきなり哲学を語ってはいけない、という常識が。
でも、私は彼の言った事を噛みしめた。ゆっくりと、全身で。
しばらく私は泣いていて、圭は私の隣で黙って座りこんでいた。やがて体育館の中で入学式が始まったことが音で分かったけど、私たちはずっと隣にいた。
*
圭は私に、弱さを認めれば人と繋がれる、と教えてくれた。だから私は、友達をたくさん作ることが出来た。自分の弱さを他人にさらけ出すことで、友達をたくさん作れた。でも、今の私は、一人だ。圭がくれたものを守っていたつもりだったのに、どうして上手くいかないんだろう。圭のいない芝生に座り込んで、私は一人で泣いていた。
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