第27話 絆

 スマホを睨んでフラフラ歩く似非デジタル星では、道案内も不要になった交番での惨劇などすぐに忘れられる。落とし物が必ず出て来たのは今は昔、道に落ちている物など、警戒はすれども拾って交番に届ける時代ではなくなった。かと言って放っとくでもなく、何が面白くないのか蹴とばすと爆発するか下水の奈落に堕ちる定めだ。巷はスマホ教、政治はカルト教、警察は理不尽教の時代である。

 しかしながら、事件も減り、静かになった六地蔵交番では、上杉所長が今日も福留正一・弥栄子夫妻のことを考えていた。妻の弥栄子は病弱の夫と連れ立ってよく街を散歩していた。カラス部隊と呼ばれた千葉からの行商で、銀座に通った弥栄子は温厚な夫とは対照的にいつも意気軒高だった。あの日の散歩中、喫煙の刺激に発作を起こす夫を見兼ねて交番に抗議に来た。そして馬淵巡査部長の逃げ腰の返答に怒りを抑えて蔑んだ眼差しを残しながら去って行った。夫は “袈裟掛けのマサ” と呼ばれる名うてのナガサ使いの猟師だった。

 上杉所長は一つの仮説を立てた。不死川が蕎麦屋の店主から聞いたという正一の猟の武器であるナガサで、獲物も気付かぬ速さで首を落としたという逸話が本当で、もし獲物が喫煙中の人間だとしたら、まず腕に激痛が走るより先に、タバコを吸っている手首が無くなっている事に気付いて驚き、後から来る激痛で絶叫するというパターンかもしれない。では、どうやってターゲットの喫煙者を見定めたのだろう。正一は喫煙者が遠くにいても発作を起こして苦しむ。そんな状態では加害行為など不可能だ。妻なら若かりし頃から慣らした丈夫な体でターゲットを絞り込める。場所を特定してからすぐに夫に連絡して “袈裟掛けのマサ” を登場させれば、短時間で喫煙者の素早い手首狩りは可能だ。しかし、犯行は正一が他界したにも拘らず続いている。上杉所長は不死川巡査と同じ迷宮に入っていた。

 上杉所長にはそれでも引っ掛かっている事がある。弥栄子が馬淵巡査部長に対し、怒りに塗れた蔑んだ眼差しを残しながら去って行った事だ。あれは復讐を決意した目だ。では、元カラス部隊だった妻の弥栄子自身が黒装束で路上喫煙者を発見するや、鋭い “鎌” で手首を切り取ったのではないかという推理。鎌の切れ味はかなりのもので、農民は実に器用に鎌を使いこなす…が、その推理にはかなり無理がある。弥栄子はカラス部隊ではあっても農家ではない。鎌は使い慣れていない。

「ま、いいか…路上喫煙者がいなくなればそれでいいわけだからな」

 結局、上杉所長の推理はそこに行き着き、頭の中に散らかったままだった。


 久しぶりに散歩の老人・池之端兆慈が交番の前を散歩で通った。今日は拝む対象がいないっようだ。

「所長、ボーっとしてどうした?」

「ボーっとしてたか…認知症が迎えに来たかもな」

「そろそろ引退して寺に引っ越して来るか?」

「寺に引っ越す前に墓に引っ越しそうだよ」

「交番でパンパン、パンパン、大変だったようだな」

「ここは “デコ捨て山” といわれている心霊スポットだからな。いろいろ起きるんだよ。だが最近は何もない。こんなに何もないとボケる」

 上杉所長は六地蔵交番に配属されたばかりの頃、巡回中に散歩をしていた兆慈が、凶器を持った暴漢に襲われたところを救った過去がある。当時はまだ所長ではなかったが、上杉は見掛けによらず武闘派の面があり、かなりの大立ち回りを演じていた。その後、当時の所長の定年でその後釜に入って今に至っている。土地の資産家である兆慈は上杉に恩義を感じ、何かと自宅の大豪邸に呼んでは酒を酌み交わし、互いの志に共通性があることを知り、益々親しくなって行った。

 それから遡る事、上杉が “デコ捨て山” に流されて来たのは、本署刑事部捜査一課に勤務時代のことだ。上司・加納典明の不正に目を瞑らず、まだ若き勘解由小路均かでのこうじ ひとし監察官に不正を報告。加納は一ヵ月の減給処分だったが、上杉は六地蔵交番に流されたのだ。喧嘩両成敗と言えば体裁はいいが、明らかに落ち度のない上杉のほうが煮え湯を飲まされた結果となった。


 上杉が所長になって時が経ち、今になってあろうことか、その加納が六地蔵交番に流されて来た。警部に昇進したのも束の間、また同じ不正を働いて巡査に格下げの屈辱的な処分だった。かつて上司だった加納が部下になった。しかし、加納巡査は過去の上下関係を引き摺ったままの態度を取った。上杉所長は豹変した。

「規律を守れないなら今すぐこの交番から出て行ってもらうしかないな」

「昔の上司にそういう言い方はないだろ」

「この交番にあるのは “今” だけだ」

「…分かったよ」

「何だその答え方は!」

 上杉所長の声は交番の外にも轟いた。未だ誰も聴いたことがなかった所長の怒声で交番に緊張が走った。

「今すぐ退職願を出せ」

 静かだが上杉所長のドスの効いた豹変は、加納巡査を身震いさせた。

「申し訳ありません! 答え方が不適切でした!」

 目の前にいる上杉は最早、加納巡査の知る過去の上杉ではなかった。

「次に間違えたら…殉職してもらうからな、加納巡査」

 誰もが “殉職” と “退職” の間違いだと思った。加納巡査は恐る恐る言葉の訂正を促した。

「退職では…」

「殉職だ!」

「・・・!」

「…返事は」

「はい!」

 そして、いつもの上杉所長に戻った。

「清水巡査は卯月巡査と駅裏商店街の巡回だな。特に煙草を挟んだ手首の存在に注視してくれ」

「了解!」

 加納巡査には上杉所長の異様な言葉の意味が分かるはずもなかった。

「不死川巡査部長、商店会の役員の集まりに行ってくれ」

「了解しました」

 また定期的な商店街のイベントの準備がやって来ていた。不死川巡査部長らは交番を出た。入れ違いに金城巡査部長が巡回から帰って来た。

「ご苦労さん!」

「あの、自分は…」

 加納巡査が指示を仰いだ。

「新入りは立ち番だ」

「新入り…」

 加納巡査は思わず呟いた背中に殺気を感じた。恐る恐る振り向くと、上杉所長の鋭い視線が刺さった。加納巡査は金縛りの態で立ち番に就いた。

「さて、私は帰るか」

「所長、ちょっと待ってください!」

 奥で巡回記録をまとめていた烏丸巡査が上杉所長を止めた。

「なんだ?」

「さっき、不死川さんの事を “巡査部長” と呼びましたよね」

「ああ…それがどうかしたか?」

「“巡査” じゃないんですか」

「いや、不死川くんはもう “巡査部長” だよ」

「いつからですか !?」

「警察バッジに気付かなかったか?」

「え…」

「警察官として観察眼が緩いんじゃないのか?」

「・・・!」

「君らもうかうかしてたら給料は今のままだぞ。大卒者は勤続2年、大卒以外の者は4年で概ね昇任試験を受けることが出来る。不死川くんは高卒だから、ここに配属になって2年後に巡査経歴4年となって承認試験の資格を得て試験に受かった。口止めされてたから言わなかったまでだ。因みに私の今の階級は知ってるかな?」

「確か、警部ですよね」

「残念ながら…二つ上の警視正だ」

「え !?」

「オレだって上層部にはその程度に昇進する圧力を掛けてくれるぐらいのコネはあるよ」

「コネですか…」

「コネに決まってるだろ、縦社会なんだから」

「…はあ」

「ぼやぼやしてると万年平で、クソ上司の人柱にされるよ。じゃ、頑張ってな」

 日勤の上杉所長はそそくさと帰って行った。烏丸巡査のぽかん顔に長期休暇を早々に打ち切って交番勤務に戻った天馬巡査が力なく笑った。

「この交番、弱肉強食の野生の王国かよ。ぼんやりしてられないよ」

「だな」

 烏丸巡査は立ち直りの早い天馬巡査が嬉しかった。警察組織としては異例の警部から巡査にまで格下げになった立ち番の加納巡査は、吹く風にすら避けられているような疎外感に陥っていた。


 上杉所長が宝福堂の前を通ると、いつものように入り口のベンチに座った兆慈が声を掛けて来た。

「やっと来たか、所長。下駄を預ける相手が決まったね。皆さん、首を長くして待ってるよ」

「後で寄らしてもらうよ」

 そう言って上杉所長は峯伏寺に向かった。墓前では「金菱組」の幹部ら数名が弔いの香を焚いていた。今日は「金菱組」先代組長・矢吹藤五郎の命日だった。矢吹藤五郎とは上杉所長の実父で、京平は母・日向子が息子の将来を思い、遠縁の上杉家に養子に出していた。

 幹部の矢野忠が上杉所長に気付いた。

「ぼん! ぼんですよね! 姉さん、ぼんが来なすった!」

 老いた日向子が振り向いた。

「京平…来てくれたのかい」

「…定年前、最後の命日だからな」

「もうそんなになったかい」

「ぼん、待っておりました!」

 幹部の矢野は先代の懐刀だった。先代亡き後、京平の実母である先代の妻・日向子を組長として日々死力を尽くして盛り立てて来たのは、直系の上杉頼久の組長就任を心待ちにしていたからである。

「矢野さん、自分はこの春、やっと定年です」

 胸がいっぱいになった矢野の目には涙が溢れていた。


 先代の口癖はいつも同じだった。

「いいか、京平。おまえはヤクザの頂点に立つんだ」

「ボク、組長になるんだよね」

「もっと上だ! ヤクザの頂点は組長なんかじゃない!」

「・・・?」

「やくざの頂点はな…警視総監だ!」

 その時の父の目は、京平の将来を描いて輝いていた。しかし、加納典明の不正に目を瞑らなかった京平の正義が、典明の父・加納太郎が本庁警視正という七光りビームの “たったそれだけで” 上杉京平の警視総監への出世街道は閉ざされた。

 デコ捨て山に流されて来た加納に対し、“次に間違えたら…殉職してもらう” という上杉所長の言葉はただの脅しではなかった。上杉が定年を迎える春が過ぎたら、不死川巡査部長に下駄を預け、デコ捨て山で生き恥を晒している加納に対し、「金菱組」組長として鉄槌を下すつもりでいた。それもこれも、上杉のターゲットはその先の加納太郎にある。


 寒さが緩み始める3月に入って勘解由小路監察官がまた六地蔵交番を訪ねて来た。その日は部下の小鳥遊奈々監察官も一緒だった。不死川巡査部長は気を利かせた。

「我々は巡回に出ます」

 一同を促して不死川巡査部長たち全員が巡回に出ると、交番は三人だけになった。

「何か厄介な事案でも?」

「今日は所長に結婚のご報告に参りました」

「え !?」

 と、二人を交互に見た。

「ええ、この春、ななしと…ななしって彼女のあだ名なんですけど…奈々さんと結婚します」

「そうなんだ! おめでとう!」

「それで、結婚披露宴のスピーチを…」

「私は直属でもないから、他にいらっしゃるだろ」

 上杉所長の指す “他に” は、紛れもない勘解由小路の飼い主の加納太郎だ。

「いえ、是非、上杉所長にお願いしたいんです」

「式はいつなんだ?」

「急なんですが、5月です」

「5月か…私は定年でここを離れた後だよ。スピーチには益々相応しくないだろ」

「構いません。上杉京平さんという人にお願いしたいんです」

 その頃は既に上杉は「金菱組」の組長だ。警察組織とは相容れない立場に立っている。しかし、幸せいっぱいのふたりに今、そうした事情を話せるわけもなかった。それに…加納の犬の魂胆には裏がある。

「定年後、長年の夢だった海外旅行で暫く日本を離れる事になるかもしれない。返事は少し待ってもらえないかな」

 上杉所長は返事を濁した。

「分かりました。良いお返事をお待ちしてます!」

 二人は上杉所長の了承を信じて帰って行った。上杉所長は5月になれば、“警察組織と相反する立場” になることに、改めて複雑な重圧を覚えた。ありのままを話すことが最も合理的だが、今はこの犬どころか誰にも自分の身の振り方を知られるわけにはいかなかった。


 交番の出勤に向かう烏丸巡査に一報が入った。

「半蔵か…緊急 !?」

 連絡を聞いている烏丸巡査の表情がきつくなった。交番に到着すると加納巡査は既に到着していたものの、八木沢の情報を裏付けるかのように確かに今朝の加納巡査の様子がおかしかった。

 いきなり巡回に出ようとする加納巡査を上杉所長が止めた。

「加納巡査…」

「・・・!」

「何か、報告事項はないか?」

「…特に」

「おかしいな…明日、この六地蔵交番が何者かによって破壊されるらしいがね」

 “何者か” とは典明の父・加納太郎警視正の息の掛かった犯グレ組織である。八木沢の情報は上杉所長も予期していたことである。息子が六地蔵交番に流され、所長の上杉如きの下で働かなければならないことを知った加納警視正の怒りは上杉頼久の交番に向かった。

「その情報はどこから !?」

「歳を取ると地獄耳になるんでね」

 加納巡査は “今日は交番に居ないよう” 父に言われた意味がやっと分かった。この交番は今日、異常事態が発生する…

「どうやら、加納巡査の出番だな。この交番を守るためにはただ一つの方法しかない。この場は泣く子も黙る本庁警視正・加納太郎のご子息にお任せしよう。皆の者は見えぬ位置からこの交番を監視せよ。後は頼んだぞ、加納典明くん」

「私一人に任されても…」

「君が居ればこの交番は攻撃されないんだよ」

 交番は “巡回中” の札を下げて閉じられ、烏丸巡査らは全員四方八方に散って行った。ひとり交番の中の加納典明は全身抑制帯で拘束されて身動き出来ない状態だった。父親の加納太郎が交番破壊を挙行すれば、息子をも破壊することになる。


〈『第28話 神隠し』に続く〉

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