第21話 散歩の老人

 一夜明けて真っ青な空の下、いつものように交番の前を散歩の老人が通って行った。その見慣れた光景に不死川巡査らは “ああ今日も元気だ”と安心した。散歩の老人の名は池之端兆慈というが、巡査たちは名乗らない相手の名前などに関心はなかった。

 兆慈は地元に住む隠居老人で、地域の資産家に生まれて以来、金に困ったことはない。彼の今の正体が情報屋であるということは誰も知らない。ただひとり、上杉所長を置いては。本来、情報屋は金銭的に困窮しているか、何らかの事情で情報を提供せざるを得ない状況に置かれている場合が多いが、兆慈はその何れにも該当しない恵まれた老後を謳歌している老人だった。


 一般に警察組織は、捜査情報の報償費用として特別予算が組まれている。情報の報酬としては数千円から数万円の謝礼が支払われるといわれているが、広域捜査の逃亡犯の場合、事件解決に繋がる情報には数100万円程の特別報奨金が支払われる様になっている。従って、警察の捜査手法として“情報提供者”を活用することは極一般的なことではあるが、広義では警察に有力な情報を提供して捜査を援護することは市民の義務であり、如何なる市民も情報提供準備要因者といえる。しかし、自分の提供した情報によって検挙された側から逆恨みを買う可能性を考えると、一般市民にとっては警察への協力には日頃の信頼度と比例して限度がある。情報提供による二次被害を警察がどこまで阻止出来るかは甚だ疑問である。また、警察は組織犯罪対策として、他企業のように裏社会の人物などを暗黙の情報提供者として利用する場合もあるが、彼らの多くはタレコミがバレた場合、一般市民と違って犯人の逆恨みより裏社会による仲間内でのケジメで命に匹敵するリスクを負うことになる。一旦タレコミに手を染めた彼らが身を守るには、更なる情報源になって警察の “時に杜撰な擁護” に依存しなければならない悪循環が続く。

 警察の捜査以外に「探偵業法」で一般人の調査が許可になっている範囲がある。巨大規模の情報屋である経済調査の専門業『データバンク』(情報銀行)として生まれ変わった企業もあるが、規模の大小に関わらず、探偵業法では「聞き込み」「張り込み」「尾行」の3つだけは合法調査として認められている。SNSやブログによる本名や住所、電話番号、メールアドレス、掲載写真など自ら公開しているものの情報収集は問題ない。しかし、身分を偽って相手の個人情報を聞き出す行為などは、相手に損害を与える非合法な個人情報調査行為として罪に問われる。住民票、戸籍謄本、銀行口座、公簿書類、ローン残高、盗聴器の設置や盗撮の依頼、相手を貶める工作行為、名簿の買い取りなど犯罪に繋がる可能性があるものに関する調査は非合法となる…が、情報屋にとってはほぼ障害にならない自由な笊国家でもある。


 隠居老人の兆慈は交友関係の広さから、ふんだんな情報源に恵まれていた。この地域の郷士である池之端家は代々、峯伏ほうふく寺の地主でもあり、檀家だった。兆慈の妻・梅乃は器量好しの上、性格の温厚さから六地蔵小町と言われて人望も厚かった。この寺は、時の政権に絶滅に追い込まれた村人によって建立された “報復” の語呂合わせで命名された寺である。寺の運営を助けるために普請目的で村民の誰もが境内での開業を許可された折に、地主でもある池之端家も開業し、兆慈の父・朔太郎は峯伏寺の語呂合わせで “宝福堂” として雑貨屋を開店した。時が経つに連れて村民は、相談の要として宝福堂に集まるようになった。弁護士である兆慈の弟・一慧いっけいが宝福堂の片隅に弁護事務所を構え、揉め事や仲裁、外敵に対する弁護に至るまでを引き受けるようになって今日に至っている。


 兆慈の散歩の目的は、地域に点在するそれぞれ専門分野に精通した情報屋を周る一日の健康ルーティンの情報収集だった。最近、孫娘・凛華が散歩の同行をせがむようになったため、兆慈が交番の前を通らない日は、凛華が一緒の時だった。孫娘の手前、交番の先にある“いかがわしい店” の事務所には寄れないからだ。ところが今日は一緒の凛華がどうしても交番のほうに行きたいといって聞かなかった。それは自宅に上杉所長が来ている時に兆慈の話に出て来る交番での“ある話題”だった。“ある話題” というのは言うまでもなく、この世にいない存在の話である。凛華はそれが見たくて堪らなかった。

「誰にでも見えるものではないんだよ」

 兆慈がそう諭しても凛華は納得しなかった。仕方なく、凛華との今日の散歩は交番まで足を延ばすしかなかった。兆慈は交番前に立ち、凛華には見えないことが分かれば納得するだろうと思ったのも束の間、その様子は尋常じゃない感動に満ちていた。

「あれ全部この世にいない人 !?」

 兆慈は驚いた。凛華の言葉が聞こえた岩淵巡査部長は不快な顔をして兆慈を睨んだ。

「お孫さんですか?」

「はい」

「お嬢ちゃんは、私らをどんなふうに思ってらっしゃるのかな?」

「この子はあなた方には興味ありません」

「今、確か“全部この世にいない人” とか何とか…」

「ええ、あなた方の奥にね、“この世にいない人” が大勢見えているんですよ、この子にも」

「この子にも !?」

「はい、私にも見えています」

 岩淵巡査部長は認知症老人に虚言癖の子どもかと蔑み呆れ返った。

「あの中に、実はあなたも居るんです。つまり、もうすぐあなたも “この世にいない人” になるという前兆ですね」

「馬鹿な事を…」

「この人、死ぬの?」

「そうみたいだね」

「失礼じゃないか!」

 上杉所長が間に入った。

「岩淵巡査部長、大人げないことは…」

「しかしね、他人様ひとさまに “もうすぐ死ぬ” なんて常識を逸脱しているでしょ !?」

「あなたは死ぬんですか !?」

「死にませんよ!」

「なら何と言われようと聞き流せばいいだけのことじゃないですか? 相手はご老人とお子様ですよ」

 岩淵巡査部長は上杉所長に低レベルの諭され方をして、憤懣やるかたない溜息を吐くしかなかった。

「凛華、この人嫌い」

「好き嫌いは大切な防衛本能だ」

「ボウエイ !?」

「自分の事を守る心だよ」

「凛華にボウエイあるのね!」

「ある、ある、良かった、良かった」

 兆慈は笑って凛華の手を引き、散歩に戻って行った。

「何だ、あの爺様は…教育の仕方が可笑しいだろ」

 “可笑しいのはおまえだろ” と上杉所長は無言の微笑みを返した。


 上杉所長だけが情報屋である兆慈を知っているのは、兆慈が上杉所長専任の情報屋だからである。だからと言って報酬を受け取っているわけではない。金品と接待の恩恵を被っているのは寧ろ上杉所長のほうだった。上杉所長への重要な情報がある時は、上杉自身が池之端邸に呼ばれて馳せ参じた。池之端邸に赴いた時は金品と接待の恩恵も込みである。上杉所長が交番から何処かに消える時は、ほぼ池之端邸に馳せ参じる時である。実は不死川巡査のやんちゃな巡回ぶりの証拠隠滅も池之端一族のフォローが大だった。兆慈は地域の不合理に非合法やむなしで抵抗する不死川巡査を気に入っていた。不死川巡査を筆頭とする六地蔵交番の六人衆である天馬巡査、金城巡査部長、烏丸巡査、清水巡査、そして最近配属になった上杉所長の甥の卯月巡査らの勢揃いは、上杉所長の目論見でもあった。その一役を担ったのが兆慈である。兆慈は地域住民の精神の劣化に苦慮していた。世代交代による人心劣化と外部からの転入者による守銭奴臭で、この地域は多くの他地域同様、不心得者の巣窟へと向かい始めていたため、池之端一族の先祖が受け継いできた崇高な地域魂を絶やしてはならないという危機感に苛まれていた。一方、上杉所長は警察組織の不合理で辛酸を舐めて来た。このまま組織の横暴な怠慢に浸かっていたくはない。そのためには法を犯してでも守らなければならないことがある。上杉頼久と池之端兆慈はその改革の拠点を六地蔵交番に決めた。六地蔵交番の六人衆は偶然に集まって来たわけではない。同じ志を持つがために “デコ捨て山” と蔑まれる六地蔵交番に流されて来た中の選ばれしメンバーたちなのだ。そして組織の横暴にどっぷり浸かり過ぎて志を持てずに流されて来た鼻つまみ者は、六人衆に浄化の訓練を積ませる絶好のモルモットだった。


 三ケ月程が経った。兆慈が峯伏寺境内の参道伝いに軒を連ねる宝福堂の店先で寛いでいると火葬技師の入江一が現れた。

「…済んだか」

 兆慈の言葉に、寡黙な入江は無言で隣に腰掛けると、待っていたかの如き妻の梅乃が金粉入りの緑茶を淹れて出て来た。

「いつもご苦労様ね」

 笑顔の梅乃はいつもそう言っただけで気を利かせてすぐに捌けて行く。入江はそのお茶を啜るとやっと心が落ち着いた。不死川の幼馴染とはいえ、抹殺後の遺骨を峯伏寺の無縁墓地に連れて来るのはその度に心が痛んだ。入江にとって梅乃の出す緑茶はその痛みを洗い流すルーティンだった。ぼんやり銀杏の樹を見入りながらお茶を啜っていると、梅乃はそっと二杯目の緑茶を置いた。

「一杯茶は不吉」

 いつもそう言って入江の持つ茶碗を笑顔で受け取った梅乃は、またすぐに捌けて行った。

 秀吉の時代、一杯目は大きめの湯飲み茶わんにぬるめを出し、二杯目は少し熱めの濃い茶、そして三杯目は熱く二杯目よりも濃い茶を少量出すのがもてなしの作法とされた。落ち着いて味わえるようにという配慮だ。池之端家のもてなしの “一杯茶は不吉” も、代々その辺りから来ているのだろう。

 入江はいつも二杯目の途中で徐に立ち上がった。すると兆慈は無造作に彼のポケットに心付けを収めた。入江は丁寧にお辞儀をしてその場を去った。それが闇から闇への納骨のルーティンとなって久しい。疎らに散った銀杏の葉が、入江の足元を転がるように晩秋の音を立てて過ぎ去って行った。


〈『第22話 性能の悪い人』に続く〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る