第18話 ストーカー
真夏の暑さが落ち着いた深夜、天馬巡査が立ち番をして涼んでいると、女が駆け込んで来た。その女は誰かに追われているのか、息を弾ませていた。
「どうしました?」
「…匿ってください」
青褪めている女の名は北島礼香。天馬巡査は周囲を見回したが、疾うに終電もない深夜に出歩いている人影はなかった。
「周りには誰もいないようですが、誰かに追われていたんですか?」
「数日前から知らない人に見張られているんです」
「知らない人…」
「今日は腕を引っ張られました」
「ストーカーとか?」
「分かりません…怖くって…」
「そうですね…」
「被害届とか出せるんでしょうか…」
天馬巡査の応対に業を煮やした馬淵巡査部長が割って入った。
「加害者が特定出来ないと被害届は無理ですね。例えば、あなた自身で今日のような状況を記録し続けるとかすれば、犯人が確定して裁判にでもなれば、その記録が証拠扱いされますよ」
そこに烏丸巡査と巡回中だった清水巡査が帰って来て、礼香の意を察して口添えした。
「でも、今困っているんですよね」
「はい!」
礼香は清水巡査に頼る思いで返事をした。しかし、馬淵巡査部長はやめなかった。
「警察は事件が起らないと動けませんので、今お困りなら、専門機関に…例えば、弁護士とか探偵事務所にご相談されてみては如何ですか?」
「…そうですか…分かりました」
馬淵巡査部長の指摘は間違ってはいない。しかし、“匿ってください” とまで言って交番に駆け付けて来た住民の不安は増すだけのことだろうと天馬巡査は思った。気落ちしている礼香に掛ける言葉が見つからなかったが、取り合えず礼香を安全に帰宅させるしかなかった。
「これからどうやってお帰りになります?」
「タクシーで帰ります」
「そうするしかないですよね」
天馬巡査は交番にタクシーを呼び、礼香を帰した。
「男と別れたくて大ごとにしようとしてんだろ。放っとけばいいんだよ」
清水巡査は馬淵巡査部長の心無い一言にカチンと来た。
「馬淵巡査部長!」
清水巡査の抗議の声に馬淵巡査部長は怯まなかった。
「私の言ってることは間違っているとでも言いたいのかね」
「仰ることに間違いはありませんが、地域交番の警察官として何か欠けている部分があるとは思いませんか?」
「何が欠けているというんだね」
「不安で交番に来た住民を不安のまま帰すんですか?」
「仕方がないじゃないか、自分で蒔いた種なんだから」
「それはまだ分からないじゃないですか。本人に全く関係のない不可抗力だったらどうするんですか?」
「交番は人生相談の場じゃないんだ」
「事件は民事から端を発するんです。もう少し慎重に対応なさったら如何ですか?」
「君は私に意見するのかね!」
「清水さん、巡回に出ましょう」
天馬巡査が中に入って清水巡査を巡回に同行させた。
「何なんだ、あの女は!」
「“あの女” だなんて、パワハラになりませんか、馬淵巡査部長」
「知るか!」
その日以来、礼香は姿を見せなくなった。加害者の特定の有無に関わらず、犯罪は行われている。被害の影に怯えている人がいる以上、加害者の存在を想定しなければ事件の未然防止に至るはずがない。しかし、告訴や告発があったとしても、警察や検察などの捜査機関が捜査をする義務が発生するとは考えられていないのが現状だ。従って、馬淵巡査部長の判断のとおりであり、その対応に於いて非はなく、その延長線上に於いて、もし事件が勃発したとしても、その責任を問われることはまずない。そういった意味では警察組織とは警察官にとってとても安心な温室なのである。
さて、如何なる手合いをストーカーと呼ぶのか、被害者のダメージに繋がる行為を列記すると….尾行でのつきまとい、待ち伏せ、“見てる” と告げるメッセージ、無言電話、本人に無許可でのGPS機器による監視などがある。では、加害者が特定した場合の警察の対応はどうかと言えば、転居の勧め、ストーカー規制法に基づく禁止命令書の交付、携帯型緊急通報装置の貸し出などがあるが、何れも効果的な解決策には全くなっていない。
加害者に対しても具体的に監視や聴取は行われないので、ほぼ加害者は放置状態と言っていいだろう。そして、加害者は寧ろ禁止命令が出された後に凶行に走る。ストーカー被害者の危険は告訴告発したところで消えるどころか、寧ろそこから暴走するという結果が出ている。もし、ストーカーのターゲットにされた対象が万全の守備シフトを敷いたとしても、精神障害から来る性癖である以上、維持的にターゲットを替えるだけだ。ターゲットは一人ではない。加害者にとって “ふんだん” に存在する。
現に北島礼香へのストーカー行為に至っている男は、他に三人の女性にも目星を付けていた。近藤美香、添田しのぶ、大川理世の三人だ。三人には共通点がある。ともに同じ看護学校生だ。ストーカーの狩場は北島礼香を含めた四人が通う看護学校だった。
一週間ほどが経過して風が少し涼しくなった頃、不死川巡査の元・同僚の
「待ってたよ」
真っ先に声を掛けたのは意外にも上杉所長だったことに驚いたのは、以前に同じ交番勤務だった不死川巡査だった。“上杉所長がなぜ?” 不死川巡査に疑問が走った。
「卯月耕太巡査は私の甥だ」
不死川巡査は納得がいった。“卯月耕太が上杉所長の甥” …謎に包まれた上杉所長に少し近付けた気がした。
交番勤務を開始した卯月巡査は、交番近くの路上に放置されている自転車が気になった。
「誰かが置き忘れたんだろ。暫くすれば取りに来るよ」
巡回の度に卯月巡査は馬淵巡査部長にも岩淵巡査部長にも何度も報告したが、その都度放置を指示され、何となく違和感を感じるようになっていた。
「数日前からの交番記録を読ませていただきましたが、そろそろ調べたほうがいいんじゃないでしょうか?」
「気にし過ぎなんだよ、君は。たかが自転車だ。誰かが取りに来るまで待てばいいと言ってるじゃないか!」
「…分かりました」
岩淵巡査部長以上に卯月巡査の報告を拒む馬淵巡査部長に益々違和感が募った。
ある日、卯月巡査は馬淵巡査部長の判断に納得できず、独断で路上の放置自転車を調べた。そして自転車の荷台の籠を開けると、中から異様な臭気が溢れて来た。以前にも嗅いだことのある腐乱臭だ。卯月巡査は嫌な予感がしてその付近も捜索すると、すぐ近くの家の軒下に不自然に放置されたキャリーケースを見つけた。気が進まない気持ちを押して開けると、そこにも遺体らしき一部が入り、腐乱臭が呼吸器に纏わりついて来た。卯月巡査は馬淵巡査部長にも岩淵巡査部長にも報告せず、直接本部の鑑識課に連絡した。
鑑識の結果、腐乱したバラバラ死体であることが分かり、身元の確認は被害者が所持していた看護学校の身分証明書から北島礼香であることが判明した。本部から御馬舎刑事と東雲刑事、そして鑑識班が急行して交番は大騒ぎになった。
「卯月巡査、なぜ君は真っ先に私に報告しなかったんだ!」
最悪の結果に狼狽える馬淵巡査部長が卯月巡査を怒鳴った。御馬舎刑事が馬淵巡査部長を制して改めて卯月巡査に問い質した。
「卯月巡査、なぜ馬淵巡査部長に報告せずに、直接本部鑑識課に連絡したのかな?」
「再三に渡り、馬淵巡査部長にも岩淵巡査部長にも報告しましたが、お二方からは放置の指示を頂きました」
「馬淵巡査部長…きみは放置の指示を出したのか?」
馬淵巡査部長は無言だった。
「岩淵巡査部長はどうなんだ?」
やはり無言だった。卯月巡査は続けた。
「交番日記には私が配属される数日前から放置自転車の件が記録されていました。私が配属されて最初の巡回時にも放置自転車があり、再三報告しましたがその度にお二方は…特に馬淵巡査部長からは厳しく放置の指示を受けました。しかし、納得出来ず、本部の鑑識課に直接報告するしかありませんでした!」
「君は…」
ないがしろにされた不満が色濃い馬淵巡査部長が言い掛けた発言を金城巡査部長が遮った。
「私がそうするよう助言しました」
「余計なことをするな!」
「黙りなさい、馬淵巡査部長!」
御馬舎刑事が怒鳴った。
「不審な放置自転車が数日間に渡って不自然に駐車されてあったにも関わらず、何故卯月巡査の報告を黙認していたんだ、馬淵巡査部長!」
一同は馬淵巡査部長に視線を送った。
「それは…」
返答に困った馬淵巡査部長の微妙な反応を不死川巡査は見逃さなかった。
遺体や証拠物件も回収され、本部からの刑事や鑑識たちも引き上げていったので、いつもの巡回に出た不死川巡査は洋子の母に呼び止められた。
「何ですって !? 洋子さんがストーカーにって…いつからです !?」
母の話では洋子がストーカーから何とか逃げ切った夜もあったという。北島礼香が殺害されたことは言えなかった。同じストーカーが洋子にも迫っているかもしれないと不死川巡査に危機感が走った。
交番に残った金城巡査部長らは日勤の馬淵巡査部長を捉まえて食い下がっていた。同じく日勤の岩淵巡査部長はそれを横目に帰って行った。
「他にストーカー被害で相談に来た人はいませんでしたか?」
「居るわけがないだろ」
「居るわけがない !?」
「居ないよ!」
「そうですか」
「金城くん、私の対応に不満があるようだが、それは結果論だろ。住民の相談の時点でこのような結果になるなんて想像が付くわけがないだろ」
「このような結果にならないような対応があったとは思いませんか? 少なくとも卯月巡査は不振に思って報告しています」
「結果論だろ」
「…話になりませんね」
金城巡査部長は青木巡査に目配せして巡回に出た。天馬巡査と烏丸巡査もそれに準じた。入れ違いに不死川巡査が巡回から帰って来た。馬淵巡査部長はいら立ちを露わに、帰り支度をしている不死川巡査と卯月巡査に視線を移したが、不死川巡査はすかさず強い口調を飛ばした。
「我々はこれで」
一礼し、ふたりは非番の私生活に戻るべく馬淵巡査部長の八つ当たりを躱して交番を出た。
「上杉所長」
「何ですか?」
「彼らは私に全責任があるような腹積もりのようですが…」
馬淵巡査部長の言葉を遮るように答えた。
「そのようですね」
上杉所長の柳腰の受け答えに、馬淵巡査部長は怒りの気勢を削がれた。遠くから一番街商店街の原田大吉が走って来た。交番に辿り着くなり息が上がって言葉が出なくなった。
「どうしました、大吉さん」
大吉は震える手で一番街商店街を指差した。
「…また手首でも !?」
ジョークで言ったつもりの馬淵巡査部長の言葉に、大吉は大きく頭を振ってその場にへたり込んだ。
「馬淵巡査部長、すぐに向かってください!」
「私は日勤です。一番街商店街方面は金城巡査部長と青木巡査が巡回に出てます」
「そうでしたか、では私が出向きます。大吉さん、案内してください!」
「はい!」
大吉は我を取り戻して上杉所長を案内して走った。
「何なんだ、この交番は!」
一人交番に残った馬淵巡査部長の不平が交番に響くと、その背後に交番に棲み憑くデコどもの集団が現れた。その集団の手が一本肩に掛かった。馬淵巡査部長は日勤を終え、引き千切った腕が肩に掛かったまま交番を後にした。
「今夜は肩が重かろう」
いつの間にか交番の前に立っていた散歩の老人が馬淵巡査部長に呟いた。
「今日は大勢だ」
交番の奥を覗いた老人は溜息混じりに散歩に戻って行った。
帰宅した不死川は胸騒ぎで眠れなかった。外は既に真っ暗になっていた。
「…なんだ、この胸騒ぎは」
独り言を呟きながら、急に洋子の母の相談を思い出した。その頃、洋子は看護学校から遅番の帰宅の途にあった。後ろに不穏な気配を感じながら家路を急いでいた。“また誰かに付けられている”…看護学校仲間の北島礼香が殺されたという情報は早くから洋子たちの耳にも入っていたばかりでなく、同じ看護仲間の近藤美香、添田しのぶ、大川理世の三人も既にストーカーの影に怯えていた。もしかしたら、再び自分が美香の次のターゲットになっているのかもしれない…夜道を歩く洋子に死の恐怖が付き纏っていた。しかし、不死川にそうした個人的な相談をするにはまだ気持ちの上で距離があった。
今、後ろから来る足音が走り出した…と思った瞬間、ドスンと鈍い音がした。勇気を振り絞って振り返った洋子の目に、道路に倒れている二人の人影が見えた。いや、誰かが誰かに倒されて抑え込まれている。
「洋子さん、警察を呼んで!」
聞き覚えのある声だった。ナイフを握った男の腕を捉えて抑え込んでいたのは不死川だった。
「不死川さん!? どうしてここに !?」
「君のお母さんに相談されていたんだ」
「お母さんが !?」
「どうして相談してくれなかったんだ?」
「殺された友人が交番に行っても相手にしてもらえなかったって言うから…」
「殺された友人ってまさか !?」
「北島礼香ちゃんです」
「…!!」
不死川は絶句した。
「他にも看護学校のお友達が被害を被っているんです!」
「兎に角、110番!」
不死川巡査は馬淵巡査部長の対応の杜撰さに今更ながら怒りが込上げて来た。
本部での事情聴取を終えた洋子を自宅まで送ると、不死川に連絡が入った。卯月からだった。洋子の両親が引き留めるのに後ろ髪惹かれながら、卯月に会うことにした。
「お手柄でしたね。犯人の身元は分かったんですか?」
「篠塚
「数日前に見掛けて気になっていたんですよ」
「見掛けて !?」
「ええ…馬淵巡査部長を」
「いかがわしい店にでも入って行ったのか?」
「若い男と会っているのを見掛けたんです」
「若い男 !? 馬淵巡査部長にはそっちの趣味があったのか?」
「まじめに聞いてくださいよ、不死川さん」
「まじめに聞いてるよ」
「確かに、間柄は親しい感じでしたが…そういうのとは…」
「もしかしたら…」
「何か心当たりでもあるんですか?」
「馬淵巡査部長には離婚した奥さんとの間に息子が一人いるんだ。その彼じゃないのか?」
「息子か…でも、風体はまともではなかったです」
「警察官の息子だからまともとは限らないだろ」
「そうですよね…それにしても、まるで反社という風体でしたよ」
「だとすると、かつて馬淵巡査部長が逮捕した人間かもしれないね」
「それにしても、更生している感じでもなかったし…終始、馬淵巡査部長より上目線なのが気になったんですよ」
「上目線 !?」
「あ、それと、帰り際に馬淵巡査部長から封筒を受け取りました。受け取ったというよりは馬淵巡査部長が強引に渡したという感じで…現金かもしれません」
「現金 !? じゃ、強請られているとか…でも、親しい間柄だったんだろ !?」
「そう見えたんすけど…若い男は避けるように去って行きましたから強請っているようには…」
暫く考えていた不死川巡査が、絞り出すように呟いた。
「それ、結構やばいかもな」
翌日、馬淵巡査部長は交番に出勤する不死川巡査を待ち構えていた。
「不死川巡査、昨日、大取物があったそうだな。報告しろ」
「それが出来ないんですよ」
「何故だ !?」
「事件が解決するまで極秘扱いになりました」
「極秘扱い !? どうしてだ? 上司の私にも言えんのか!」
“上司だと !? ”…不死川の心に細やかな殺意が浮かんだ。
「さあ、自分にも分かりません。本署からの許可があるまで、例え所内の人間にも他言するなという指示を受けました。そう言えば、馬淵巡査部長」
「…何だ?」
「この間、馬淵巡査部長が息子さんと話しているのを街で見掛けましたよ? 仲良しなんですね」
馬淵巡査部長の表情が引き攣った。
「人違いだろ」
「いや、間違いなく息子さんでしたよ」
「君は私の息子の顔を知ってるのか?」
「ええ」
「出鱈目を言うんじゃないよ。私は息子となんか会ってない」
「そうですか !?」
「第一その時間、君は非番じゃなかったのか?」
「その時間 !?」
「・・・!」
「その時間っていつです?」
不死川巡査の引っ掛け質問に、卯月巡査は巡回ノートを開いてペンを持ったまま耳がダンボになっていた。
「もうその話はいいだろ。街は手首事件で不安になっている。引き続き一番街商店街の巡回で住民を安心させたまえ」
「了解しました」
不死川巡査は卯月巡査に目配せして誘い、一番街商店街方面の巡回に出た。
「出ましたね、不死川の引っ掛けが! 切込みは相変わらず健在ですね。かつての不死川さんを見せてもらいましたよ」
「間違いなく息子だね。馬淵巡査部長は息子を庇ってるね」
「…ですね」
「さて…どうするか」
「どうしますかね」
不死川巡査が取り押さえたストーカーの身元は逮捕した時点で既に判明していた。ストーカーは篠塚陽彦。馬淵巡査部長と別れた妻・聖子との間の息子だ。妻は旧制に戻って、息子の陽彦と篠塚姓を名乗っていた。陽彦は現在、母・聖子との同居を拒んで家を出てはいるが、彼の住民票は母親のもとにあった。陽彦はこれまで、“特定少年” の傘の下で度重なる前歴があった。この度のストーカー殺人犯が馬淵巡査部長の実子の犯行であることがマスコミに漏れると、警察の威信に関わるのかどうかは知らないが、不死川巡査は本署にこの事案を極秘事項にするよう指示されていた。
夕方になると全身がじっとりするのは、何も季節の所為だけではなかった。
〈『第19話 性犯罪者』に続く〉
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