第16話 手首
出勤するなり上杉所長は興奮気味に話し始めたので緊急報告のために待ち構えていた清水巡査は気勢を削がれた。
「今朝、珍しいものを見たよ、清水くん!」
「はい !?」
「カラス部隊だよ」
「カラス !?」
「未だに有ったんだな。戦後の風情だよ。君は知らないだろうが…」
上杉所長の蘊蓄の勢いは止まらなかった。1923年の関東大震災後、日常の食料調達がままならなくなった東京に、茨城や千葉の農家やその荷受け人たちが現金収入獲得のためにヤミ米や野菜や魚の干物など何段もの
「あの、所長、緊急報告が…」
その時、交番に男が駆け込んで来た。
「大変です!」
「大吉さんじゃないか、どうしました !?」
交番の前の一番街商店街で居酒屋「大吉」を経営している原田大吉だった。
「店の前に手首が!」
「手首 !?」
大吉が説明しあぐねていると丁度手首を銜えた犬が大吉を追っ掛けて寄って来た。驚いた上杉所長の素振りに、大吉も犬に気付いて仰天した。
「こ、これです…タバコの手首!」
上杉所長は平静を装った。
「質の悪いレプリカじゃないのか?」
「…ほ、本物の手首なんですよ!」
人差し指と薬指の間にまだ煙るタバコが挟まれた手首の鋭い切断部分から血が垂れているのを見て、上杉所長の楽観視は簡単に打ち消された。
「この犬が喰い千切ったのか !?」
「違います! この子は私が飼っている犬のペロです」
「じゃ、早く手首を放させて!」
「ペロ、放しなさい!」
大吉は必死に言うことを聞かせようとするが、ペロは自分の所有物だと主張しているのか、絶対に話そうとしなかった。上杉所長はジロリと天馬巡査を見た。
「何です、所長 !?」
「天馬巡査、君は下宿住まいで大家さんが弁当を作ってくれていたね」
「…ええ」
「今日のおかずは何だ?」
「唐揚げですけど…」
と言いながら、天馬巡査はすぐに上杉所長の狙いを察した。
「いくら何でも、それは勘弁してください、所長!」
「いいから、弁当のおかずを出しなさい」
「所長…」
「天馬巡査、この緊急事態を黙認する気か!」
仕方なく天馬巡査は弁当を開け、箸でご飯を摘まんだ。
「それじゃない。おかずだ。その唐揚げがいい」
「これ…自分の一番の楽しみなんすけど…」
「犬にやりなさい」
「そんな~…」
「早くしなさい!」
天馬巡査は仕方なく唐揚げを摘まんでペロにやると、ペロは加えていた手首を離し、唐揚げに喰い付いた。
「すぐに鑑識に!」
ペロに喰われる唐揚げを口惜し気に見ながら天馬巡査は手首を回収袋に納めた。巡回中の不死川巡査から緊急連絡が入った。一番街だけではなく駅裏商店街の道路のあちこちにも、タバコを挟んだ手首がごろごろ転がっているとの報告だった。現場が一番街の反対側と聞いて、上杉所長は交番を飛び出した。ペロは手首を回収袋に保管した天馬巡査を吠え続けた。仕方なく唐揚げのお代わりを与えるとおとなしくなった。
「すみません、お店に来た時に唐揚げをサービスしますから勘弁してください」
「いや、いいんですよ」
大吉はペロにリードを繋ぎ、申し訳なさそうに謝って去って行った。その頃、駅裏商店街の不死川巡査と合流した上杉所長は、弥栄子の言葉を思い出していた。“ガキどもの喫煙如きと思っていたかもしれませんが、今では商店街のマナーの悪さに人通りさえ減ってきている始末ですよ。西洋式かなんか知らんが、食べ歩きで散らかし放題、シャッターや電柱、道路へのタギング、一晩明けたらあちこちにゲロの博覧会。今じゃ役所の清掃員すらほったらかしですよ。誰が片付けると思ってるんですかね”…そして弥栄子はこうも言っていた。“先日から商店街の掃除はやめることになりました” と。その言葉通り、数日しか経っていないというのに商店街の荒れようは想像以上だった。上杉所長は胸騒ぎがして不死川巡査に手首現場を任せ、一番街商店街の弥栄子の家に向かった。
福留宅を訪問すると、玄関には“忌中”の紙が貼られて留守だった。上杉所長は弥栄子の夫・正一が救急車で搬送された日のことを思い出し、その後の対応の怠慢さに地団駄を踏むことになった。
上杉所長の怠慢というより、寒の入りの日の馬淵巡査部長と岩淵巡査部長の杜撰な対応に始まる。あの日、馬淵巡査部長らは弥栄子の訴えを下らん苦情の老婆としか捉えなかった。まさか手首事件にまで発展するなどとは想像だにしなかったが、ことの深刻さを思えば対応の拙さは否めない。
交番に戻った不死川巡査はひとり葛藤していた。不死川巡査の様子に唐揚げのなくなった弁当を食べていた天馬巡査が反応した。
「どうかしました?」
「“割れ窓理論” はどっちに適用させるべきかと…」
「割れ窓理論 !?」
割れ窓理論とはどんな軽微な犯罪も徹底的に取り締まることによって、凶悪犯罪を含めた犯罪全体を抑止することができるという理論だ。無神経な路上喫煙者によって齎された手首事件による割れ窓現象に恐怖の鉄槌を下すべきは、被害者か加害者か…不死川巡査は判断に迷っていた。
「どっちが真の犯人なのかと思ってね」
「真の犯人 !?」
「原因がなければ結果はない」
「鶏と卵ですね」
そう言いながら天馬巡査は、再び鶏から出来る唐揚げを思い、箸が留まった。そこに上杉所長が肩を落として交番に戻って来た。
「どうしました?」
「COPDって知ってるか?」
不死川巡査もCOPD(慢性閉塞性肺疾患)に苦しんだ過去を思い出した。
「自分も一時期、COPDに苦しんだことがあります。呼吸困難がどれほど不安になるか経験しました」
「君もヘビースモーカーなのか !?」
「いえ、私はたばこは吸いません。でも警察の寮生活では運悪く全員がヘビースモーカーでしたから、その副流煙に包まれて寮生活を送りました」
「…成程」
不死川巡査は板尾巡査が居た頃の記録簿を思い出した。一般には馴染みのない“COPD”の文字に目が止まったのだ。そしてそこに記載された福留夫妻の苦情の記録は、かつて不死川巡査が副流煙を嗅がされるたびに発作を起こし、喫煙者に殺意を抱くようになった頃のことを思い出させた。COPDの患者は症状が進むと、近くの喫煙だけでなく、数十メートル離れた場所の喫煙にも反応するようになる。風向きによってはかなりの距離でも発作が起こるようになり、そうした不運が続けば、やがて酸素ボンベを携帯しなければ日常を過ごせなくなるほど悪化の途を辿る。
不法喫煙による手首事件はその後も管内で度重なり起こった。夜が明けると管内の道路のあちこちに、タバコを挟んだ鋭い切り口の手首がごろごろ転がった。深夜、双方の商店街への救急車乗り入れが頻繁になり、搬送される犠牲者の喚き散らす光景も珍しくなくなった。
ところが、事件が起る度に不死川巡査には快感が走った。手首事件の捜査に前向きではなくなる自分に驚いた。そればかりか、その犯行が起こった明け番は、帰宅するとすぐにコーヒーを淹れ、その香りに包まれて己の五感が満足で満たされた。そして、犯人像に妄想を馳せながら、いつしか遺体処理法を考察するほど熱が入っていった。
朝になっていた。テレビを点けると警察官自殺のニュースが流れた。早朝の出来事がもう現場中継されている。板尾巡査の件かと思ったらそうではなかった。不死川巡査が六地蔵交番に配属される前の地域課交番だ。交番勤務の小林義則巡査部長(40)は交番内のトイレの壁に凭れ掛かった状態で左右のこめかみ付近から血を流して倒れているのを、巡回から帰って来た部下の
日勤の交番に到着すると、既に御馬舎刑事と東雲刑事が来ていた。一向に手首事件の犯人の目星すら付かない六地蔵交番に、本署からやって来て気合を入れて帰った。不死川巡査の犯人割り出しに消極的な姿勢は、同調する金城・天馬・烏丸・清水巡査らにも伝染していて、その後の捜査も極めて疎かだった。そして、上杉所長すらその事態を指摘することはなかったが、岩淵・馬淵のブチブチコンビは暇さえあれば手首事件の解決の弁を喚いていた。
「どのようにするのが効果的なのか具体的にご指導願えますでしょうか?」
金城巡査部長はブチブチコンビに “ご指導” を仰いだが、その都度 “巡回あるのみ” と答えるだけで、自ら巡回するでもなく、椅子の座布団を温めてウトウト過ごすだけの勤務態度で何の対策もない役立たずぶりを露呈していた。そうした無様を見る度、巡回から帰った巡査ら全員の妄想は、ブチブチコンビのその眉間に引き金を引いている己に違いなかった。
「いい昼寝日和だね」
その一言にウトウトしているブチブチコンビがしゃきっとした。
「すまん、起こしちゃったかな !?」
上杉所長の一言はウトウトには弾丸以上の衝撃があった。
「そう言えば、清水巡査」
「はい」
「緊急報告とか言ってなかったかい?」
「ええ、板尾巡査の件ですが…」
「郷里で自殺したという例の件ね」
「ご存じでしたか」
「板尾巡査が自殺 !?」
ブチブチコンビがハモった。
「正義感が強かったから、何か自分を許せない事情でも抱えていたんだろ」
「本当に自殺なんですか !?」
「鑑識の報告だからね」
「曽根崎健斗の毒殺の件と何か関係があるんでしょうか?」
「さあ、どうだろうね」
「もし、彼の死が自殺でないとしたら…」
「自殺でないとしたら?」
そう言って岩淵巡査部長は不死川巡査に鋭い視線を浴びせた。
「私が犯人だとでも仰りたいようですね」
「違うのかね」
「申し訳ありません。私が板尾巡査を見殺しにしました」
不死川巡査の言葉に、岩淵巡査部長のほうが張り付いた。
「突然の欠勤に気を配って、彼の自宅を訪問すべきでした。私の無関心が殺したようなものです」
すると、日勤の金城巡査部長と清水巡査も不死川巡査に倣って謝罪すると、上杉所長が思い出したように言葉を挟んだ。
「あれ !? その時、岩淵巡査部長はどうしてたのかね」
「自分は交番に居ましたが…」
「すると、君も板尾巡査の突然の無断欠勤には無関心だったわけだ」
「…はあ、無関心というわけ
では…」
「今後とも部下たちのお手本になってくれたまえ。宜しく頼む。では皆職務に戻って!」
交番内でひとりどんよりとしている岩淵部長とは対照的に、不死川巡査らが巡回に出掛けた空には初夏の訪れが広がっていた。
〈『第17話 触法少年』に続く〉
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